8-10.姫将軍
五階の勝手口から渡り廊下に出て、再び聖堂々舎に戻り、屋根裏部屋に連れて行かれた。中へ放り込まれたアミュウの後ろで、ガチャリと扉の錠が落ちる。窮屈な部屋で、中央から螺旋階段が始まっていた。そこから上は塔になっていて、照明はなく、階段の上方が明るい。ぐるぐると昇ってみると、明かり取りの窓があった。聖堂の屋根を見下ろす高さで、窓の外には後ろ向きの彫像が格子のように並び、簡単には出入りできないだろう。階下へ戻れば、階段に押しのけられたような格好で、粗末な寝台が据えられている。埃だらけの簀子の下に何か押し込んであると思って引き出してみると、旧式の尿瓶だった。ほかに家具はなく、テーブル代わりと言わんばかりの木箱があるのみ。寝台の反対側には、ぼろぼろに朽ちた掃除用具が立てかけてあった。
掃除人が住み込んでいたころに、この部屋をあてがっていたのだろう。アミュウはそう結論づけると、手始めに、塔の窓に取り付けられている嵌め殺しの埃よけを外そうとした。右側の桟は外れたが、もう片方が上手くいかない。長いあいだ奮闘したが、やがて諦めてベッドの掃除に取りかかった。
鐘の音が大音量で鳴り、心臓が跳ねた。螺旋階段を駆け上がり、窓を覗いてみると、すぐ脇に鐘楼があったのだった。よく観察すると、鐘の取り付けられた軸が動いているのがわかる。鐘撞き人の姿は見当たらない。きっと、鐘楼の下の方で軸を操作しているのだろう。
アミュウは、この小部屋が周囲から隔絶された場所であることを思い知った。何度か鐘の音を聞き、喉が渇いてひりつき始めたとき、折よく僧兵が水差しとパンを持ってきた。アミュウが部屋を掃除していたことに気付いた僧兵は、気を利かせて、水桶と洗濯済みの敷布を運んできてくれた。
日は傾いていたが、まだ外の明るさは残っていた。うす暗い室内にほこりが舞う。僧兵の武骨な姿を眺めていたアミュウは、兵士が尼僧であることに気付いた。髪は刈りこみ、ゆったりとした装備に身体の線が隠れていたが、くぐもった声の柔らかさや首のあたりの繊細さは女性のものだ。
彼女の行動や、尼僧を寄越したラファエロの振る舞いに、ある種の気遣いのようなものを感じたアミュウは、思い切って彼女に訊ねてみた。
「あの……聖輝さんはどこですか?」
「私にはお答えできません」
彼女は事務的に答えてから、やや表情を緩ませた。
「無事ですよ。安心してください」
「私たちはいつまでここに?」
アミュウが重ねて訊ねると、尼僧は首を横に振った。
「分かりません。後ほど、司教様からお話があるかと」
それきり、尼僧は部屋を出て外から鍵をかけていってしまった。アミュウは、運ばれたパンに手をつけようか迷った。ぐずぐずしているとじきに陽が落ち、この部屋は真っ暗になってしまうだろう。少し迷ってから、アミュウは部屋の掃除を優先することにした。
日没の鐘が鳴り、やがて部屋は完全な闇に閉ざされた。手を清め、幾分か寝心地がましになった寝台でショールの肩を抱いていると、暗闇に波紋を広げるように、ノックの音が響いた。「どうぞ」と応えながら、アミュウにはその訪いを拒否するすべがないことをぼんやりと思いうかべた。何しろ、外から鍵をかけられているのだ。
扉の向こうから姿を現したのは、司教のラファエロだった。手にした燭台を壁に作りつけられた棚に置きながら口を開いた。
「こんな場所ですまないね、シニョリーナ・カーター」
アミュウの耳にシニョリーナという響きは馴染まなかったが、カーター・タウンで言うところの女性の敬称「ミス」だということは理解できた。アミュウはつま先でモカシンの靴を探り、寝台から立ち上がった。
「聖輝さんはどこにいるの」
アミュウがつい先刻、尼僧へ向けたのと同じ質問をラファエロに投げると、彼は目を細めた。彫の深い目元がゆるみ、気迫がやわらいだように見えた。
「別の場所に匿っているよ。そう、何も知らないようだから、あなたには説明しなければならないと思ってね」
「姫将軍と言っていたわね」
間を置かずにアミュウが切り返すと、ラファエロは微笑んだまま頷いた。
「聖輝君が探しているという放浪の歌姫、あなたのお姉さんだ」
ラファエロは手ぶりでアミュウに座るよう示し、木箱に置きっぱなしにしていたパンを隅に避けて、自身も浅く腰を掛けた。蝋燭の灯の動きに伴って揺れる影は、彼の顔立ちの凹凸をくっきりと浮き上がらせていた。一段と濃い眼窩の影の中で、瞳に反映した炎が星のようにまたたいている。
一呼吸の間をおいて、彼は静かに語り始めた。
アモローソ・ディ・ロウランド。ひと月ほど前、ふらりとこのブリランテに現れた彼女は、自分がロウランド王家の正当な後継者だと名乗ったよ。領主マグダ・ディ・ブリランテは、ロウランド王家にゆかりがある。ブリランテ自治区は、もともとロウランド王弟ブリランテ大公が治めていた領地だからね。ロウランド王家直系は、革命で絶えた。そのときに果敢なくなった王女の名がアモローソというのは、すこし歴史をかじったことのある者なら知っている事実だ。当然、領主どのは後継者を騙る王女とやらを全面的に信用したわけではないだろうが、まったく無視することもできなかったようでね。何しろ、王女もどきは、体制派の情報をどっさりと抱えていたんだ。
クーデンのハインミュラー卿が聖堂騎士団を鍛え上げて僧兵部隊を編成していることは知っていたが、その規模、練度、装備といった具体的なところはなかなか掴めなかった。街道ではソンブルイユの連中が目を光らせているし、そうでなくても近ごろは怪物のような獣がそこら中うろついている。この街の人間が、ここから出ていくことは、よその人から見える以上に難しい。
そんな状況下、最新の情報を惜しみなく与えてくれた彼女を、領主どのは姫将軍として祀りあげた。ブリランテの誇りを守る自由の女神ってわけだ。革命に散った悲劇の王女が、ロウランドの血が受け継がれたブリランテの地を解放するために、いままたよみがえったという筋書きだ。街中の人々が歓喜に沸いたさ。たちまち彼女は注目を集め、お陰で義勇兵の数は倍増、士気も上がってずいぶんと幸先が良い。これなら悲願の独立も果たせそうな気がするね。領主どのは彼女を神輿に担いで解放戦争の準備を進めている。もちろんブリランテ教会も全面的に協力しているところだ。近く戦いの火蓋は切られるだろう。
ところで彼女は、こんなことを言っていた。聖霊の申し子が独立を阻むだろうと。御神楽は法王派に与するふりをしていて、実は国王派を利する動きを見せているとね。確かに、法王しか知らないはずの情報が国王派の教会にも漏れているようなふしはある。しかし、なぜそれを彼女が知っている? 彼女の目的はなんだ? 本当にブリランテの独立を願っているのか? それとも、いたずらに教会内の争いを煽っているだけなのか? 彼女が教会の利害関係に深く関わっているとは思えない。なぜ聖霊の申し子をスパイ呼ばわりする必要がある?
ラファエロはいったん言葉を区切り、目を伏せ、かさついた唇を湿した。アミュウは息をつめてラファエロの仕草を見ていた。司教が出鱈目を言っているとは思えない。ラファエロの次の言葉を待っていると、ラファエロは半ば瞼を開き、じとりとアミュウに視線を向けた。
「聖輝君は精霊の申し子と呼ばれている」
説明するというよりも、アミュウがそのことを知っているかどうか、確認するような目つきだった。アミュウは彼と目を合わせたまま、静かにうなずいた。
「きみの姉君はいったい何者なんだ」
アミュウは返事に詰まった。目の前の男にどこまで語ってよいものか判断がつかなかったというのもあるが、答えを持ち合わせていないというのもまた真実だ。アミュウにとって最愛の姉であるのは間違いないが、どこまでがナタリアで、どこからがアモローソなのか、アミュウにはよく分からない。アミュウが取り戻したいのはもちろんナタリアだが、アモローソの姿になってからの彼女を見ていると、両者は地続きで不可分の存在であるようにも思われる。アミュウは膝の上でこぶしを軽く握って言った。
「姉の中に、革命の恨みが深く根付いているのはそのとおりだと思います。でも、聖輝さんとのあいだに穏やかで楽しい時間があったのも確かです。私と聖輝さんは、姉を迎えるためにここへ来ました」
ラファエロは眉間に人差し指を当ててぐりぐりとこね回した。
「姫将軍からはこう聞いている。聖霊の申し子を排除せよ。ただし、彼のそばに妹君がいるならば、危害を加えてはならぬとね。ふたりが一緒に来た場合は、どうすればいいんだろうか」
「ナターシャがそんなことを……」
アミュウがぼんやりと呟くのを、ラファエロは手の動きを止めて眺めた。
「ナターシャ?」
「家族の中での呼び名です」
「ふぅん……シニョリーナ・カーター……ナターシャ・カーター。カーター・タウン町長のご息女が、確かそんな響きの名前だったか」
アミュウははたと口元に手を当てた。口を滑らせただろうか。ナタリアが運命の女だということは、マッケンジーが放った伝書鳩によって国王派牧師たちの知るところとなった。ラファエロは当然法王派の立場だろうが、あれからもう何か月も経っているのだから、ここブリランテに伝わったとしてもおかしくはない。
「聖輝君が町長のご息女を選んだというのは、風の便りに聞いているよ。なるほど、姫将軍は運命の女なのか。ずいぶんと嫌われているようじゃないか、あいつ」
吹き出したラファエロの笑顔が存外に優しげだったので、かえってアミュウは訝しんだ。
「あの……ジュリアーニ卿?」
「そういうわけで、聖輝君にそこらをうろつかれては困るのだよ。この街は彼を疑う人間だらけだ。せっかく法王猊下がブリランテを応援してくださるというのに、御神楽の御曹司に何かあっては立つ瀬がないからね。彼の身の安全は、このラファエロ・ジュリアーニの名において保障しよう」
有無を言わせない口調だったが、アミュウは抵抗した。
「選択肢がないのはずるいわ」
「状況が状況だから、ご理解いただきたいね。きみは聖輝君とも姫将軍とも通じているようだから、どちらに会わせることもできない。すまないが、おとなしくしていてもらおう」
ラファエロは立ち上がり、屋根裏部屋から出ようとして扉に手をかけたところで振り向いた。
「口に合わないかもしれないが、食べるように。朝食は品数を増やすよう、厨房へ言っておく」
彼の目線を追って、アミュウは手をつけていなかったパンの存在を思い出した。ラファエロは静かに部屋を出て、また鍵をかけて行ってしまった。
硬いパンを胃におさめ、ラファエロの置いていった蝋燭の灯りを頼りに冷たい水で体を清めながら、アミュウは暖かい季節になったことに感謝した。石造りの教会は、冬は底冷えがするだろう。やるべきことを済ませてしまうと、あとは何もすることがなかった。眠れそうにないと思っていたが、寝床に入ると、アミュウはたちまち眠りに落ちていった。




