8-6.検問
一歩外へ出ると、足元もおぼつかないほどの暗闇だった。ぼんやりと煙るようだった雲は今は分厚く、おぼろの月明りもない。建物から遠ざかるほどに闇は深まり、背後の鎧窓の隙間から漏れる灯火だけが光源だ。アミュウは聖輝の手を引いたまま、ゆっくりと慎重に歩を進めた。夜の散歩と洒落こむにはあまりに暗かったが、聖輝がちょこちょこと歩幅を狭めてついてくるのがなんだか愉快だった。
「宿からあまり離れると危ないですよ」
アミュウはもっと歩いていたかったが、聖輝の忠告を受けて立ち止まった。道の左手は崖になっていて、その下に広がっているはずの廃墟は夜闇に沈んで見えない。打ち寄せる波の音と、湿った潮の香りと、陸からゆるやかに吹いてくる風の冷たさが、感じられるものの全てだ。海の存在感が膨らみ、アミュウの内側を満たしていく。目を閉じたが、開いているときと大差なかった。
聖輝が手の指に一瞬力を込めたようだったが、すぐに緩めた。その動きで、アミュウにはまだほかに感じられるものがあったと、手のぬくもりを思い出した。手を繋いでいるのがあまりに自然で、意識に上がらなかったのだ。アミュウはそっと聖輝の手を放した。繋いでいたのと反対の自分の手に触れてみると、ひんやりと冷たかった。
「ジークが」
アミュウの口から滑り落ちたのは、考えていたのとはまったく別のことだった。聖輝が息を詰める気配をうっすらと感じながら、アミュウはそのまま続けた。
「ビールを流していたんです。あのへんで、明け方に」
見えもしないのに、アミュウは崖下の瓦礫を指した。アミュウが何を指差しているのかは聖輝にもきっと見えなかっただろうが、聖輝も崖下に顔を向けているらしかった。彼はずいぶんと長い間黙っていたが、やがてぽつりとこぼした。
「あいつには、ずいぶんと借りを作ってしまったと思いますよ」
その言葉を聞いて、伝わったとアミュウは感じた。聖輝がいないあいだに、アミュウがジークフリートとどんな時間を過ごしていたのか。その温度と湿度を切り取って、ほんの少し聖輝に伝えることができた。じんわりと広がる満足感を静かに噛み締めていたアミュウは、先ほど、ロサと聖輝が食堂で話し込んでいたときに感じたなつかしさの正体を見た気がした。まだ聖輝と出会ったばかりのころ、カーター邸の居間兼食堂で、同じように聖輝はナタリアとワイン談義を繰り広げていたのだった。あれは縁切りのまじないをかけた直後のことだ。ふたりの間に今のようなわだかまりはなく、ナタリアは客人である聖輝に対して、カーター・タウンのワインの素晴らしさを延々と語っていた。聖輝の足元には空の瓶がゴロゴロと転がっていた。得体のしれない聖輝が胡散臭くて仕方がなかったアミュウは、災難除けのまじないとして聖輝に塩コショウ入りのワインを飲ませた。彼を追い払いたかったのだ。ジークフリートがカーター・タウンに流れ着いてからは、エミリの店「カトレヤ」に四人で入り浸り、あれやこれやと話し込んだものだった。
聖輝がナタリアを追い求めていることに胸を痛めたが、アミュウは結局、あの時間を取り戻したいのだ。
「私もです。借りたものは返さなきゃ」
アミュウが笑って言った。アミュウが笑っていることは、聖輝にはよく見えなかっただろうが、その気配は伝わっているはずだとアミュウには分かった。聖輝は返事をしなかったが、やはり笑っていると感じられたからだ。
沈黙は潮騒に押し流されていった。どちらからともなく、二人はホステル・ヴェレヌタイラに戻った。
薄壁の部屋に入ると、ロサはアミュウのベッドに背を向けて眠っていた。アミュウも薄い布団に潜りこんで目を閉じた。すぐ近くにロサがいて、壁の向こうには聖輝とカルミノがいる。この奇妙な巡り合わせにうんざりしながらも、自分という場所からうんと離れて考えてみると、ほんのわずかの面白みを感じることができる気がした。
ヴェレヌタイラを出るとき、聖輝は見慣れない服を着ていた。朝食のときにはいつものジャケットとトラウザーだったから、わざわざ着替えたのだと分かった。ひと昔前の型の上着に、だぼついたズボンを合わせている。どちらもくたくたの古着だ。馬車に乗り込んだ聖輝は、アミュウにだけ分かる程度のかすかな不機嫌をにおわせていた。
クーデンへ向けて街道を南下するあいだ、終始沈黙が車内を満たしていた。ぽかぽかの陽気なのに、空気は冷たい。ロサがピッチに話しかける声が時おり聞こえてくるだけだった。
(まるでカルミノがふたりいるみたい)
昨晩、すこしでも面白いなどと感じた自分が馬鹿らしく思えて、アミュウの気は塞いだ。幌の外は草花が芽吹いて小鳥が飛び交い、春爛漫といった風情だ。遠くにツノの抜け落ちた鹿の姿も見つけることができたが、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすには至らない。
水場で馬を休ませているあいだ、アミュウは馬車からはなれていた聖輝に訊ねてみた。
「なにを怒ってるんですか」
「怒ってなんかいませんよ」
聖輝は両手を組んで上へ伸びたり左右に身体をよじったりしていた。少しも表情が乱れることはなかったが、かなり痛むはずだ。思わず「大丈夫ですか」と訊きそうになったのをアミュウがこらえていると、聖輝は飄々と言った。
「すっかり体がなまってしまいましたからねぇ」
みすぼらしい上着は肩が落ち、肘にきれが当てられている。ズボンは腰回りがぶかぶかなのに、丈が寸足らずだ。聖輝の頭からつま先までを眺めるアミュウの視線に気付いたのか、聖輝は干からびた笑みを浮かべた。
「ひどい格好でしょう? 無理矢理着させられました」
「カルミノに?」
「選んだのは彼女らしいですがね」
聖輝は沼で馬の世話をしているロサの方をちらりと見やった。アミュウは曖昧な相槌を打った。
「変装、ですか」
「ジャポネーズは目立つからと言われましたよ。街に近付いたら、さらに帽子が加わりますよ。ものすごく、ダサい帽子です」
自嘲気味に笑う聖輝の目に悲哀が浮かぶ。アミュウは聖輝に同情したが、変装には賛成だった。背が高く、黄色い肌をもつ聖輝はいやでも目立つ。わざわざ冴えない格好をしているカルミノやロサと同じように身をやつすべきだろう。
(私はこのままでいいのかしら)
アミュウ自身は普段着のままだ。これといった特徴のないカーディガンとスカートに、いつものキンバリーのショールを羽織った姿は、人の記憶に残るものではないだろうが、アミュウはなんとなく不安を覚えた。
嫌な予感は的中した。
クーデンを通りすぎてブリランテに近付くころ、カルミノは積み荷の木箱の蓋を開き、アミュウに向かって顎をしゃくってみせた。
「入れ」
「は!?」
カルミノの意がまったく汲みとれず、アミュウは大声をあげた。カルミノは眉をひそめて大儀そうに説明した。
「この先に検問がある。商人を装うが、大所帯は不自然だ。貴様はこの中に隠れてろ」
カルミノたちがアミュウのためには変装用の衣装を用意していなかったのは、どうやらはじめから積み荷の中に隠すつもりだったかららしい。有無を言わせぬ口調に気圧されていると、聖輝が助け船を出してきた。
「アミュウさん、狭いところは苦手でしょう。私が隠れますよ」
「その図体でか?」
カルミノが鼻を鳴らす。
「彼女はスタインウッドのエヴァンズ司祭のところで、閉じ込められたんですよ。どこかの誰かが吹聴したせいでね――確かに、私の身を隠すのに、その箱は少々小さいかもしれません。そちらが適任では?」
淡々と言い返す聖輝の言葉に、御者席のロサが大きく吹き出した。
「違いないわね」
「うるさい!」
カルミノは憤りをあらわに怒鳴り散らしてから、仏頂面で木箱に短躯を押し込み、自ら蓋を閉めた。箱板はいびつな作りで、隣同士に隙間ができているから、外の様子をうかがうことはできるだろう。息が苦しくなることもなさそうだ。ロサが愉快そうにくつくつと笑ってから、アミュウたちに指示した。
「ほら、上に荷物を積んで、箱を隠して」
その言葉どおり、木箱になるべく軽そうな籠を積んだり、鞄を立てかけると、カルミノの気配は見事に消えた。仕上げにもうひとつの木箱をカルミノの隠れる木箱に寄せた。
聖輝はくたくたの帽子を目深にかぶる。アミュウは頭にスカーフを巻いて金の巻き毛を隠し、いつものショールではなく、適当な布を羽織った。最後にピッチの鳥かごに布をかけて「静かにしていてね」と声をかけると、ロサは変装の「設定」をアミュウたちに手短に話した。
すれ違う馬車や徒歩の旅人の数が増えてきた。おんぼろの馬車は、速すぎず遅すぎない速度でブリランテへと向かう。街のシルエットが見えてくると、行く手を行列が阻んだ。ペリアーノ川の手前に検問所が設けられているのだ。既に日は傾き、黄ばんだ光が川面に散っている。検問までどれだけ時間がかかるだろうかと気を揉んだアミュウが幌から身を乗り出すと、ロサに叱られた。
「じっとしてなさい」
大人しく車内におさまったアミュウを見て、聖輝が苦笑する。
「流れは悪くありません。そんなに待たないでしょうよ」
はたして聖輝の言うとおり、アミュウたちの馬車の順番はすぐにやってきた。川の此岸に設置された検問所は、検問所というにはあまりにも規模の大きなテント群だ。春の夕暮れの川辺の牧歌的な雰囲気にそぐわない白いテントでは、既に炊き出しの準備が進んでいるようだが、一体何人分の飯を作るのか、即席のかまどの近くには随分と大きな寸胴鍋がいくつも転がっている。
「ええ、ラ・ブリーズ・ドランジェから商売で。生活雑貨全般を扱っています」
検問に対応しているのは、雑貨屋のせがれを演じる聖輝だ。車内を覗きこんでくる検問官の腰に剣だの警棒だのがさがっているのを、アミュウは見た。
「三人か。御者が女とは珍しいな」
「ふだんから家畜の世話をしていて、こいつがいると馬が落ち着くものですから」
聖輝の説明に、ロサは声を発しないままおどおどと頷いてみせた。検問官は、今度はアミュウの方を見て訊ねた。
「こっちの女は?」
「売り子です」
聖輝が答えると、検問官は馬車の後ろにまわり、荷台の後ろのほうの荷物へと手を伸ばした。カルミノの隠れている箱の手前に積んだ木箱だ。蓋をあけると、中には石鹸箱や香油の瓶、ブラシやタワシのたぐいが隙間なく詰められている。
「よし、通れ」
検問官が手を振ると、橋の前に陣取る兵士たちが道の両脇へ退いた。ロサは馬車をゆっくり馬を歩かせる。素朴な木の橋は幅が広く、欄干はなかったが安心して渡ることができた。対岸から振り返ってみると、検問所に数十人の兵士が詰めているのがよく分かった。
「ねぇ、もしこの馬車がなければ、あんたたちはどうやって検問を切り抜けてた?」
ロサが意地悪そうに問いかけると、聖輝は観念したように言った。
「どうもこうも……身分と目的を明かして正面突破するつもりでしたが、自分の甘さを痛感しました」
「そうね。確実につかまって、王都へ送り返されるところだったわね」
素っ頓狂な声をあげたのはアミュウだった。
「え? 逆でしょう? ブリランテは独立派の加勢なら大歓迎でしょ……まさか、さっき検問してたのって」
アミュウは手で口を覆うと、聖輝が頷いた。
「ええ。検問していたのは、ソンブルイユ軍警の連中でした。あの検問は、ブリランテを守るための関所ではありません。孤立させるための牢獄の扉です」




