8-4.ディムーザンの馬車
「駅馬車? 舐めてるのか? 西へは出んぞ」
八栄の淹れた茶を一口啜ってから、カルミノは言った。
「もう止まっているの?」
アミュウが訊ねると、カルミノは大儀そうに胡坐の膝に頬杖をついた。マリー=ルイーズがその膝を一瞥すると、カルミノはそそくさと正座に座り直した。
「カーター・タウン方面なら問題ないが、西部は駄目だな。先週はクーデンまで行けたが、今はもう運休になっている」
「軍警の出兵も秒読みね」
カルミノとロサの言葉に、アミュウは落胆した。確かに見通しが甘かったのかもしれない。暖かくなり雪は溶けただろうが、今の聖輝の体では徒歩など到底無理だ。どうしたものかと考えあぐねていると、マリー=ルイーズが口を開いた。
「足にお困りでしょう? わたくしたちがお話したかったのは、まさにそのことですの。単刀直入に申し上げます。ディムーザンの馬車をお出ししますから、カルミノとロサに、道中のお供をさせてくださいな」
アミュウは声をあげてのけぞったが、隣の聖輝を見れば、それほど驚いているようには見えず、顎に手を添えて薄笑いを浮かべていた。しかめ面でアミュウは聖輝の腕をつついた。
「聖輝さん、知ってたんですね」
「いえ。ただ、あの父なら何かしら手を回すだろうと考えていただけです」
にやにやと笑う聖輝とは対照的に、マリー=ルイーズはカラリと朗らかな笑みを浮かべた。
「御神楽卿から、聖輝様が特使としてブリランテへ向かうと伺いましたの。ただ、このようなご時勢でしょう? 怪我の治りきっていないお身体では何かと危険です。この二人なら頼りになると保証いたします」
「特使……?」
聖輝の顔からにやついた笑いが消えた。マリー=ルイーズは、オウム返しのあった聖輝ではなく、アミュウの方を見ながら説明した。
「ええ。ディムーザンを含む法王派の牧師たちはブリランテ独立運動を支持しておりましたが、法王猊下ご自身はこれまで、表向きには中立のお立場を貫いておいででした。もちろん、法王派の牧師たちが国王陛下からの責めを受けないよう、矢面に立って守って下さっていたということなのですが……このたび、とうとう法王猊下が、国王陛下にブリランテ独立の容認を進言するお覚悟を固められました。聖輝様は、そのことをブリランテ側へ伝える密命を負われたのです」
「ちょっと待ってください、マリー嬢! なんの話ですか。私は父から何も聞かされていませんよ」
泡を食った聖輝が片手を挙げて言う。マリー=ルイーズは小首をかしげた。
「あら、そうでしたの? わたくしはそのように聞きましたわ。御神楽卿が大事なご子息を直接ブリランテへ遣わすのだから、ディムーザンが全面的に協力せねばならぬと。わたくし、父とは意見が合わないことが多いのですが、今回ばかりは賛成です」
「俺は賛成できないがな」
カルミノは小声で言い、そっぽを向いた。ロサはむしゃむしゃとビスキュイをつまんでいる。聖輝は反論した。
「確かに父の言いそうなことだ。ですがマリー嬢、それで独立の片棒を担ぐというのは、ドゥ・ディムーザン卿のリスクがあまりに高い。危険です」
「もとより、ディムーザンはブリランテに味方するつもりでおりました。目的が同じなら、ここは力を合わせましょう」
マリー=ルイーズの説得を聞いて、アミュウにも合点がいった。糺は、聖輝がブリランテへ赴く理由を、ナタリアの捜索から独立運動の後押しへとすり替えることで、法王派の牧師たちの支持を得ようという魂胆なのだ。アミュウは感心すると同時に、うっすらとした嫌悪を覚えた。息子を都合の良い偶像に仕立て上げているのではないか。
「……だそうですが……どうしましょうか?」
聖輝がアミュウに訊ねてきた。カルミノやロサのしでかしてきた所業に対するアミュウの忌避感に気遣っているのだろう。だが、マリー=ルイーズの申し出を断れば、ブリランテ入りは果たせない。この情勢では、遠距離の貸し馬車を用意できる見込みもない。
「行きましょう。今はあれこれ選んでいる余裕はありません」
きっぱりとアミュウが答えると、聖輝の表情がやや緩んだ。ロサは食べ終わったビスキュイのカスを集めているが、耳はしっかりとこちらに向けている様子だ。カルミノは普段通りの仏頂面だった。マリー=ルイーズは聖輝に礼を述べると、アミュウに向かって弁明した。
「申し訳ございません。アミュウさんには、今後干渉するなと言われておりましたのに……真逆の行動をとってしまって」
「いいえ」
アミュウはゆっくりと首を横に振ってマリー=ルイーズに微笑みかけた。
「あなたは確かにドゥ・ディムーザン卿とロサたちの態度を変えてくれたわ。ありがとう」
カルミノが舌打ちするような音が聞こえた気がしたが、アミュウは構わず続けた。
「友だちになることは、干渉とは言わないわ」
マリー=ルイーズの目が輝き、さらさらとしたプラチナブロンドを揺らして、微笑みを返してくる。
梅のジャムをはさんだビスキュイは美味だった。口中で生地がほろりと崩れると、バターの香りが広がる。噛めば梅の甘酸っぱさと芳香がじゅわりと染み出した。アミュウは令嬢の心遣いを思う。監視の多いであろう不自由な暮らしの中で、わざわざ土産を選んでくれたのだ。きっと、アミュウが考える以上の障害があるはずだ。
帰りがけに、ロサはアミュウにピッチを返すよう迫ったが、当のマリー=ルイーズは固辞した。アミュウが連れてきたピッチを撫でながら、彼女は語りかけた。
「ナタリアさんに会いたいのよね」
「ナターシャ、どコ?」
ピッチは甘えるようにマリー=ルイーズの手に頭をこすりつけたが、出てきたのは別の手を求める声だった。マリー=ルイーズが寂しそうな目を見せたのはほんの一瞬で、アミュウに向き直ったときには、いつもの淑やかな笑顔に戻っていた。
「ご迷惑でなければ、ブリランテへ連れていってあげてくださいな。この子は、ナタリアさんに会いたがっています」
ロサがほとんど反射的に声を上げた。
「戦場になるっていうのに」
「危険は承知しています」
非難が混じっているともいえそうなロサの叫びに動じず、マリー=ルイーズは穏やかに言い切り、ピッチから手を離した。
「出立は明日だ」
カルミノが有無を言わせない調子で言うと、聖輝が視線を送ってきた。
(良いですね?)
急といえば急すぎる展開ではあったが、急いでいたのはもともと同じだ。旅支度ならあらかた済ませた。足りないものがあれば、ブリランテで用立てればよい。アミュウは腹を据えて頷いた。
翌朝、聖輝とアミュウはピネードの山を下りた。深輝と八栄は屋敷での見送りにとどまったが、ヒコジは山道のあいだ、聖輝の身体を支えてくれた。意外なことに、糺までもが見送りに加わった。糺は聖輝の荷物を背負って先頭を歩いていたが、歩調が速く、のろのろと坂を下る聖輝との距離はたびたび広がった。アミュウはそのたびに糺に立ち止まるよう声をかけた。
山を下りたところでヒコジと別れ、馬車鉄道でフォブールまで乗りつける。駅前広場の駅馬車の停留所から少し離れたところに、年季の入った幌馬車が停まっていた。個人の商売でよく使われる、二頭立ての小型馬車だ。ラ・ブリーズ・ドランジェで乗せられた黒塗りの馬車を探していたアミュウは、そのおんぼろ馬車の御者席にロサが座っているのを見つけて驚いた。
ロサはいつもの黒いドレスではなく、冴えない色のワンピースに白いエプロンを巻いていた。付け襟は、太い糸で編んだ素朴なレース編みだ。洗練されたファッションとはとても言い難い。彼女らしくない格好をしているものだと、アミュウが怪訝な顔で眺めていると、こちらに気付いたロサが仏頂面をついと幌の内部へと向けた。すぐにカルミノが出てきたが、こちらも田舎じみたぶかぶかのジャケットを羽織っていて、服の中で身体が泳いでいそうだった。
カルミノの後から壮年の男性が姿を現し、荷台を下りてきた。野暮ったくはあるが、きちんと整った上着の裾をつまんでピンと張りながら、彼はアミュウたちに――より正確に言えば、糺に近付いた。
「御足労いただきまして恐縮です」
男は山高帽子を脱いで礼を取った。後退した生え際はふわふわと灰色に輝き、丸い輪郭は柔和な印象で、人好きのする顔立ちだ。ひげの下の口元はにこやかだった。糺も笑顔で応じ、右手を差し出した。
「いやぁ、お礼を申し上げたかったのですよ。馬車を出してもらって、助かりました」
握手を交わす二人を眺める聖輝の目は冷ややかだった。あのカルミノがかしこまっているのを見れば、アミュウにも男性がディムーザン卿であるのだろうと分かった。成り上がりの枢機卿にしては随分と質素な身なりだが、お忍びなのだろう。思えば、糺も地味な服装だ。聖輝にしても、目立つ祭服は鞄にしまいこみ、今は色あせた黒のジャケットに尻ポケットの擦り切れたスラックスという出で立ちだ。
聖輝は、教会法王派のブリランテ独立支持表明を伝えるという役目を帯びている。仮にいま、ここで、軍警にそのことを知られたら、御神楽もディムーザンもただでは済まされないだろう。累はカリエール法王にも及び、国中が混乱に陥るかもしれない。アミュウは今さらながら気後れしてきた。ディムーザン卿は、よく危ない橋を渡ろうとしたものだ。この局面で手を貸すことの値段をかなり高く見積もっているのだろう。
世間話に花を咲かせる二人は、どこにでもいる商人同士が愛想を使いあっているようにしか見えない。フォブールはせわしなく行き交う人であふれていたが、誰も彼らが枢機卿であるとは思わないだろう。アミュウは二人の振る舞いにうすら寒さを覚えた。自宅での糺の非情ともいえる厳しさを知っている身からすると、目の前で彼が手品のように次々と繰り広げてみせる世慣れた朗らかさが気色悪く感じられる。ディムーザン卿も、糺と同じかそれ以上に如才ないが、マリー=ルイーズから聞いている話とは随分印象が異なる。その外面の良さがそら恐ろしい。
彼らの会話を右の耳から左の耳へと流して聞いているうち、どうやら出発の運びとなったらしい。先に荷台に乗り込んだ聖輝がアミュウに手を差し出した。ステップのない馬車にひとりで乗るのは難儀だろう。アミュウはおずおずと聖輝の手を取り、荷台へと引き上げてもらった。最後にカルミノが荷台へ上ると、広げたままの幌のカーテンを覗き込むようにして糺が声をかけてきた。
「聖輝、しっかりやりなさい」
「心得ています」
はっきりと返事をする聖輝の目に光が宿っていないのを、アミュウは盗み見た。
(お父さんのことを、諦めているんだわ)
ロサが手綱を譲ると、おんぼろの馬車はすすり泣くように軋みながらゆっくりと動き始めた。二人の枢機卿は、軽く手を振って見送る。大袈裟な壮行ではなかったが、真剣なまなざしだった。聖輝はさっさと幌の奥へ引っ込み、腕も脚も組んで目を閉じてしまった。その肩にのしかかる期待と責任の重さを思うと、アミュウにはかけるべき言葉が見つからない。父親から息子へと向けられた視線をわずかでも遮断できたらと、荷台の後部に座って曖昧に手を振ると、糺は手を下げた。アミュウは舌打ちを好まなかったが、このときばかりはそうしたい気持ちに駆られた。




