8-1.退院【挿絵】
まだ葉が萌え出たばかりの、ほとんど裸の松林の中に、ぽつんと桜の木立がある。紙細工のような花弁の合間を、鮮やかな緑色の小鳥たちがせわしなく行き交う。メジロだ。メジロたちは団子になったり離れたりを繰り返しながら、桜の蜜を吸っていた。
鳥のさえずりに加えて、山道を下りきる前から、豊かな水の流れる音が聞こえてきた。雪解け水を集めたムーズ川だ。欄干のない流れ橋から下を覗くと、随分と水嵩が増していた。ゆるんだ空気に春風の芳香が溶け込んでいる。
馬車鉄道は使わずに、アミュウは歩いてソンブルイユ教会へ向かった。門前町で花を買おうか迷ったが、荷物になるといけないと考え直し、花屋の前を素通りした。大聖堂の中に入るのがなんとなく躊躇われ、納骨堂の脇の裏道から施療院を目指す。坂道の途中にはムスカリの花の群生があった。聖輝に見せたかったが、帰りは正面の大聖堂を通って表から出ることになるだろう。
施療院に入り、長椅子の並ぶ廊下を進む。何度となく訪れた場所だ。奥の病室の戸を叩き、返事を待って扉を開く。
「やあ、わざわざ来てくれてありがとうございます」
ベッドに腰かけた聖輝が片手を挙げて出迎えた。布団は既に整えられていた。聖輝はジャケットを羽織り、靴を履いている。傍らには新調した二重マントがあった。準備万端のようだ。アミュウは病室に身体を滑りこませて訊ねた。
「具合はどうですか」
「快調ですよ。やっと家に帰れるかと思うと、飛び跳ねたいくらいです」
「傷に障るからやめてくださいね」
釘を差してから、アミュウは聖輝のベッドの周りをぐるりとまわった。忘れ物はないようだ。聖輝はゆっくりと立ち上がり、ベッドの並ぶ合間を歩いていき、窓を開けた。すぐ外の春の空気がゆるゆると病室に広がっていく。時を告げる鐘の音に、目を閉じて聞き入る聖輝の横顔を、アミュウはそっと盗み見た。聖輝が立ち上がり、歩いている。たったそれだけのことが、奇跡に感じられたのだ。
病室の扉が開き、紙袋を抱えた施療の牧師が入ってきた。
「御神楽さん、体調はいかがかな」
聖輝は苦笑いを牧師に向けてから、アミュウの方を見た。
「今、彼女に同じことを訊かれました」
「大丈夫そうですね」
牧師は聖輝に紙袋を手渡す。薬湯の飲み方を一通り説明するが、聖輝自身にも施療の心得があるので、ざっくりした伝え方だった。
「とにかく無理をしないこと。見立てよりも早く傷がふさがりましたが、長期間の入院で身体は確実に弱っています。今までどおりに動けるとはくれぐれも思わないように」
牧師の言葉に、聖輝は頷いてみせた。
「心得ております」
「ご退院、おめでとうございます」
姿勢を正した牧師に、聖輝も背筋を伸ばして向き直った。
「お世話になりました」
「あなたの快復は、我々の希望です。どうぞお大事に」
アミュウは聖輝の荷物を背に抱え、先を歩いて大聖堂を抜けた。
入院の長引いた聖輝の荷物は、そこそこの量があった。彼の革鞄を背負うアミュウの後ろで、聖輝は長身を縮こませていた。
「持たせてしまって不甲斐ないです」
「私が持たなくちゃ、せっかく来た意味がないでしょう」
門前町をすたすたと歩きながら、アミュウはつんと澄まして答えた。聖輝はますます小さくなった。
「だから深輝姉の代わりに来てくれたんですよね」
申し訳なさそうに話す聖輝の方を、アミュウは肩越しに振り返った。いつもよりも歩幅が狭く、歩みの遅い彼に無理をさせないよう注意を払う。
「深輝さんも首を長くして待ってますよ。さ、帰りましょう」
聖輝は気恥ずかしそうに頷き、アミュウの後をゆっくりとついてきた。
馬車鉄道を乗り継いでピネードに戻ると、今度は山道が待っている。ムーズ川の流れ橋ではヒコジが両手を振って待っていた。
ヒコジは急な斜面を上がる聖輝を助けた。普段は十五分の山道を、たっぷり倍の時間をかけて上りきり、御神楽邸のある段丘へ到着したとき、アミュウは安堵のあまり、うっかり本音をこぼしてしまった。
「御神楽家って、枢機卿の家系なんでしょう。どうして教会の近くに住まないんですか」
「私も、今ほど市街地に家があったらと思ったことはありません……ほら、御覧なさい。あそこに城が見えますね」
聖輝は眼前に広がるソンブルイユの街並みを指す。その視線の先には、山のふもとを流れるムーズ川の向こうに王城の主塔が突き立っていた。
「城よりも奥、しかも川を隔てた山の中。ここがどういう場所か分かりますか?」
アミュウは頭をひねる。
「天然の要塞……ってことですか」
「要塞というほどのものではありませんが。この場所に家が建てられたのは、革命運動が盛んになったころだと聞いています。ソンブルイユ将軍は、聖霊の申し子である啓枢機卿の居所を防衛していたのでしょうね」
城を見下ろしながら聖輝は説明した。当時、御神楽の血筋は城よりも大切なものとされていたのか。アミュウが市街地を見下ろし革命時代に思いを巡らせていると、屋敷の入口ではヒコジが戸を開けて待っていて、深輝がひょっこり顔を出していた。
「おかえりなさい! ふたりとも寒いところにいないで、早く上がっていらっしゃい」
聖輝は屋敷の方を振り返って笑った。
「ただいま」
深輝へ向けられた聖輝の笑顔に、アミュウはどこかあどけなさに近いものを感じた。住み慣れた実家に戻ることができてほっとしているのだろう。聖輝と一緒に戸口をくぐると、深輝の足元をうろつくピッチがアミュウに「おかえリ!」と言った。聖輝は顔をしかめた。
「この鳥、私には絶対におかえりを言ってくれませんよね」
大きく膨れた腹を抱えて笑う深輝に、アミュウは頭を下げた。
「ピッチの面倒を見ていただいて、ありがとうございました」
「とってもいい子だったわ。少しは私に慣れてくれたみたいよ」
深輝の後ろから八栄が進み出て、アミュウの背負っていた荷物を受け取った。八栄はさらに聖輝の脱いだ二重マントも受け取ろうとしたが、聖輝は断った。
「これくらい持てますよ。今の今まで着ていたものですから」
聖輝の部屋は小ざっぱりと整えられ、布団が敷かれていた。聖輝は八栄の心遣いに礼を述べながらも、まだ休まないと言い張った。
「話さなければならないことがたくさんあります。アミュウさん、深輝姉。このままここにいてもらえませんか」
「馬鹿、今は体を休めて傷を治すことが最優先よ」
深輝が聖輝を諫めるが、聖輝は譲らなかった。
「もう充分に休んだし、傷なら塞がった。事態が切迫しているのは、深輝姉も分かるだろう」
深輝はアミュウに目くばせした。アミュウは部屋を退出しようと後ずさったが、深輝の強い視線がアミュウを引き留めた。深輝は聖輝の枕元に座り込んだ。
「分かったわ。ひとまず横になりなさい。寝てても話くらいできるでしょ」
深輝が座ると、ピッチも彼女の膝に乗った。その羽を一撫でしてから、深輝は自分の隣の畳のスペースをぽんぽんとたたいた。
「さ、アミュウさんも」
アミュウは仕方なしに頷き、部屋の片隅に積んであった座布団を三枚持ってきて、二枚を重ねて深輝に渡し、一枚は自身の尻の下に敷いて座った。ピッチが深輝の膝を離れ、アミュウの方へ寄ってきた。
第八章「軍靴、蒼天に響けば」のスタートです。
アミュウたちの旅路を引き続きお見守り下さいませ。




