7-30.もう一つの別れ【挿絵】
絹の道を歩き、街門近くまで戻ってくると、アミュウは駅馬車の事務所に運行状況を確認した。幸いにも、今日の午後にラ・ブリーズ・ドランジェ行きの便が出るようだった。今晩はヴェレヌタイラで過ごし、翌日の夕方にはラ・ブリーズ・ドランジェに着くだろう。ソンブルイユ行きの精霊鉄道に間に合えば幸運だ。
「わたし、この便に乗ってソンブルイユへ戻るわね」
アミュウの言葉にジークフリートは即答した。
「送るよ」
「馬鹿!」
アミュウはジークフリートを叱咤した。
「あなたはナターシャを探しにブリランテへ行くんでしょう? 反対方向よ。ねえおじさん、ブリランテ行きの駅馬車でいちばん早いのはいつですか?」
アミュウの質問に、眠そうな事務員はカレンダーを見ながら答えた。
「明日の昼ですな」
「ほら。ソンブルイユまで戻ったら、下手したら一週間の無駄になるわよ。明日の便でブリランテへ行かなくちゃ」
「でも、危ねえし……」
「平気! ドロテさんの香水だってあるし、大丈夫よ。ラ・ブリーズ・ドランジェ行きの切符をください、おじさん!」
心配するジークフリートをよそに、アミュウは支払いを済ませると駅馬車の事務所を出て、ローゼナウ通りからクララ横丁へと大急ぎで戻る。この街ではいつもアミュウを先導していたジークフリートは、今は黙ってアミュウの後をついて歩いていた。
つぐみ亭に戻ると、アミュウは普段着に着替え、手早く荷物をまとめて、鳥かごのピッチに「出発よ」と声をかけると、一階に下り部屋代を支払った。ヒルデガルドたちからもらった金貨ではなく、もともと持っていたお金で支払いを済ませることができた。
ジークフリートも部屋を引き払おうとするのを、アミュウはぴしゃりと止めた。
「ジークは明日の便でしょう。今晩はここで眠るのよ」
「でもよ。俺、聖輝と約束したんだ。アミュウの護衛をするって……」
「ナターシャの護衛も、でしょ。これまでありがとう、でもたった今からはナターシャを守ってあげて。そのためには一刻も早く、居場所を探し出してくれなくちゃ」
アミュウは主人に「お世話になりました」と挨拶し、食堂のテーブルのあいだを縫って扉までたどり着くと、もう一度軽く頭を下げて外へ出た。ドアベルが控えめに鳴った。クララ横丁に出てやや歩いてから、後ろの方で再びベルが鳴った。ジークフリートがつぐみ亭から出てきたのだ。
ジークフリートは大股で歩き、すぐに距離を詰めてきたが、無言だった。アミュウも何も喋らなかった。気安くしゃべって笑い合いたいのに、話すことがひとつも見つからなかった。
仕掛け時計が十二時を告げる。派手な鐘とオルゴールの音が鳴り響き、人形たちが愛らしいダンスを披露すると、ピッチが興奮して鳥かごの中で頭を前後に揺らした。しかし、今のアミュウには、足を止める余裕はなかった。午後の駅馬車の便を逃すわけにはいかない。
マルクト広場のあの屋台で、ヴルストをはさんだパンを買った。駅馬車の中で食べるつもりだ。屋台の主人にアミュウが支払いを済ませるあいだ、ジークフリートはずっと複雑な顔でアミュウを眺めていた。
ローゼナウ通りを抜けて街門近くまで来ると、ジークフリートはやっと口を開いた。
「……ごめん」
「どうして謝るの」
アミュウは駅馬車待ち合いの長椅子に腰かけて、ジークフリートを見上げた。ジークフリートは眉を寄せて、唇を引き結び、今にも泣きそうな顔をしていた。アミュウはふっと笑った。
「あの二人の式まで待ってくれてありがとうね。ほんとはすぐにでもブリランテは行きたかったんでしょう」
ジークフリートは立ったままアミュウを見下ろしていた。街門を通ってふわりと風が吹き付けてきたが、冷たさのない、春風だった。その風がジークフリートの癖のある赤毛を巻き上げていく。彼の存在が揺らいでいるようだった。アミュウとナタリア。ナタリアとアモローソ。聖輝と啓枢機卿。啓枢機卿とシグルド。様々な対立軸のあいだで四方八方に引っ張られ続ける彼は、今にもちぎれてしまいそうに見えたのだ。
ふとアミュウの頭に、馬車の中で興じたカードゲームが蘇ってきた。負けた方が勝った方の言うことを聞くことになっていたが、アミュウはまだジークフリートに何も言いつけていない。
「ねえ、あのときのゲームのお願い、いま言ってもいい?」
何のことか、ジークフリートにはすぐには分からなかったらしい。アミュウが「馬車でカードやったでしょ」と言うと、ようやく思い出したようだった。
「なんだよ。重いのは勘弁してくれよ」
「重いわよ。重量級よ」
アミュウはニヤニヤと笑ってジークフリートをからかった。ジークフリートもつられて笑った。二人はしばらく意味もなく声を上げて笑っていたが、ジークフリートの笑い声はやがてすすり泣きへと変わっていった。
アミュウは笑うのをやめて、ジークフリートに藍染のハンカチを差し出した。
「おい、これ聖輝からもらったってやつだろ⁉ こんなの使えねえぜ」
ジークフリートはジャケットから自前のハンカチを取り出して、目尻をぬぐった。彼がポケットにハンカチをしまうのを見届けてから、アミュウは言った。
「お願い。何があってもナターシャの味方でいて」
見上げるアミュウの視線と、見下ろすジークフリートの視線がかちりと合った。
「これから聖輝さんは、ナターシャの意に沿わない提案をすることになると思うの。昔、シグルドを殺した啓枢機卿の生まれ変わりの聖輝さんと、夫婦になって、国産みを果たす……きっとナターシャにとっては到底受け入れがたい提案よ。でも、私は二人の橋渡しをするつもり。だって聖輝さんは啓枢機卿じゃないもの。ナターシャには今を見てほしいの。
私が聖輝さんと一緒にいる以上、ナターシャは私に警戒するかもしれない……もしかしたら、また聖輝さんに反発して危ないことをしでかすかも。そんなとき、ジークにはいつもナターシャのそばにいてほしいの」
晴れた二月最後の空からは、淡い日差しがふりそそぎ、クーデンの街の入口をほの白く染めていた。観光客向けのカフェのテラス席は満員だった。建物の上階を見上げれば、バルコニーで住人が煙草を吸っていた。また、枕やクッションを干す家が見えた。街の人々は、待ちわびた春の訪れを全身で受け止めているかのようだった。
遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。アミュウは腰を浮かせた。開かれた街門から、街道を駅馬車がやってくるのが見える。アミュウは振り返ってジークフリートを見上げた。
彼が見下ろす目には、あの時のろうそくの炎の輝きが宿っていた。その目を見てアミュウは安心した。ジークフリートは約束を守ってくれる。この先、聖輝とアモローソのあいだに何があっても、アモローソの味方でいてくれるだろう。しかし、ジークフリートの言葉はアミュウには意外なものだった。
「ああ、もちろんだ。でも俺は、アミュウの味方も続けるつもりだぜ」
その言葉は不思議なほど強くアミュウの胸を貫いた。ジークフリートがまさかこれほど深く胸をえぐってくるとは思っていなかったアミュウは、必死の思いで笑顔を作った。
「あら、それは二股ってものよ。ナターシャだけにしてね」
蹄の音が近づいてきた。アミュウは立ち上がり、ピッチに別れの挨拶を促した。
「ジークにバイバイして」
「バイバイ、ジーク。ナターシャをよろシクね」
ジークフリートは面食らってのけぞった。
「相変わらず賢いな、この鳥は……」
駅馬車が停留所にやってくると、ジークフリートはアミュウの荷物を荷台に乗せた。アミュウはピッチの鳥かごと蓮飾りの杖を持って馬車へ乗り込む。馬車には先客がいた。若い母親と幼い子供たちだった。
「お嬢さん、どこまで?」
アミュウが行き先を告げると、御者は運賃の支払いを要求してきた。アミュウは事務所で予め購入しておいた旅券を手渡した。
別れを惜しむ間もなく、馬車は動き出した。すぐそこの街門を抜け、街道の北、ヴェレヌタイラ方面に向かってゆっくり進む。
ジークフリートは街門の外まで追いかけてきた。アミュウは振り返った。胸が詰まって何も言葉が出てこなかった。ジークフリートは少しの間馬車を走って追いかけていたが、やがて麦畑の真ん中で足を止めた。
「聖輝を頼んだぞ!」
ジークフリートの割れたような硬質の声が、麦畑に広がる。それでアミュウもやっと声が出せるようになった。
「ナターシャをよろしくね!」
ジークフリートの姿はだんだんと小さくなっていったが、無彩色の麦畑の中で、彼の赤毛はよく目立った。アミュウはその姿をいつまでも見ていた。そしてお互いにその表情が判別できなくなる位置まで遠ざかると、はらはらと泣いた。まっすぐに立つ彼の小さな姿が、希望のろうそくの灯に見えたのだ。その温かなろうそくは、アミュウの手を離れて、アモローソの元へと進んで行く。そのことが頼もしくもあり、寂しくもあった。
「あのおねえちゃん、泣いてるの?」
「静かにおし!」
同乗した親子が、アミュウをちらちらと見ている。アミュウは、聖輝からもらった藍染のハンカチで涙を拭くと、体の向きを変えて前を見た。
「そうよね、大人なのに泣いてちゃ変よね」
四、五歳くらいだろうか。男の子が心配そうにアミュウを見ていた。母親が申し訳なさそうに声をかける。
「ごめんなさいね、お邪魔をしてしまって」
「あのね、おねえちゃん。これあげる」
男の子はアミュウに飴を差し出した。白い飴だ。
「いいの?」
「うん、ぼく、このアメからくて食べられないんだ」
アミュウが男の子の母親に視線を向けると、母親はどうぞというように優しくほほ笑んだ。ありがとうと言ってアミュウは男の子から飴を受け取った。
「ありがトー!」
アミュウのかわりに鳥かごのピッチがお礼を言った。
「わあ! お母さん、このトリしゃべったよ⁉」
「お利口な鳥さんねぇ」
親子はピッチに夢中になった。アミュウは男の子からもらった飴を舐めてみると、薄荷のキャンディだった。
アミュウは聖輝を思った。あれだけの傷を負って、傷は癒えたのだろうか。
ジークフリートがナターシャを支えるなら、アミュウは聖輝を支えねばならない。そうアミュウが考えてから、ふと後ろを振り返ると、麦畑の中にもうジークフリートの姿はなかった。
【第七章 了】




