7-27.ジークフリートの決意
その翌朝、アミュウがいつものように病封じの願掛けの儀式を終えてつぐみ亭に戻ってくると、王都から手紙が届いた。深輝のしたためた文章には、聖輝が起き上がれるようになったとあった。食事も少しずつとれるようになってきたらしい。
消印は三日前だった。
食堂のテーブルで顔を突き合わせ、手紙を読み終えたアミュウとジークフリートは、どちらからともなく溜め息をついた。
「順調に快復しているようで、ひとまず良かったわね」
アミュウがジークフリートに同意を求めて視線を送ると、ジークフリートは相槌も打たずに、アミュウを見返していた。
「……なに?」
「お前さ、明日、結婚式に出たあと、そのまま王女探しを続けるつもりか? それとも聖輝の様子を見に王都へ戻るのか?」
思わぬ問いかけにアミュウはぐっと答えに詰まったが、改めて考えてみるともっともな質問だ。アミュウは言葉を探して左右に視線を揺らしたあと、ジークフリートをまっすぐ見た。
「いったんソンブルイユへ戻りましょう。聖輝さんの容態も見ておきたいし、ナターシャの動向についても知らせなくちゃ」
アミュウは、ジークフリートに呆れられると覚悟していたが、彼はふっと表情を緩めてほほ笑んだ。その目があまりに優しかったので、アミュウは彼が同意してくれるものだと思った。
「お前ならそう言う気がしてたよ」
ジークフリートは、アミュウの方へ寄せていた椅子を離して、元の位置に戻っていった。食堂の木の椅子は年季が入っていたが、分厚いクッションが結びつけてあって、座り心地は快適だった。ジークフリートはクッションの位置を調整して座り直した。
「アモローソ王女は、聖輝がいる限り、俺らの話を聞いてくれないし、姿を現してもくれないと思う」
ジークフリートはゆっくりと話し始めた。その雰囲気に既視感があり、アミュウは引っ掛かりを覚えたが、何に心当たりがあるのか思い出せなかった。昼前の食堂はがらんとしていて、アミュウたちのほかには一組の老夫婦が飲み物を飲んでいるだけだった。換気のためか、扉は開け放されていて、クララ横丁の様子が見えた。この辺りは混雑することはなかったが、人通りが絶えることもない。あと小一時間もすれば、あの自動人形の時計が十二時を告げるのだろう。正午の人形たちの踊りを、アミュウは見たことがなかった。おもてから時折ひんやりとした空気が流れ込んできたが、少し前までの鋭利な刃物のような冷たさはなく、緩んだ空気は魚の鱗のようなぬめりを想起させた。もう二月が終わろうとしていた。春は目前だった。
ジークフリートはアミュウに目を合わせたまま話を続けた。
「明日の式が済んだら、俺一人であいつを探しに行く。王女が何をどういうふうに考えているのか、直接話を聞きたい。俺一人なら、王女は話をしてくれるんじゃねえかって、そう思うんだ」
アミュウは、耳から入ってくるジークフリートの話の内容をもちろん聞いていたが、考えは全然別のところにあった。そうだ。カトレヤで初めて四人で話をしていたとき、ジークフリートは唐突に「作家になりたい」と言い出し、アモローソ王女と騎士シグルドの夢物語を語って聞かせたのだった。今ジークフリートが話している雰囲気は、その時ととてもよく似ている。ジークフリートが、ここにいる彼ではない、誰か別の人に見えるような、妙な感覚だ。
「式が終わったら、お別れだ」
こちらを見るジークフリートの目は、アミュウがこれまで見たことのない色をしていた。彼の瞳の中で、ろうそくの炎が、まるで糸に吊られたかのように上へ上へとまっすぐに伸びている。その炎は無風の部屋の中にあり、揺れることがない。アミュウが何を言っても、彼の決意は変わらないだろう。
今アミュウの目の前にいるジークフリートは、ほんの八日前、馬車上でカードゲームに負けて悔しがっていたジークフリートと同じだろうか。あるいは、ナタリアが姿を消してから消沈していた彼と。嵐の海の中を漂っていた彼と。
彼がナタリアをアモローソ王女と呼ぶようになったのはいつからだったか。アモローソ王女がツァイラー亭に姿を現したときからだったか。
彼の瞳の中にある炎は、何を燃やしているのか。
ほかにどうしようもなく、アミュウは静かに頷いた。
「どこへ行くの?」
「ブリランテだ。アモローソ王女が身を隠すなら、ロウランド旧城下町よりも、混乱しているブリランテの方を選ぶと思う」
「ブリランテ……」
アミュウはうつむいた。ブリランテ自治領への郵便は時間がかかる上、届かないこともある。今はまだ機能しているようだが、いつ止まってしまうかも分からない。連絡手段が途切れることは、ジークフリートと再会できなくなるかもしれないということだ。西部育ちの彼はアミュウなどよりもよほどその辺りの事情に詳しいだろう。ジークフリートは、アミュウたちとつるむよりも、単身でアモローソを探すことを選んだのだ。
アミュウの座っている椅子の下の床面が抜けて、底なしの奈落へ落ちていくような心地がした。
(みんな、ばらばらになっていく)
ナタリアがいなくなり、聖輝は倒れ、今度はジークフリートが去ろうとしている。カーター・タウンで陽気にはしゃぎ合っていた時間を取り戻したくて奔走してきたのに、走れば走るほど取りこぼしてしまうものが増えていくようだ。
とはいえ、ジークフリートが出した結論は、彼なりに考え抜いたものであるに違いない。アミュウには、彼の考えを尊重するほか、できることはない。
アミュウは腹に力を溜め、背筋をできるかぎりしゃんと伸ばした。
「聖輝さんの体力が戻ったら、ブリランテへ追いかけていくわ。宿が決まったら、必ず教えてね」
ジークフリートが頷くのをアミュウは待っていたが、彼はそうしなかった。首を横に振ってから、アミュウを見据えて諭すように言う。
「アモローソ王女がいちばん危険視しているのは、言うまでもなく聖輝だ。アミュウが聖輝と行動する以上、俺はお前らと距離を置かなくちゃならねえ。アモローソ王女に、俺とお前らが繋がってるって思われるわけにはいかねえんだ」
ジークフリートの言い分は、アミュウにはよく理解できたが、もう二人に会えないかもしれないという絶望を埋められるものではなかった。膝の上で握ったこぶしがふるえた。
こんなとき、聖輝ならどんな判断をするだろうか。アミュウは傷付いた聖輝の頼みでここまで来たのだ。聖輝の意図を無視するわけにもいくまい。アミュウは今ここに聖輝がいたらと想像をめぐらせる。しかし、いくら考えてみても、彼が渋い顔で頷く様子しか思い浮かべることができなかった。ジークフリートが単独でアモローソを追うことに、聖輝はもちろん良い顔をしないだろうが、一方でジークフリートに橋渡し役を期待しているようにも思われる。そして橋渡しをしてほしいというのは、アミュウに対しても同様だ。
だが、アミュウの声はアモローソには届かない。それはとりも直さず、アミュウと聖輝の距離が近すぎるからだと、アミュウは自覚した。ジークフリートまでもがそのように感じるほどなのだ。
アミュウは唇をきつく噛んでうなずいた。ジークフリートは場違いなほど明るい声で言った。
「それに、いつまでもブリランテにいないで、とっとと旧ロウランド城下町へ行っちまうかもな。まあ、縁があればまた会えるだろ」
昼までにはまだいくらか時間があったので、アミュウとジークフリートはマルクト広場で小さな花束を買った。まだ花の種類は少なくて、二人はマーガレットのみのシンプルな花束を選んだ。
「マーガレットの花言葉は『真実の愛』。これほど新婚さんにぴったりな花はないさ!」
花売りの女性は「リボンの色は、サムシングブルーが良いかしらねぇ」と言って、白い包装紙に水色のリボンを合わせた。
花束を受け取ってしまうと、もうやることがなかった。
「宿へ戻るか」
ジークフリートがクララ横丁の方へ体を向けると、アミュウは慌ててその体の向きをひっくり返した。
「またクーデンを離れるんでしょ! ロッテさんに挨拶に行きなさいよ」
「え? ロッテ? お前はどうするんだ?」
「ここはジーク一人で行かないと意味がないの。ちゃんと話していらっしゃい」
アミュウはジークフリートの背中を押すと、帆布の鞄をしっかりと体の前に抱いて、マルクト広場を突っ切っていった。ちらりと振り返ってみると、ジークフリートは困惑した様子だったが、やがて町の南の樽横丁の方へと歩いて行ったようだった。
クララ横丁を通りがかったとき、アミュウの耳を突然賑やかな鐘とオルゴールの音が貫いた。仕掛け時計が正午を告げたのだった。アミュウは小走りで仕掛け時計のもとまで行った。
くりぬかれた時計盤の文字がくるりと回り、裏から可愛らしい木の人形が姿を現した。飛び出した十二の人形は上下に動いたり、回転したりして、時計盤を彩る。その間も、鐘とオルゴールの音は鳴りやまない。時計盤の両脇の硝子窓の中では、底抜けに明るい音楽に乗って機械人形たちが踊る。初めて見たときには、この機械人形には素朴な印象を受けたが、見れば見るほど作りこまれているのがわかる。すべすべになるまで磨いた人形の木肌は艶めき、人形がどんな表情にも見えるよう工夫されていた。つまり、楽しい気分で見れば笑っているように、悲しい気分で見れば泣いているように見えるのだ。人形たちはどうともとれる表情をしている一方で、生き生きとしていた。繊維街クーデンの上等の布があしらわれた衣装をひるがえして躍る様子は、今のアミュウにはもの悲しく見えた。
やがて鐘は鳴りやみ、オルゴールは最後の音を鳴らした。機械人形は動きをとめて元の姿勢に戻り、木の人形たちは文字盤の裏側へと帰って行った。
人形たちによってお天道様のもとへ引きずり出された悲しみをずるずると引きずり、アミュウはつぐみ亭の部屋へと戻ってきた。
「おかえリ!」
ピッチが機嫌よく迎えてくれる。アミュウがピッチを鳥かごから出すと、ピッチはベッドのヘッドボードに留まって体を揺すった。お気に入りの定位置らしい。
「ピッチ……あなたも、人形の躍る時計を見た?」
「にんギョー? とケー?」
ピッチは要領を得ない様子だった。やはりアモローソは、ピッチをあまり連れ出さなかったらしい。
「あとで一緒に見に行ってみましょうか。一時と二時にもまた鳴るでしょう」
「やっター! ピッちゃん、おでかケ!」
ピッチは翼を広げてクラップ音を鳴らした。アミュウはまだオーバーを脱いでいなかったが、そのままベッドに倒れ込んだ。
ジークフリートまでもがいなくなってしまうのは、寂しくてたまらなかった。アミュウは、クーデンへの道中のカードゲームを思い出していた。
(負けたら、勝った方の言うことを聞く、か)
では、ジークフリートに行かないでほしいと頼むのか? そうしてはいけないことが、アミュウには理解できた。ジークフリートはいつだってアミュウの意思を尊重してきた。今度はアミュウが彼に理解を示す番だ。
涙で視界が歪んだ。アミュウは、ジークフリートの前で涙を見せずに済んだことにほっとしながら、静かに泣いた。ピッチがヘッドボードからマットレスへ降りてきて、アミュウの髪の毛をついばんだ。羽根繕いをしてくれているのだ。ピッチはアミュウの髪を丁寧についばみ、くしけずった。実際は妙な毛流れになりどんどんボサボサになっていったのだが、アミュウはされるがままになっていた。ピッチの優しさが、また泣けた。




