7-26.残されて
その日の夕方、ジークフリートは早い時間帯につぐみ亭に戻ってきた。彼はアミュウの部屋の扉を叩いて開くと、一歩ごとに床に沈み込むように沈鬱そうに歩き、丸椅子にどっしりと腰かけた。小さな丸椅子は、体格の良いジークフリートの体を受け止められるのか。アミュウには、脚がきしんでたわむ音が聞こえた気がした。
今は鳥かごから出ているピッチが、今日覚えたばかりのかもめの鳴き声を真似している。
「カウカウ……カウカウ」
その声を聞いて、ジークフリートはピッチの方へと顔を向けた。
「お、なんだ? 新しい芸か?」
「かもめよ。今日、港へ行ってみたの。随分とものものしかったわ」
ジークフリートは下を向いて大きなため息をついた。アミュウはベッドから立ち上がり、ゆっくりと彼に近付いていく。
「どうしたの? 疲れてるの?」
アミュウの呼びかけに、ジークフリートはふるふると頭を振って小さな声で言った。
「やられた。アモローソ王女は俺らが見かけた翌日にはもうこの街を離れてた」
アミュウの足が止まった。ピッチは「ナターシャ」とひときわ大きな声で鳴いてから左右に大きく体を揺らすが、アミュウとジークフリートはぴくりとも動かなかった。鈍い沈黙ののちにアミュウは首を傾げた。
「どうして……? ジークはあれからずっと街門に張り付いていたんでしょう……? 隙を突かれたとか?」
「いや。この街に街門はひとつしかないから、そこを張ってたら絶対あいつに会えると思ってた。でも、街の南側に、畑やら用水路やらにつながる通用門があって、そっちを使われたんだ」
ジークフリートは頭を抱えた。
「盲点だった。シュナイダー製糸工場とはほんの目と鼻の先だ。ギュンターはきっとその通用門を通って毎朝ゼーレ川まで行ってるんだろうな。石探しに付き合ってたら、あいつをつかまえられたかもしれねえってのに……」
ジークフリートの前で立ち尽くすアミュウは、じっとジークフリートを見下ろしていた。姉は何日も前に既にこの街を発っていた。ジークフリートの話はすとんとアミュウの胸に落ちた。アモローソがそうやすやすと見つかるとは思えなかったのだ。うなだれるジークフリートに、アミュウは重ねて訊ねた。
「どうしてナターシャがその通用門から出て行ったってわかるの?」
ジークフリートは頭を抱えていた腕を外してこぶしを握ると、今度は胸の前で組んだ。
「通用門にも門番が一人ついてるんだ。あの日通用門に立ってた門番が、今日は街門に回されて、それで分かったんだ」
「聞き込みしたの?」
「ああ。通用門を出て、農道を行くと、おんぼろ橋があるらしい。そこを渡って畑を進めば、街道に出られるんだ。街の西側の街門を使うよりも、ブリランテ方面への近道になる……」
アミュウは目を丸くした。
「ナターシャがブリランテへ行ったっていうの? 旧ロウランド城下町でなく?」
「わかんねぇ。南へ向かったと見せかけて、街道を戻っていって、東のロウランドへ行った可能性もある。ヴェレヌタイラの方に戻る可能性は低いだろうけどよ……」
それきり、二人は黙り込んだ。南のブリランテか、東の旧ロウランド城下町か。アモローソがわざわざ戦のにおいのするブリランテへ行く理由はないように思われるが、旧ロウランド城下町へ向かうには、雪の山道を進まなくてはならない。それなりの準備が必要であるはずだが、アモローソがクーデンを発ったのは、アミュウたちと遭遇した翌日との話だ。充分な用意を整える時間があっただろうか。
「ナターシャは、王女の姿でいたの? それとも男装していたのかしら」
アミュウが思い付きの疑問を口にすると、ジークフリートは胸の前で組んでいた腕を頭の後ろに回して答えた。
「それが、男の格好だったらしいぜ。そりゃあ、あんなヒラヒラのドレスで街の外に出たら、目立ってしょうがねえだろうよ」
「じゃあ、門番さんはどうしてナターシャだって分かったのかしら」
「男にしては異様に綺麗な顔をしてたから、印象に残ってたって話だ。もともと今の季節に通用門を使う人は少ねえしな」
「そう……」
二人が口をつぐむと、ピッチが翼をぱたぱたと動かしながら「ナターシャ……ドこ?」と繰り返す。そんなピッチを見ているとアミュウの心が痛んだ。あんなに可愛がっていたピッチを、アモローソは置き去りにしたのだ。もしかしたら、アミュウのもとにいると分かっていて、安心してクーデンを離れたのかもしれない。だが、ピッチのナタリアへの懐きようを考えればあんまりな仕打ちではないか。
「大丈夫。きっと、見つかる」
アミュウはピッチの留まっているベッドのヘッドボードまで歩いて行って、その首のあたりを掻いてやった。ピッチは気持ちよさそうに目を細める。アミュウはふと気付いて、帆布の鞄のなかから二通の封筒を取り出し、片方をジークフリートに渡した。
「これは?」
「結婚式の招待状。フリーデリケさんが、是非来て欲しいって」
ジークフリートはぴりぴりと封を破って中のカードを取り出した。
「明後日か……」
「ええ」
ジークフリートは二度、三度と招待状の文面を読み直しているようだった。窓から斜めに差す黄味を帯びた光が、ジークフリートの赤毛の髪に当たってきらきらと輝いた。陰影の濃くなったジークフリートの顔は、まるで知らない人のもののようだった。
アミュウは改めて、ジークフリートと二人きりでこのクーデンという馴染みのない町にいることの不思議を感じていた。今ここにいるべきは、自分ではなく姉なのだという思いが、アミュウの中には根強くあった。
「アミュウはどうするんだ?」
手元の招待状からアミュウの方へと顔を上げたジークフリートと視線が合う。アミュウは即答した。
「乗りかかった船ですもの。もちろん最後まで見届けるわ」
「アモローソ王女は四日も前にクーデンを出てるんだぜ。すぐに追わなくていいのか」
ジークフリートに鋭く問われると、アミュウはまるで自分が責められているような気分になったが、旅の本来の目的を思い返せば、彼の言い分も理解できる。ナタリアを追うなら早い方がいいに決まっている。
だが、もちろんアミュウにも言い分があった。
「いま、あの人たちを放り出してナターシャを追いかけたとしたら、私、ナターシャに対して胸を張れない。私自身が責任を放り出しているのに、ナターシャに聖輝さんと国産みを果たしてだなんて、とても頼めない」
アミュウの言葉に、ジークフリートの表情が変わった。彼は再び腕を組んで考え込んだ。
さっきジークフリートに降り注いでいた黄色い光は、どんどん赤みを増していた。さっきよりも斜角のついた光が、横ざまに彼を照らしている。アミュウはピッチを鳥かごに帰し、きちんと掛け金をかけてから、内窓を開けて鎧戸を閉めた。暗くなった室内に、「よるがきタ」と呟くピッチの声が響く。アミュウは火打石で燭台に火を点けた。喜んだピッチが拍手のクラップ音を鳴らした。
「わかったよ。俺も式には出るぜ」
ジークフリートは組んでいた腕をほどいて丸椅子から立ち上がり、アミュウの部屋を出て行った。アミュウは燭台を書き物机に置いて、彼を見送った。




