7-25.花嫁の笑顔【挿絵】
つぐみ亭の部屋に戻ってみると、派手な羽音を立ててピッチがアミュウの肩へ飛び乗ってきた。
「おかえリ! おかえリ!」
「ただいま、ピッチ。ひとりにしてごめんね」
アミュウはピッチの灰色の羽根をひとしきり撫でると、買ってきたばかりの鳥かごの扉を開けてピッチに見せた。
「ほら、新しいおうちよ。ナターシャがどうしていたか分からないけど、街の中を散歩するにはこの中に入ってもらった方がいいと思うの。どう?」
ピッチは物珍しそうに鳥かごの針金を噛んだり脚で掴んだりしていたが、やがて中に入り、内側から自分で扉を閉めた。
「いい子ね」
アミュウは外側から掛金をかけて部屋を出た。食堂の朝食の時間は終わってしまった。どこか外の店で食糧を調達して食べるしかない。
クララ横丁を歩きながら、アミュウは鳥かごの中のピッチに話しかけた。
「ナターシャも、あなたを連れてクーデンの街をお散歩したの?」
「ナターシャ、いなイ」
「……アモローソは、あなたとお出かけした?」
「ピッチャン、オるすばんしてた。いいコ、いいコ」
「そう……」
アモローソには、ピッチを外に連れ出す余裕はあまりなかったのかもしれない。アミュウには、この賢いヨウムが不憫に思われて仕方なかった。
「そうだ、海へ行ってみましょうか。きっと気持ちがいいわ」
港へ足を運び、海を見ながら食事をすれば、もやもやした気分も晴れるだろう。アミュウはクララ横丁の小さなベッケライでパンを買い、それとは別に粗挽きの麦を分けてもらった。幸いにしてそのベッケライではカナリアを飼っていて、鳥の飼料に理解があった。穀類だけでは満足しないだろうと、菓子パンに使った果物の端切れまで足してもらった。アミュウが店主に礼を述べると、ピッチまでもが律儀に「ありがトー!」と愛想をふりまいた。
今朝は空からたどったかもめ通りを、今度は徒歩でピッチとのんびり進む。ヒルデガルドの家のある丘の方へは上らずに道なりに歩いていくと、潮の匂いはどんどん濃くなっていき、やがて立派な港へ出た。
石とレンガで固められた港には、いくつもの桟橋が並び、大型船が係留する。帆を畳んだマストとロープが空に複雑な幾何学模様を描いていた。小型船用の桟橋には二、三十ほどの船が並び、波のままに揺られている。洋上を飛び交うかもめたちがカウカウとひっきりなしに鳴く。空は白く、あきれるほどに広かった。花嫁衣裳の仕立てるための白い布を空に広げたならばきっとこのようになるのだろうと、アミュウはぼんやり考えた。
港の中央には白いペンキでナンバリングされた広大なレンガ造りの倉庫が整列していたが、アミュウは倉庫群を過ぎて、港のほとんど端に置かれた侘しいベンチに腰かけた。
ここに来るまでのあいだに徽章を身に着けた聖堂騎士団の団員を何人も見かけたし、それよりもずっと多い数の制服姿の男たちが警戒に当たっていた。港湾警備隊の連中だろう。係留する船は商船が多かったが、中には武装した船も見える。このような厳戒態勢の中、武器密輸商のカール・リンデマンやヒュー・クラッセンが活動できるとは到底思えない。
(カーター・タウンは無事かしら……釘を差しておいたから大丈夫だと思うけど)
アミュウは手紙でセドリックに港を警戒するよう忠告しておいた。けもの騒動でおざなりになっていなければ、カーター・タウン港が犯罪の温床になることはないはずだ。マリー=ルイーズの言葉の通りなら、ラ・ブリーズ・ドランジェに彼らがやってくることもなさそうだ。
(……となると、彼らはきっとブリランテ自治領に戻るはずね。あそこなら、ソンブルイユが介入できないはず)
鳥かごの中のピッチがかもめの鳴き声を真似して鳴いた。
「あ、ごめん、ごめん。ごはんにしましょうね」
アミュウはパンの包み紙で即席の箱を作ると、粗挽きの麦と果物の端切れを鳥かごの中に入れてやった。
「ピッチャン、おいシー!」
ピッチは食べる前に「美味しい」と言ってから、果物をついばんだ。まるで食前の祈りのようだ。アミュウはクスリと笑ってから、自分もパンを食べ始めた。ここに聖輝がいたなら、きちんと食前の祈りの所作をとっただろう。
それから毎日、早朝の儀式は続いた。
ギュンターは夜明けとともに石英探しを健気に頑張っていたが、一度だけ、なかなか見つからずに遅れたことがある。アミュウが大急ぎで儀式を終えてヒルデガルドの家を出ると、かもめ通りを歩いてくるフリーデリケとばったり会った。
「アミュウさん、おはようございます」
フリーデリケは、アミュウが朝からこんな場所を歩いていることを不思議がりもせずに挨拶を寄越してきた。
「お会いできてよかったわ。いよいよ明後日が結婚式なんです。アミュウさんとジークさんも是非教会へいらしてくださいね」
そう言ってアミュウに二通の招待状を渡した。ひとつはアミュウ宛てで、もうひとつはジークフリート宛てだった。アミュウは困惑した。
「私もジークも旅の途中だから、よそゆきの服なんて持っていません」
「大丈夫ですよぉ! 普段着で来る方もたくさんいますから。アミュウさんたちにはお世話になったから、ぜひ来てもらいたいんです」
フリーデリケはにこにこと言ってから、急に声を落とした。
「これは内緒なんですけど、私ね、おばあちゃんにプレゼントを用意しているんです。クーデンには、長寿を願って老人に赤いチョッキを贈るならわしがあるの。私、随分と前からおばあちゃんのためだけにたくさんの生糸を繰っていたんです。それを赤く染めて、職人さんに織ってもらって、チョッキに仕立ててもらって……おととい、ようやく完成したんです。結婚式でおばあちゃんにプレゼントするのが楽しみで仕方なくて。サプライズなんです」
フリーデリケはもじもじと頬のそばかすを押さえながら続ける。
「おばあちゃんに早く元気になってもらって、一緒に市民農園のお世話をしたいんです。ギュンターもきっと手伝ってくれるわ」
フリーデリケの瞳は未来への希望で、潤み、きらきらと輝いていた。赤毛の睫毛の一本一本がつやめき、まなざしは優しく細められている。そばかすが瞳のまぶしさを一層華やかに演出していた。
アミュウは彼女の表情を見て悟った。ギュンターは、この笑顔を守りたくて、殊勝にもヒルデガルドの健康の願掛けにいそしんでいるのだ。ヒルデガルドにしても同じだ。彼女の笑顔をくもらせないために、病身を押しているに違いない。
(幸せな花嫁さんなんだわ)
その尊いまでの美しさにアミュウはくらりとめまいが起きそうだった。彼女の輝くような笑顔を守るために、ギュンターもヒルデガルドも、日陰の努力をしている。そしてアミュウも巻き込まれている。しかし不愉快な気持ちは一切なく、むしろ布地に水滴が染みこんでいくような、深い喜びが湧き上がってきた。
アミュウは結婚式の出欠については即答せず、「ジークに相談してみますね」とだけ言ってフリーデリケと別れた。ジークフリートは、結婚式よりもアモローソを探すほうを優先するかもしれない。去り際のフリーデリケは、アミュウたちが欠席するとはつゆほども考えていないような笑顔を弾けさせていた。




