7-24.病封じの願掛け【挿絵】
アミュウはつぐみ亭の自室でカーター邸の店に空間をつなぎ、病封じの願掛けに必要な道具と材料一式を取り出した。チャイブビネガーにジュニパーの小枝の束、そして香炉と乳香を取り寄せただけだったが、空間制御の魔法円を閉じた瞬間、アミュウは猛烈な疲労感に襲われた。クーデンとカーター・タウンはちょうど大陸の正反対に位置する。遠すぎるためか、かなりの魔力を消耗するらしい。
アミュウがベッドに横になって休んでいると、ドアの外から足音が聞こえてきた。そちらへ目をやると、扉と床の隙間からすっと紙が差し込まれ、足音は遠ざかっていた。重いからだを引きずって紙を拾い上げてみると、メモ書きだった。
――アモローソ王女が街から出ていかないか、今日は街門を見張るつもりだ。何かあったらすぐに来い。
ジークフリートからの手紙だ。アミュウは部屋の鎧戸を空けて、クララ横丁を見下ろした。まだ外は暗いが、空は間もなく夜が明けようとしていて、薄めた乳を流したようだった。人形の家を並べたような街並みを眺めていると、いつもの皮鎧姿のジークフリートがマルクト広場の方へ向かって歩いていくのが見えた。彼の背中を見送ってから窓を少しだけ開けると、冷たく清浄な空気が部屋に流れ込んできた。吸い込めば胸が痛くなるが、少し前までの冷たさとは違い、春の訪れの気配があった。
ジークフリートとの二人旅のあいだ、彼は何かとアミュウのことを気遣ったが、本来その優しさを受け取るべき相手はナタリアなのだと、アミュウは考えた。旅先で偶然出会っただけのヒルデガルドたちよりも、ナタリア探しを優先するのは当然だ。
ならば、自身も姉の捜索を優先すべきなのではないか? しかしギュンターからアモローソを探すようにと言われたとき、アミュウには、彼女たちを放ってナタリアを探すという選択肢はそもそも存在しなかった。それは薄情なのだろうか? 物事の優先順位を見誤っているのだろうか?
昨晩の出来事を反芻しながら、アミュウはジークフリートの言葉を思い出していた。彼は、アミュウがヒルデガルドたちに協力することを否定しなかった。
(ほんと、人が好いんだから……)
アミュウは窓を閉めカーテンを引いて、寝巻きから普段着のスモックに着替えた。カーディガンを羽織りながらアミュウはクスリと笑った。
(お人好しなのは、私も同じね)
薄暗い刻限にクーデンの街を歩き回るのは危険だ。アミュウはクララ横丁に出ると、蓮飾りの杖で夜明けの空へと舞い上がった。ときおりふらつくのは、さっきカーター邸と空間を繋げたせいだろう。
西の海の方へ見当をつけて飛行したが、慣れない街で一度案内されたきりの道を、上空から探すのは思った以上に難しかった。なんとか見覚えのあるかもめ通りを見つけ出し、路地の坂を辿っていくと、つやつやとした赤瓦のヒルデガルドの家が見えてきた。
早朝に訪問することは、ギュンターを通して事前に伝えている。起きているだろうかと訝りながらノックすると、随分と待たされた。二度目のノックをしようかというころ、扉は内側から開いた。
「まぁ、魔女さま。ギュンターさんからお話しは伺ってます。朝早くからありがとうございます」
もともと曲がっている腰をさらに折るヒルデガルドを前に、アミュウも慌てて同じように腰を折った。
「アミュウと呼んでくださいね。早朝からすみません、お邪魔します」
アミュウはヒルデガルドをベッドに寝かせると、部屋の掃除に取り掛かった。儀式の場を清めるのは古の魔術の基本だ。フリーデリケたちが時々やってくるとのことで、部屋は概ね片付いていたが、潮風が運んでくる砂ぼこりなどは日々積もっていく。アミュウは水汲みをしてから箒を借りて砂を掃き出し、モップをかけた。広い家なので、なかなか骨が折れた。
家中がピカピカになる頃、ギュンターがやってきた。彼はアミュウの指示通り、小さな石英と川の水を持ってきていた。
アミュウは家の中を乳香の煙で浄化し終えると、ギュンターと一緒に家の外に出て、家の周りにチャイブビネガーを振りかけて回った。チャイブのピンク色の花を漬け込んだ酢は鮮やかな茜色で、食欲をそそる香りをしていた。
「チャイブビネガーって、料理に使うだけじゃないんですね」
アミュウの後ろをついて回るギュンターが物珍しげに言った。
「ドレッシングにしたら美味しいんですけどね。チャイブには抗菌作用があって、それで昔から魔除けのハーブとして使われてきたんです」
家の周りに酢を撒き終えると、瓶の中の酢は半分以上減っていた。軒先に茂っていたローズマリーを一枝折ってからアミュウとギュンターは家の中に戻り、かまどに火を起こして、ローズマリーの小枝とジュニパーの小枝を火にくべた。ギュンターの汲んできた川の水を何枚も重ねたガーゼで濾過して鍋に流し入れ、よく洗った石英の小石を落とすと、火にかけた。
「悪いわねぇ、何もかもおまかせしてしまって」
「いいえ、順調ですよ」
寝室から聞こえてきたヒルデガルドの声に、アミュウはにこやかに応じる。フリーデリケがやってくるまで、まだ時間があった。
川の水はすぐに沸騰した。湯の中で石英が躍り、カラカラと鳴る。アミュウはしばらく沸騰させたあとで火から鍋をおろし、石英ごとカップに注いだ。
湯を冷ますあいだ、アミュウはヒルデガルドの枕元で匙でかき混ぜながら節をつけて歌った。ギュンターとヒルデガルドにも、唱和するように指示した。
さざれ石のなかに かぎりなき光
きよき川の流れは絶えずして 憂い患いを濯ぐ
玉の緒の むすびかためて みたまふゆ
川の石のまろくなるまで
湯が冷めてくると、アミュウはヒルデガルドにゆっくりとその水を飲ませた。ヒルデガルドは一口飲むごとに、ほう、と溜め息をついて、時間をかけて湯を飲み干した。
「なんだか元気が出た気がするわ」
「これから婚礼の日まで毎日来ますね」
アミュウが同意を求めてギュンターに目くばせすると、彼は困ったように笑った。
「早起き、頑張ります」
そろそろ市民農園の世話を終えたフリーデリケがやってくる時刻だった。ギュンターとアミュウは屋外に出て、家の裏手――海側に回り、フリーデリケがやってくるのを待った。日がすっかりのぼり、晴れて街を照らしていたが、海から吹き付ける潮風は冷たかった。家々の屋根の隙間から、彩度の低い海が見えた。海は凪いでいて、まるで制止しているかのようだった。ときどきかもめが鳴いた。
ギュンターは座り込んで壁に背を預けていたが、やがて船を漕ぎ出した。夜明け前からゼーレ川で小石を探して来たのだから、無理もない。間もなく式を控えた新郎には骨の折れる願掛けだ。
(頑張ってもらわないとね)
アミュウはショールの前をきつく合わせて身を縮こませ、踵を上げたり下げたりして時間を潰した。やがてフリーデリケがやってくると、そっとギュンターを起こし、さも今しがたフリーデリケを迎えに来たというていで家の扉を叩かせた。
恋人たちが仲睦まじく仕事へ行ってしまうと、アミュウはヒルデガルドに挨拶してから、徒歩でかもめ通りを戻っていった。ヒルデガルドについていてやりたい気もするが、つぐみ亭に置いてきたピッチが気がかりだった。運よく朝早くから店を開けている雑貨屋を見つけ、アミュウは大きめの鳥かごを買い求めた。




