7-22.ツァイラー・エッククナイペ
ツァイラー亭には今日も大勢の客でごった返していた。絹の道の工場勤務者たちが酒と食事を求めて樽横丁へ押し寄せてくるのだ。男性客が多かったが、女性客も決して少なくなかった。フリーデリケのように、工場で働く女性も多いのだろう。しかし、女性だけのテーブルは見当たらなかった。昼間のようなもめごとが日常茶飯事であるならば、女性だけでお酒を飲むのは不用心なのかもしれない。
入口付近の四人用のテーブルをなんとか確保し、アミュウとジークフリートは腰を落ち着けた。
「ギュンターさん、ヒルデガルドさんとうまく話せたかしら」
「大丈夫だろ。あの兄ちゃん、しっかりしてそうだったし、うまくあの頑固なばあさんを説得してくれるんじゃねえか」
テーブルの上にあるのは飲み物だけだった。アミュウはホットミルク、ジークフリートは黒ビールをちびちび舐めながら、ギュンターを待つ。
待っているのはギュンターばかりではなかった。今晩こそこの酒場に歌姫がやってこないかどうかということも気がかりだ。奥のステージではギターとピアノ、手風琴が水底の砂を洗うようにひそやかな演奏を続けている。その控えめな演奏が耳に心地よく、エッククナイペの客たちを包み込んでいる。アミュウも演奏を楽しんでいたが、ステージが遠くて演奏者たちの様子はあまり見えなかった。
薄暗い店内で客たちは陽気に笑い、一日の疲れを酒で洗っていたが、喧噪の中にどこかそわそわとした期待が感じられた。来るかどうかも分からない歌姫の登場を、皆、心待ちにしているのだ。
ジークフリートが一杯目の黒ビールを飲み終わる頃、ギュンターが現れた。
「お待たせしてすみません」
ギュンターはピルスナーを注文すると、三人は食事用のメニュー表を覗き込んだ。パンやハム、チーズが主流で、手の込んだ料理はほとんど見当たらない。
「なんだか朝ごはんみたいなメニューね」
アミュウが率直な感想を口にすると、ジークフリートが苦笑した。
「この辺ではそれが普通なんだよ。夜はパンにチーズとハム挟んで、それでおしまい。たまにスープが出りゃ万々歳だ」
「でも、ベルンハルトさんたちの宿では色々出してもらったわ」
「あれはおやっさんたちのおもてなしってやつなんだよ。疲れた旅人に温かいメシをたらふく食べさせてやろうっていう」
「ヴェレヌタイラの旅籠ですか? 何度か通りがかりましたが、あそこの食事は確かにおいしいですね」
ギュンターが話に加わる。アミュウは彼に話しかけてみた。
「東部へ行くことがあるんですか?」
「ええ、王都の流行のチェックとか、ラ・ブリーズ・ドランジェ港の様子を見に行ったりとか……行くとしたら、もっとよい季節ですね」
アミュウたちはパンにチーズとハムの盛り合わせ、そして「せっかくなので」と話すギュンターの勧めでアイスバインを注文した。
ほかのテーブルを見てみると、パンやチーズ、サラミをつまみにビールを飲む客が多い。まだまだ寒い二月、アミュウは温かいものをお腹に入れたいと思ってしまうが、周りの客は冷たい乾きものばかりで平気な様子だ。
本題に入る前に、ジークフリートがギュンターに訊ねた。
「あのさ、カール・リンデマンとヒュー・クラッセンって知ってるか? 繊維商の二人組なんだけど……」
ジークフリートの言葉を聞いた途端、ギュンターのもともと色白な顔がさらに白さを増した。ギュンターはジークフリードに耳打ちした。
「その名前を大きな声で行ってはいけません。聖堂騎士団にしょっぴかれちゃいますよ」
ジークフリートは声を落とした。聞き漏らすまいとアミュウも身を寄せる。
「どうしてそんなことになってるんだ?」
「死の三角貿易って、年末ごろに新聞に載ったのをご存知ありませんか。二人とも、ソンブルイユで軍機ものの兵器を持ち出して、ブリランテへ売りつけていたんです。その資金洗浄のために、ここクーデンの港が使われていたものだから、軍の要請を受けて聖堂騎士団が関係者を徹底的に洗っています。カール・リンデマンの方はいったんラ・ブリーズ・ドランジェで拘束されましたが、すぐに逃げ出したそうですよ。ヒュー・クラッセンの方は、去年の秋からずっと行方知れずです」
ジークフリートとアミュウはまったく同じ調子で苦笑いした。ラ・ブリーズ・ドランジェでは大変な目に遭った。
「それはなんとなく知ってるんだけどよ、今、カールはどこにいると思う? あいつらに家族とかはいるのか?」
ギュンターは目を伏せてゆっくりと首を横に振った。
「分かりません。彼らは繊維業組合に入っていなかったから、僕たち正規の生産者や卸は、彼らと取引できません。家族がいるという話も聞いたことがありません」
ジークフリートは肩を落とした。ギュンターはさっと周囲に目を走らせてから、さらに小さい声で言った。
「でも、マージンのない彼らとの取引は、組合加入者にとっては魅力的でした。売り物を流していた業者は多いでしょう。彼らがいなくなって戸惑っているけれども、声を大にして探すことはできない……そんな仲間が大勢います」
「あんたもその一人なのか?」
「いくらジークさんからのご質問でも、お答えできかねます」
ギュンターはやんわりと断ってから、ジークフリートに釘を差した。
「そういうわけで、彼らの行方について興味がある人たちは多いと思いますが、あまり大っぴらに訊ねて回るのはおすすめしません」
ギュンターに向かって前傾姿勢になっていたジークフリートは、椅子の背もたれに身体を預けてうんと伸びをした。
「よーく分かった。ご忠告、ありがとよ」
三人は運ばれてきた食事に手を付けた。ギュンターが巨大な肉の塊であるアイスバインを切り分け、付け合わせのザワークラウトや芋団子と一緒に小皿に取り分けた。粒マスタードを載せて口に運ぶと、豚肉の旨味がほろりと舌の上でほどけた。長い間煮込んであったのだろう。肉はとろとろと柔らかかった。
「それで、ヒルデガルドさんはなんて?」
アミュウが訊ねると、ギュンターは満面の笑みを浮かべた。
「古の魔女様のお力にあやかれるのなら是非、とのことでした。よろしくお願いします」
古の魔女という言葉はアミュウの胸の奥に心地よく響いた。かつてメイ・キテラがそうであったように、アミュウもまた古の魔女として、昔ながらの魔法と知恵を受け継ぎ、人を助けることになるのだ。その重みを胸の奥で噛み締めながら、ギュンターに笑顔を返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それで、具体的に何をすればいいんでしょうか」
「そうねぇ……お式はいつなんですか?」
「八日後です」
ギュンターの返事に、ジークフリートがフォークを取り落とした。
「もうすぐじゃねえか」
ギュンターは神妙に頷いた。
「ええ。もう間もなくだからこそ、ヒルデガルドさんはご自分の体調をフリーデリケに隠して、元気に参列したいと考えているんです。僕もフリーデリケのお母さんも止めたんですけど、大丈夫としか言わなくて……」
「なるほど、分かりました」
アミュウは頷いた。
「石英のまじないを行いましょう。明日の朝、私がヒルデガルドさんの家で魔除けの儀式を行います。その間にギュンターさんとジークは川で石英を見つけて、川の水と一緒に持ってきてください」
「石英? 水晶のことか? そんなもん、すぐに見つかるか?」
ジークフリートは首をひねるが、ギュンターの表情は明るかった。
「ゼーレ川の上流に石英の採掘場があって、かけらが流れてくることがあります。小さいものでよければ、多分見つかります」
「それはよかったです。持ち帰った川の水は、濾過して、石英と一緒に沸かして、ヒルデガルドさんに飲んでもらいます」
ギュンターはほっとした様子だった。
「なんだ、それならできそうです。大丈夫です」
「これを、婚礼の朝まで七日間続けます」
「えっ⁉」
胸をなでおろしていたギュンターはぎょっとして目をむいた。ジークフリートも背もたれから身を起こしてアミュウの方へ乗り出した。
「毎日川の水を汲んでくるのか?」
「ええ」
「石英は、探せるときにたくさん探せばいいんだろ?」
「駄目よ。毎朝、新しいものを探すの」
「なんだよ……面倒だな」
ジークフリートは頭を抱えて愚痴をこぼしてから、口元を抑えた。
「……わり。ギュンターとヒルデガルドさんにとっちゃ、一大事だもんな。面倒だなんて言っちゃよくねえな」
「大丈夫です、気にしていません。それよりも、ジークフリートさんにご負担が……」
「俺は平気だぜ。朝にも強い」
アミュウはギュンターに訊ねた。
「全て朝のうちにやらなきゃいけないんです。お仕事との兼ね合いはどうですか?」
ギュンターはしっかりと頷いた。
「早朝のうちに川へいきます。大丈夫、子どもの頃よく遊んだ場所ですから」
三人は食事を進めながら、待ち合わせの時刻や場所を打ち合わせた。切り分けられたアイスバインがすっかりなくなる頃には、だいたいのところが決まった。
ジークフリートがビールのお代わりを頼もうと店員を探したとき、店内の雰囲気が少しだけ変わっているのに、アミュウは気付いた。がやがやと賑やかなのは相変わらずだが、穏やかでない。また揉め事かと、アミュウは膝の上に置いたままの帆布の鞄をしっかり押さえた。ジークフリートも様子がおかしいことに気付いたらしく、椅子の上で腰を浮かせている。
アイスバインの皿を片付けながら、ギュンターがのんびりと言った。
「これは、来そうな気配ですね」
「来そうって、何が」
ジークフリートがやや険のあるこえで訊ねると、ギュンターは奥のステージの方を見ながら答えた。
「ほら、あなた方の待ち人ですよ。歌姫が来ますよ」




