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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第七章 赤い糸のつむぎ歌

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7-21.シュナイダー製糸工場

 ローゼナウ通り(シュトラーセ)に戻ってきたとき、蜂の巣の形をした看板がアミュウの目に留まった。小さなその店は、蜂蜜屋らしい。何の気なしに店の窓を覗いてみると、ギュンターが品定めをしているところだった。


「ねえ、あそこ」


 アミュウはジークフリートを呼んで、店の窓を指さした。ジークフリートは「おっ」と声をあげて歩みを止めた。アミュウはショーウィンドウの中のギュンターに目を向けたまま、ジークフリートに訊ねた。


「ヒルデガルドさんのこと、ギュンターさんに話しておいた方がいいわよね?」


 ジークフリートは腕を組んで首をひねりながら答えた。


「うーん……まぁ、あの二人が結婚したら、親戚になるわけだしなぁ。けど、あのばあさんは自分の状態を孫に知られたくない風だったぜ?」

「じゃあ、黙っておくの?」


 ジークフリートは「うーん……」とうなったまま、考え込んでいた。

 やがて店の扉が開いて、ギュンターが出てきた。


「あれ? ジークさんにアミュウさん。一日に二度も会うなんて、奇遇ですね」


 ギュンターは律儀に帽子を脱いで礼を取った。アミュウとジークフリートが挨拶を返すと、ギュンターはさらに深く頭を下げた。


「今朝はすみませんでした。僕もフリーデリケも、お二人を放っていってしまって……お気を悪くされましたよね」


 アミュウとジークフリートは顔を見合わせた。ヒルデガルドの容態について、ギュンターに話しておくべきか否か。微妙な逡巡は、ギュンターに伝わったようだった。


「もしかして、ヒルデガルドさんに何かありましたか?」


 アミュウははっとしてギュンターの顔を見つめた。ギュンターの目には、心配の色が宿っていた。


(この人は、知っているんだわ)


 アミュウが口を開こうとしたとき、ギュンターは帽子をかぶり直して言った。


「立ち話もなんです。少し歩きますが絹の道(ザイデン・ストラ―セ)の先にうちの工場があるので、お時間があれば、お話ししませんか?」


 返事はアミュウよりもジークフリートの方が早かった。


「ああ、邪魔するぜ」






 来た道を戻る格好で絹の道(ザイデン・ストラ―セ)を歩く。右も左も布や糸の問屋、そして縫製工場ばかりだ。縫製工場の一階は見るからに頑丈そうな二重構造の壁づくりになっていて、一階で踏んだミシンの振動が上階に届かないよう工夫されていた。しかし、振動は防げても、騒音は防げない。あちらこちらから聞こえてくるミシンの音で、広い絹の道(ザイデン・ストラ―セ)は飽和していた。通りの真ん中は、織りあがった布地を何十巻も乗せた牛車が行き来していた。風が吹くと、布地の埃臭さとミシンの油のにおい、そして牛特有の獣臭さが鼻を刺した。布や糸の見本帳を抱えた繊維商人たちが足早にアミュウたちを追い越していく。


 十五分ほども歩くと、通りの様相は随分と変わってきた。まず、建物が大規模になり、隣の建物との間隔が広くなった。風通しが良くなり、鼻をつくにおいはかなり薄くなった。小ぢんまりとした布問屋は姿を消し、広大な機織り工場や縫製工場が並ぶ。そのさらに奥には、木綿などの紡績工場。この辺りまでくると、人も牛車もほとんど姿を見かけなくなった。現場勤めの者はまだ仕事中の時間帯で、こうして外を出歩いているのはギュンターのような外回りの営業くらいだ。ギュンターは姓をシュナイダーと名乗った。シュナイダー製糸工場の跡取り息子なのかもしれない。


 シュナイダー製糸工場はいちばん奥の区域にあった。ギュンターの言によると、生糸の生産には大量の水が必要らしく、ゼーレ川から引いてきた水路を活用しているとのことだった。

 クーデン特有の赤土を用いたレンガ造りの重厚な建物は東西に長く伸びていて、ガラスをふんだんに使った窓は横壁だけでなく、屋根にも等間隔にしつらえてある。


「フリーデリケも今頃あの中で糸を繰っているはずです」


 そう言いながら、しかしギュンターは工場には入らず、巨大な倉庫をぐるりとめぐって、北側の事務棟らしき場所にアミュウたちを案内した。

 そこは工場と同じくレンガ造りではあったが、巨大な建物群の中では小さく見えた。ヒルデガルドの家と同じくらいだろうか。ギュンターは木製のドアを開いて帽子を脱ぐと、すぐ右手の部屋をちょっとのぞきこんで言った。


「ただいま! お客様をお通しするから、コーヒーを入れてくれないかな」


 そしてアミュウたちを反対側の左手奥の小部屋に招き入れた。客間とは名ばかりの、倉庫のような場所だった。中央にはかろうじて応接セットがあり、アミュウたちは窓の方のソファに座った。上着を脱ぎながら、アミュウは思わずあちこち見回した。糸巻きのぎっしりと詰まった木箱、巨大な桶やバケツ、そして使い道のよく分からない木枠などが所狭しと積み上げられている。


「散らかっていてすみません」


 ギュンターが恥ずかしそうに笑った。アミュウは興味の向くままに、あれは何か、これは何かとギュンターに訊ねた。そのたびにギュンターは丁寧な説明を返した。

 事務員らしき男が入ってきて、応接机にコーヒーを置いていった。コーヒーはブリランテの特産だ。クーデンはブリランテとは緊張関係にあるはずだが、コーヒーの流通は止まっていないのだろうか。アミュウが疑問に思っていると、ジークフリートがまさにその点に触れた。


「まだクーデンでコーヒーが飲めるなんてな」

「今ある在庫がなくなれば、しばらくは入ってこなくなるでしょうね」


 ギュンターは苦笑して、アミュウたちに飲むよう勧めた。アミュウはあまりコーヒーを飲んだことがなかった。強烈な芳香と刺すような苦みに思わず顔を歪めそうになったが、貴重な飲み物を出してくれているギュンターを思い、無理やりに笑顔を見せた。


「おいしいです」

「お口に合ってよかった」


 にっこりと笑うギュンターの前で、ジークフリートはコーヒーを一口すすり、カップをソーサーに戻しながら言った。


「今朝、あのばあさん、倒れたんだ。あんたたちが出て行ってすぐだ」


 ギュンターは笑顔を引っ込めて頭を下げた。


「やっぱりぼくたちはあなた方を放って行くべきではありませんでした。すみませんでした」

「いや、あんたが謝ることじゃない」


 ジークフリートがきっぱりと否定すると、ギュンターは顔を上げておずおずと訊ねた。


「それで、ヒルデガルドさんの容態は……?」


 隣のジークフリートからの視線を受けて、アミュウは重い口を開いた。


「芳しくありません。正直に言いますと、あの状態で一人暮らしは無茶です」


 ギュンターは細く長い溜息をついた。アミュウはその顔を覗き込むようにして念を押した。


「ご存知なんですよね?」


 ギュンターはこくりと頷くと、先ほどから持ち歩いていた鞄の中から小瓶を取り出してみせた。


「これは?」

「さっきの蜂蜜屋で購入したものです。滋養強壮に良いらしくて……」


 蜂蜜なんかでヒルデガルドの状態が上向くとは到底考えられない。アミュウは顔をくもらせて口を開きかけたが、ギュンターの方が先に言葉を発した。


「おかしいでしょう。こんなものにすがるしかないんですよ」


 ギュンターは小瓶を手で弄びながら、とつとつと語った。

 ハインミュラー自らがヒルデガルドの施療を担ったが、いくつもの病が同時進行し、もはや手の施しようがないこと。ギュンターはもちろん、ハインミュラーからも結婚式の延期を勧めたが、聞く耳を持たないこと。そして孫には自身の病状を一切話していないこと。


「フリーデリケやぼくの家で世話すると再三申し出たのですが、あの家を離れたくないとの一点張りで。その上、フリーデリケにはどうしても心配をかけたくないようで、ああやって病気を秘密にしているんです」


 ジークフリートは頭の後ろで手を組んで、背もたれに身体を預けた。


「ふぅん……頑固なばあさんってわけだ」

「そういうわけじゃない気がする。ヒルデガルドさんは、自分の状態をよく分かっているんじゃないかしら」


 アミュウの言葉に、ギュンターも頷いた。


「自分が長くないことを知っているから、僕たちの結婚に水を差さないように気を遣っているんだと思います」

「まぁ、この状態で結婚延期になったら、いつまで延ばせばいいのか分かんなくなっちまうもんなぁ……」


 ジークフリートが腕を組んで考え込む。アミュウも、ギュンターの話を咀嚼した。アミュウには、メイ・キテラから受け継いだ薬草の知識がある。患者の自己治癒力を高めたり、心身のバランスをとる手伝いをすることはできるが、それ以上の治療が必要な場合は、医師――教会の施療に繋げるのが筋だ。しかし、今回はハインミュラー司教自らが治療を諦めるほどだ。アミュウが介入できる余地はわずかも残っていないだろう。

 アミュウがコーヒーをもう一口味わっていると、すがるような視線をギュンターが寄越してきた。


「アミュウさんは魔術師だというお話でしたね。東部には、昔ながらの魔法が残っていると聞いたことがあります。アミュウさんの力で、ヒルデガルドさんを元気付けることはできませんか?」


 教会による施療の限界がそのままヒルデガルドの限界だ。そのことを穏やかに伝える言葉をアミュウが探しているうちに、ジークフリートが前のめりに答えた。


「こいつ、すげーんだぜ! カーター・タウンが流行り病でやられたときも、どれだけの人が助けられたか」

「やめて、ジーク。無責任なこと言わないで」


 アミュウがぴしゃりと言い放つと、ジークフリートは言葉を切った。アミュウは改めてギュンターに向き直った。


「私は医者ではありませんし、魔術は万能ではありません。教会にこれ以上できることがないのなら、私にだってできることはないでしょう」


 アミュウがはっきり告げると、ギュンターは肩を落とし、目に見えてしょげ返った。


「そうですか……すみません、無茶を言ってしまいました」


 がっくりとうなだれ、口をきゅっと結んだギュンターの様子に、アミュウは心打たれた。ギュンターにとってヒルデガルドは、血縁関係にない。もうすぐ妻となるフリーデリケの祖母であるというだけで、いわば他人だ。他人のためにここまで一生懸命になれるのは、彼自身の優しさや、フリーデリケへの愛情深さの表れなのだろう。彼女を悲しませたくない、笑顔で結婚式に臨みたいという、純粋な願いが見て取れた。

 悄然としたギュンターに、アミュウは提案した。


「医療という面で、私にできることはありません。けれども、病封じの願掛けを教えて差し上げることなら、あるいは」


 うつむいていたギュンターはゆっくりと顔を上げた。


「願掛け……?」

「いわばおまじないです。医学的な効果はありません。けれども、大昔から人は病にかかると、色んなおまじないで厄を払おうとしてきました。先人たちの知恵にあやかることに、意味がないとは、私は思いません」


 アミュウの説明に、ジークフリートは腕を組んで頷いてみせた。


「病は気からってことか」

「どうすればいいんですか?」


 ギュンターの問いに、アミュウは三つの条件を提示した。まずは、ヒルデガルド本人が了承し、まじないを信じる気持ちがなければ願掛けは成立しないこと。次に、願掛けに必要な材料はギュンターが用立てること。最後に、フリーデリケには一切を秘密にすること。

 ギュンターは首を傾げた。


「ひとつめ、ふたつめの条件は分かりましたが……どうしてフリーデリケにおまじないのことを話してはいけないのですか?」

「ヒルデガルドさん自身がそう望んでいるからです。ヒルデガルドさんが元気でいようとする気持ちは、孫を心配させることなく結婚式を無事に迎えたいという願いから生まれているのでしょう? だったら、フリーデリケさんに話すわけにはいきません」


 ギュンターは少しの間考える素振りを見せたが、すぐに返事した。


「わかりました。僕に何ができるか、教えてください」


 アミュウはギュンターに微笑んでから、隣のジークフリートを小突いた。


「もちろん、ジークにも協力してもらうわよ」

「えっ? 俺?」


 ジークフリートは目を白黒させながら、ギュンターと一緒にアミュウの説明に聞き入った。

 その日の夕方にギュンターがヒルデガルドに事の次第を話しに行き、アミュウたちは夜に待ち合わせて結果を聞くことになった。

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