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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第七章 赤い糸のつむぎ歌

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7-18.病床の祖母

 老婆は時々うめき声を上げるが、なかなか起きる気配がない。ジークフリートは食卓の椅子を二脚運んでくると、一方をアミュウのそばに置き、自分の分は少し離れたところに置いて、どっかりと座った。


「まいったな。ばあさんを放っておくわけにもいかねえし……しばらく動けねえぞ」


 アミュウは曖昧に相槌を打ちながら、ヒルデガルドの様子を観察した。脈が若干不安定で、呼吸も時々荒くなる。あまり良い状態ではなさそうだ。


「もう少し様子を見て気が付かないなら、教会に知らせた方がいいかもしれないわね」

「えっ、葬儀ってことか⁉」


 慌てふためくジークフリートにアミュウはぴしゃりと言い放つ。


「馬鹿! 施療室に往診をお願いするのよ。縁起でもないこと言わないで」


 ジークフリートは「わりぃ」と詫びてから、首を傾げた。


「けど、ハインミュラーも聖堂騎士団も出払ってるだろ? 施療室に残ってる奴なんかいるのか?」


 アミュウは返事に詰まった。手の打ちようがない。


 ヒルデガルドが意識を取り戻したのは小一時間後だった。まだぼんやりしていて起き上がれない彼女に、アミュウは脱脂綿に含ませた水を与えた。脱脂綿は、化粧台にあったものを勝手に拝借した。水分を得たヒルデガルドは、ようやく人心地ついたようだった。


「ごめんなさいねぇ……ご迷惑かけちゃったわね」


 ヒルデガルドは薄目を開いて言った。


「とんでもないです。よくあるんですか?」

「うぅん……ええ、たまにね」


 ヒルデガルドは躊躇いがちに答えてから、壁にかかっているウェディングドレスへと目を向けた。


「リケの結婚式までは何が何でも頑張らなくちゃね」

「そんなに悪いのかよ」


 遠巻きに眺めていたジークフリートが驚きの声を上げた。


「教会の先生には、あちこちガタがきているって言われているわ。もうこんなにおばあちゃんなんだもの。仕方ないわ」


 アミュウとジークフリートは顔を見合わせた。具合の悪い老人を放っておくことはできない。二人の間には、言葉に出さなくても同じ考えであるという確信があった。


「ヒルデガルドさんは一人暮らしなんですよね? ご家族は?」


 アミュウが訊ねてみる。ヒルデガルドはふっと目を閉じた。


「夫は随分前に亡くなってね。でも、夫と子どもたちと過ごしたこの家をどうしても離れたくなくて、ちょくちょく子どもたちや孫に来てもらっているの。この後も娘が来てくれるはずだから安心よ。心配してくれてありがとう、リケのお友だちさん」


 そこまで言ってから、ヒルデガルドは思いついたように訊ねた。


「そういえば、あなたたちのお名前を聞いていなかったわね。私はヒルデガルド。フリーデリケの母親は私の娘よ」


 アミュウとジークフリートが名乗ると、ヒルデガルドはそばにいたアミュウの手を握って言った。


「お願い。リケには、私の具合が悪いことは言わないでね。婚礼前の楽しい気分に水を差したくないの」


 ヒルデガルドの容態が安定したのを見計らって、アミュウとジークフリートは海辺の丘の家を辞した。まとわりつくような潮風に吹かれながら、アミュウは物思いにふけっていた。フリーデリケは、祖母は足腰が弱っていると言っていたが、アミュウの目から見れば、弱っているのは足腰だけでない。明らかに内部疾患があるようだが、教会の施療を受けているのであれば、それ以上アミュウにできることはない。

 ヒルデガルドの、孫娘の晴れ姿を見たいという気持ちは痛いほど分かる。隣のジークフリートを見てみれば、アミュウと同じ様に複雑な表情をしていた。




 マルクト広場を通りがかる頃には、すっかり正午を回っていた。昼休みの時間帯とあって、広場は賑やかさを増しているが、この人手の多さはそれだけが理由ではないようだった。

 人混みの向こうに、白地に金の十字の旗が見えた。見物しようとしたジークフリートが人混みを割って前の方へ進んで行くので、アミュウも帆布のかばんを前に抱えて、彼の後を追った。


 アミュウの目に入ったのは、凱旋する聖堂騎士団の一行だった。旗持ちを先頭に、勇壮な胸当てを身に着けたカタリーナ・ハインミュラー司教と、屈強な騎士団員、そして僧兵が続く。一行は泥と血で汚れていたが、かすり傷ばかりで、重傷者はいないようだった。元気な者たちは棒に吊るした巨大な狐の頭を、見せつけるかのように肩に担いで歩いている。狐の頭は豚ほどの大きさがあった。野次馬たちが歓声を上げる。


「さすが、クーデンの連中だな」


 ジークフリートが呟く。アミュウが「どういうこと?」と訊ねると、ジークフリートは騎士団一行に目を向けたまま答えた。


「西部は治安が悪いだろ? 昔から自警団の連中が警備に当たってたんだ。その自警団を、ちょっと前にハインミュラーが『聖堂騎士団』なんて大層なやつに改編しちゃってさ、それまでは腕に覚えのあるやつらの寄せ集めだったのが、軍隊みてえな組織になったんだよ。今じゃこの街は、ソンブルイユの次に強えんじゃないかな」

「ふぅん……」


 衆人環視の中、ゆっくりと歩を進めるカタリーナは、その年齢と小柄な身体に似合わない圧倒的な存在感を放っていた。口元には優しげな微笑みを湛えているが、目はまったく笑っていない。


(この人はこんな笑顔を浮かべながら、ヴェレヌタイラに残された建物を壊すよう、ベルンハルトさんに言いつけたのかしら)


 カタリーナがこちらを見た。アミュウというよりは、隣のジークフリートと目が合ったようだった。ジークフリートはぎくりと肩を震わせたが、カタリーナは口元のほほ笑みの角度を少し吊りあげただけで、正面へと視線を戻した。


 騎士団一行が通り過ぎてしまうと、マルクト広場はいつも通りの喧噪に戻った。もつれた糸がほどけていくように散らばっていく人々には目もくれず、ジークフリートは騎士団一行が進んで行った先、教会の方をじっと見つめていた。アミュウが彼のマントを引いてみると、ジークフリートは眉間のしわを一層深めた。


「こんなの、まるで見世物じゃねえか。いや、見せつける必要があるのか……?」


 ジークフリートの呟きを耳にして、アミュウにもようやく彼の懸念が理解できた。ソンブルイユ出立の前、糺は、ハインミュラー卿はブリランテ自治領のお目付け役であると言っていた。ブリランテの治安が悪化している今、クーデンがことさらに軍事力を強調しているということは、ブリランテを牽制しているのだろう。しかし、過度なふるまいは両者間の緊張を増大させてしまいかねないのではないだろうか。

 ジークフリートは棒立ちになって考え込んでいたが、やがて大きく伸びをした。


「腹減ったし、ロッテんとこへ冷やかしに行くか。昨日の文句も言いてえしな」

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