7-16.クーデン教会
「頭いてぇ……」
ジークフリートは朝食のテーブルに突っ伏した。どこか遠くで鶏の声が響いている。つぐみ亭の一階の食堂は朝の清々しい光に包まれていたが、ジークフリートの周りだけどんよりと空気が濁っているかのようだ。アミュウは咀嚼したパンを飲み込んでから言った。
「飲みすぎるからよ」
「うぅ」
彼は顔を上げ、頬杖をついてコップの水を飲み干した。その顔色は冴えない。
「ったくロッテのやつ。ここぞとばかりに飲ませやがって……」
アミュウはジークフリートのコップに水を注ぎながら、歌姫のことを考えていた。ナタリアはそれなりの額の金をカーター・タウンの銀行に預けていたはずだが、彼女の容姿がアモローソに変貌してしまった以上、その金を引き出すのは難しいだろう。彼女が身に着けていたアメジストの首飾りを売れば多少の金になるかもしれないが、それも今はジークフリートの手に渡っている。手持ちの金を得るために、身一つで稼げる歌い手の仕事を始めたとしても、不思議はない。
テーブルに置いた水差しの白磁の表面に、カーター・タウンの酒処カトレヤで歌っていたナタリアの姿が浮かんできた。あの日、リュートをつま弾いてささやくように歌っていたナタリアの声は、やがて夢の中で聴いた、低く艶のあるアモローソの声へと変わっていった。
夢の中での歌声を追いかけるアミュウの耳に、今度はうつつの鐘の音が遠く聞こえてきた。窓の外へと顔を向けると、突っ伏していたジークフリートも顔を半ば上げた。
「マルクト広場の奥に教会があるんだ。朝の礼拝の時間だな」
アミュウはカラコロと鳴り響く鐘の音に耳を澄ます。知らないうちに閉じていた目を開いて、思い付きを口にする。
「ねえ、私、今から教会に行ってみることにするわ」
「今からァ?」
ジークフリートは眉間にしわを寄せて抗議の声を上げたが、アミュウは構わなかった。
「お祈りの時間ってことは、人がたくさん集まってくるはずよ。その中にナターシャがいるかもしれないでしょう。それに、ハインミュラー卿がどんな人か、見ておきたいの。大丈夫、大体の場所は分かるから、一人で行けるわ」
「あのなぁ」
ジークフリートはゆっくりと首を横に振った。頭を動かすだけでもつらそうだった。
「昨日スリに出くわしたばっかだろ。この街で女の一人歩きがどんなに危ないか、アミュウは分かっちゃいねえんだ。俺もついていくよ……うっぷ」
ジークフリートがえずいたので、アミュウは慌ててパンの盛られていたボウルの中身を空けて、彼の目の前に差し出した。
「いや、大丈夫だ……うっ!」
ジークフリートは手のひらで口を覆うと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、猛スピードで便所の方へと走っていった。アミュウは追いかけるべきか迷ったが、いくらも経たないうちに、ジークフリートは軽い足取りで戻ってきた。随分とすっきりとした顔色になっていた。
「大丈夫?」
「おうとも!」
爽やかな笑顔で親指を立てるジークフリートに向かって、アミュウは思いっきり溜め息をついた。
「二日酔いなら寝てていいのよ」
ジークフリートは肩を落として、しょぼくれた。
「いや、大丈夫なんだけど……俺さ、ハインミュラーが苦手なんだよ。だから、外からちょっとのぞくくらいにしとこうぜ」
そして彼は余ったパンを布に包み、「なんだか聖輝みたいだな」と呟きながら食堂を出て行った。パンを持ち帰るという行為に、聖輝の仕草が思い返される。アミュウは聖輝の無事を祈りながら、ジークフリートの後を追った。
マルクト広場に面した市役所の奥に、教会の尖塔がのぞいている。庁舎をぐるりと回ってみると、突如として街中に緑地帯が出現した。緑地帯とはいっても今は色彩を失い、冬木立ばかりだ。枝ぶりをよく見ると、あちらこちらに新芽がぷっくりと膨らんでいる。繊細な模様を描く枝の奥に、赤みがかった屋根の教会が透けて見える。建物はあまり大きくないが、聖堂前には広場があり、建物の奥には裏庭が広がっていて、敷地面積はかなりありそうだ。
アミュウとジークフリートが教会に到着したとき、聖堂から讃美歌が聞こえてきた。建物の入り口にほど近いオークの裸木の下で、二人は思わず足を止めた。歌声は美しかった。
今日も晴れていた。冬のぼんやりとした薄青い空に、赤土でできた屋根瓦が映えていた。乾燥した空気に染み入るように歌声が響く。ごくシンプルな旋律とオルガンの豊かな音色が絡み合い、丸裸の木々の枝を揺らして、とろけそうな空へとほどけていく。シジュウカラのさえずりがハーモニーを奏でた。目を閉じて聞き入っていると、夢のような歌は終わった。
聖堂の扉が内側から開き、礼拝を終えた人々が一斉に押し出されると、アミュウは目を見開いて人波の中からアモローソの姿を探そうとしたが、それらしき人影は見当たらない。代わりに、見知った人物を見つけた。
「ねえ。あれ、フリーデリケさんじゃない?」
アミュウが指差すと、ジークフリートも「おう」と声を上げた。エプロン姿のフリーデリケはこちらに気付かない様子で、出口には向かわずに、裏庭方面へゆっくりと歩いていた。
参拝者たちがわらわらと教会の出口から門の方へと押し寄せてくる。フリーデリケの姿をみとめたものの、声をかけるには遠すぎて、アミュウたちはそのままオークの木の下で人々たちが門の外へ出ていくのを眺めていた。しかし、とうとう最後の一人がいなくなっても、アモローソを見つけることはできなかった。ジークフリートは肩をすくめて手のひらを天に向けた。
アミュウは聖堂の扉へと続く階段を軽やかにのぼり、開いたままの扉からそろりと中を覗いた。がらんとした聖堂には、さきほどまでの人いきれの残滓が感じられる。質素な作りの側廊の石壁に嵌め込まれたのは、色ガラスではなくごく一般的な透明ガラスで、朝の陽の明るさをそのまま引き込んでいた。内陣の方にはささやかなステンドグラスがあしらわれていて、左右に男神と女神を、そして中央には月を象っていた。
ステンドグラスから差し込む黄色や青、ピンク色の光よりももっと奥で、枢機卿の位を表す深紅のガウンを纏った小柄な人物が、礼拝の片付けをしていた。
彼女――遠目ではあったが、鼻歌を歌う声から女性であるとすぐに分かった――は、後ろのリードオルガンの譜面台から楽譜を取り上げ、鍵盤の蓋を閉めた。そしてくるりと振り向いた拍子にふと顔を上げ、聖堂の入口からひょっこりと顔を出すアミュウと目が合った。どきりとしたアミュウは、曖昧に笑って挨拶した。
「あら……お忘れ物? 見ない顔ね」
女性はおっとりとした声でアミュウに話しかけてきた。彼女がクーデン司教区枢機卿、カタリーナ・ハインミュラーなのだろう。老化によって色素の抜けかかった金髪をお団子にひっつめ、灰色の目は年齢相応に濁っていたが、肌の皺はほほ笑みの形に刻まれている。今さら逃げるわけにもいかず、観念したアミュウは聖堂へと足を踏み入れた。
「すみません。旅行中なのですが、この街の教会がどんなところか見ておきたくて」
「旅のお方なのね。どうぞいらっしゃい。興味を持って頂いて嬉しいわ」
女性は笑顔でアミュウを招き入れた。アミュウは勇気を出して内陣の方へと進んだが、身廊の通り道に敷かれた赤茶色の絨毯のために、足音は響かない。聖堂内を見渡す。商業都市クーデンという街の規模にそぐわず、小さく控えめな雰囲気の教会だった。壁の漆喰を見ると、傷付き削れている箇所もある。長椅子は摩耗し、塗料が剥げていた。言葉選びに迷いながらアミュウは言ってみた。
「歴史がありそうですね」
「おんぼろでしょう。清貧の誓願を地で行っているのよ」
女性は柔和な笑顔で応じると、再び聖堂の入り口に顔を向けた。扉のところでは、いつの間にかジークフリートが立っていて、中の様子をうかがっていたが、女性と目が合って雷にでも打たれたかのように体を強張らせた。
「そちらのお兄さんには見覚えがあるわ。聖堂騎士団にいたでしょう。確かヴェレヌタイラの――」
ジークフリートは渋々といった様子で聖堂内へと歩を進めた。
「ジークだ。まだ聖堂騎士団になる前の自警団の頃に、少しだけ。教会からの依頼で大型獣殲滅作戦と商船護衛に出たことならあるぜ、ハインミュラー司教」
ジークがハインミュラーと呼んだ女性はポンと手を打って嬉しそうに言った。
「ジーク! ええ、覚えていますとも。まだほんの少年だったあなたの頼もしい活躍ぶりを。しばらくぶりだけれど、クーデンに戻ってきてくれたのね」
ジークフリートは辟易した表情を浮かべたが、彼女は構わずに続けた。
「ちょうど人手が足りないところだったのよ。まだ傭兵のお仕事を続けているんでしょう」
「今はこいつの護衛と、人探しをしてるんだ。最近、しゃべる鳥を連れた女が現れなかったか? いや、男の格好をしてるかもしれねぇんだが……」
アミュウは納得した。やはりこの女性がクーデン司教区枢機卿、カタリーナ・ハインミュラーなのだ。カタリーナはジークフリートの問いかけに首をひねって「さあ?」とだけ答えた。
「それより、どう? 聖堂騎士団なら、あなたも存分に腕を振るえるでしょう。もう一度、王国のため、善き行いのために、剣を振るってみない?」
カタリーナは女神のような笑顔を浮かべてジークフリートを誘った。「ガラじゃねえんだよな」と言ったジークフリートの表情は、あちこち引き攣っていた。カタリーナはなおもジークフリートを口説く勢いだったが、聖堂の入り口から飛び込んできた修道士が彼女を阻んだ。
「司教! 北側の街道近くで大型獣が出現したとの通報がありました!」
修道士の報告に、それまで微笑みをたたえていたカタリーナの表情は一変した。目じりの皺は張りを取り戻し、眉はきりりと一文字を描き、口元はピンと引き締まる。彼女の周りの空気にびりびりと張りつめた緊張感が走り、アミュウは怖気づいた。
「今すぐ騎士団を集めなさい。私が直接指揮を執りましょう」
カタリーナは祭服をひるがえし、アミュウたちの脇を足早に通り過ぎて行った。彼女の上背はアミュウと同じかもう少し高いかという程度だったが、小柄な身体から発散されるエネルギーの密度は濃厚で、存在感があった。彼女は身廊の途中で振り返り、笑顔で言い置いた。
「心配しないでね、旅の方。ごゆるりと観光を楽しんで」
その笑顔が、先ほどまでの柔和な笑い方とはうって変わった凄みを帯びた表情だったので、彼女たちが行ってしまった後でアミュウは自らの二の腕を抱いた。
「……不思議なひとね」
「俺が苦手だって言った意味、分かっただろ」
ジークフリートは最前列の長椅子にどっかりと座って両足を投げ出した。アミュウも通路を挟んだ向かいの椅子に腰かけて、外の様子を窺った。どこからわいて出たのか、武装した男女が、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、聖堂前の広場に隊列を組んでいく。十五名から二十名ほどだろうか。彼らは思い思いの格好で武器を手にしていたが、皆一様に肩や襟に十字のピンを付けていた。あれがフリーデリケの話していた徽章だろう。カタリーナは何やら激励の言葉を送っているようだが、こちらに背を向けているので、話の内容までは聞こえなかった。
ひときわ大きく鬨の声が上がると、彼らはマルクト広場の方面へ行ってしまった。
「大丈夫かしら」
ぽつりと呟いたアミュウの声は、ドームの天井に反響した。
「平気だろ。あいつらはこういう非常事態のために訓練された、言ってみりゃ兵隊だ。もう出ようぜ。用事は済んだろ」
ジークフリートに促されて、アミュウはのろのろと立ち上がった。教会見学は、徒労に終わった。




