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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第七章 赤い糸のつむぎ歌

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7-15.歌姫の影

 街の中心部から、南部に広がる工業地帯へつながる道が絹の道(ザイデン・ストラ―セ)だ。織り上げられた大量の布を運ぶこの道は、シルクロードとも呼ばれていて、何でも旧世界の東国と西国をつなぐ交易路の名からとったらしい。この大通りを通って運ばれるのは絹だけでなく、綿、麻、毛の糸や織物、繭玉に染料など、およそ繊維業に関わるものは何もかもだった。大型の荷車が行き交い、問屋が軒を連ねる絹の道(ザイデン・ストラ―セ)の一本裏手に、樽横丁(ファスガッセ)がある。仕事帰りの工員たちが食事をしたり、酒をひっかけたりする飲み屋街だ。

 時刻はまだ三時半。どの酒場も仕込み中だった。日が暮れて客でごった返す時間に聞き込みをするよりはましだろうと、ジークフリートは居並ぶ酒場の一つに遠慮もなくずかずかと入っていった。見るからに頑丈そうな構えの、古びた店だった。


「ジークじゃないか、随分と早いね」


 仕込み中の女が笑顔を浮かべてジークフリートを出迎えた。知り合いらしい。首を傾げたアミュウの方へと振り返ったジークフリートが、彼女はヴェレヌタイラ出身なのだと説明した。


「身軽な旅人なんでね」

「うらやましいよ。あたしも仕事を放り出して旅に出たい。何を飲む?」

黒雲ドゥンケル・ヴォルケン。こいつには何か酒じゃないやつを」


 アミュウが何も言わないうちにジークフリートは注文を済ますと、女の目の前のカウンター席に腰かけた。アミュウもおずおずと隣に座る。


「上着はあっちにかけなよ」


 黒ビールのジョッキを差し出しながら、女はホールの奥の衣装掛けを指差したが、ジークフリートは首を横に振った。


「なんだ、ゆっくりしていかないのかい」

「ちょっとロッテに聞きたいことがあってさ」


 ロッテと呼ばれた女はふぅんと相槌を打ってからアミュウに向き直り、「観光なんだろ。バターミルク(ブッターミルヒ)なんてどうだい?」と訊ねた。勧められるままに頷いたアミュウは、ホットミルクにバターを溶かしこんだ飲み物を思い浮かべていたが、差し出された乳のような液体は想像とまったく別の冷えた飲み物だった。


「酸っぱい!」


 アミュウがすっとんきょうな声をあげて目を白黒させると、ロッテはカラカラと笑い、戸棚から蜂蜜の瓶を取り出した。


「甘くすると飲みやすくなる。体にいいんだよ」

「なあ、最近評判の歌姫って知ってるか?」


 ジークフリートが訊ねると、ロッテは笑顔を引っ込めて顔をくもらせた。


「なんだい、あんたも歌姫目当てかい」

「探してるんだ。こいつの姉貴なんだよ」

「へえ?」


 ジークフリートに背中を叩かれて、アミュウは縮こまった。ロッテの目線がアミュウを値踏みしているように感じられたのだ。


「その話が本当だったとして、役に立つようなことは教えてあげられないよ――あの歌姫が来るのはうちじゃないからね」

「どこの店か分かるのか⁉」


 ジークフリートがカウンターに身を乗り出してロッテを問いただす。彼女は体を引いて胡散臭そうにジークフリートを見た。


「そりゃあ、店の名前くらいはね。なんだい、妹さんよりもあんたの方がよほど必死だねぇ」

「教えて下さい、どこにいるのか」


 アミュウはジークフリートを席に着かせると、ロッテをまっすぐに見て懇願した。ロッテはため息をつき、額を手で押さえた。


「いいけど、せめてうちでゆっくりしていっておくれよ。あの歌姫が現れてからこっち、客をだいぶ取られてるんだ」


 アミュウが目をしばたたかせている間に、ジークフリートはビールを飲み干し、ロッテに空のジョッキを差し出した。


「おかわり!」


 ロッテは声を立てて笑い、樽のサーバーから黒ビールを注いだ。アミュウはジークフリートの外套を脱がせ、自分もオーバーを脱ぐと、ホールの奥の衣装掛けに掛けてきた。




 ジークフリートにしこたまビールを飲ませ、さんざんつまみを彼の口に押し込んでから、ロッテは三軒となりの角地の酒場に歌姫が現れるのだと教えてくれた。既に日が暮れかけていた。


 アミュウはふらつくジークフリートを支えて、教わったとおりの店へ行ってみた。立派な看板には、古風な書体でツァイラー亭ツァイラー・エッククナイペとの文字が躍る。店内に入ってみるとかなり大きな酒場で、ホールの隅には小さなステージと、グランドピアノが据えてあった。

 席につくなり突っ伏したジークフリートの代わりに、アミュウは思い切って酒を注文した。ビールではなく、少しでも口に合いそうなホットワインを選んだのは、酔うことへのささやかな抵抗だった。


 幸いにも、まだ客でにぎわう時間ではなかった。ワインを舐め、チーズをつまみながら店の様子をうかがっていると、給仕の男がアミュウたちの席のそばを通りがかった。アミュウは男を呼び止め、歌姫の所在を訊ねたが、彼は首を横に振った。


「彼女が来るのは気まぐれです。主人ヴィルトだって、よく分かっちゃいません」

「今日は来るでしょうか」

「さあ……来る時間もまちまちで。こればっかりは、歌姫の機嫌次第ですね」


 給仕の男の返事は判然としなかった。アミュウは顎に手を当てて少しの間考え込んだ。男の答えの通りなら、歌姫に会えるまで毎晩ここに通うしかない。席を離れかけた男に、アミュウは重ねて問いかけた。


「歌姫の名前は? どんな方ですか?」


 男は困った様子で両方の手のひらを宙に向けた。


「ただ歌姫(ディーヴァ)とだけ名乗っていて、みんなそう呼んでいます。いつもピンク色のひらひらしたドレスを着ていて、まるでおとぎ話のお姫さまみたいな」


(アモローソ王女だわ)


 アミュウは直感した。

 給仕の男に礼を述べ、アミュウはすっかり冷めたワインを舐めた。少しずつ増え始めた客たちの喧噪が耳に心地よい。時折、どこかの席から煙草の煙が流れてきた。ジークフリートは穏やかな寝息を立てている。

 今夜、この場に、アモローソが現れるかもしれない。アミュウは不思議と落ち着いた気分で、その時を待った。


 客たちが広いホールの席を満たすころ、歌姫の姿のないまま、隅のステージでトリオの演奏が始まった。アコーディオンとヴァイオリン、そしてフルートがポルカを奏でると、やがてステージ前へと吸い寄せられた客たちがくるくると踊り始めた。時折、酔った客同士の小競り合いが始まるが、ホールの番をしている屈強な男が睨みをきかせると、大抵の客たちはおとなしくなった。あの男も傭兵らしい。

 アミュウには、彼らの騒ぎが遠く感じられた。時折店の入り口の方を振り返ってみたが、アモローソらしい人影は現れない。夜が深まるまでアミュウは粘ったが、ついぞ歌姫は姿を見せなかった。アミュウは会計を済ませるとジークフリートを揺り起こし、むにゃむにゃと寝言を繰る彼を引きずって、樽横丁(ファスガッセ)からクララ横丁(ガッセ)つぐみ亭ガストホフ・ドロッセルへと戻っていった。

挿絵(By みてみん)


「月下のアトリエ」は2023年2月19日に150,000PVに到達しました。

読んで下さる全ての方々に厚く感謝申し上げます。

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