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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第七章 赤い糸のつむぎ歌

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7-10.ホステル・ヴェレヌタイラ

「ここはホステル・ヴェレヌタイラ。村がなくなっちまった後も、街道にはどうしても休んだり、馬を交換したりする拠点がいるだろう。ここはそういう場だよ。俺はベルンハルト」


 初老の男が髭についたビールの泡を手の甲でぬぐい、小じわだらけの目を細めた。アミュウは軽く会釈をしてから、ジョッキビールを持ってきてくれた婦人に目を向けた。


「そちらは奥様ですか?」


 婦人は声を立てて笑うと、ベルンハルトの背中を叩いて言った。


「ふふ、きょうだいなんだよ。この子は弟」

「ごめんなさい!」


 アミュウが慌てて謝ると、ベルンハルトも歯を見せて笑った。


「気にしないでくれ、よく間違えられるんだ。お嬢さんだけじゃない」


 婦人はもうひとつジョッキビールを運んでくると、アミュウに向かって自ら掲げて見せた。


乾杯(プローシット)!」


 アミュウも恐る恐るジョッキを掲げると、ベルンハルトの姉は自分のジョッキの底をアミュウのジョッキにコツンとぶつけてきた。アミュウはビールに馴染みがなかったが、こうなると飲むしかない。そっとジョッキに唇を付けると、泡ばかりの中にほんの少しだけ、苦みと炭酸の刺激のある液体が口の中に流れ込んできた。率直に言って、アミュウの口には合わなかったが、婦人も、ベルンハルトも、ジークフリートも御者も皆うまそうにその飲み物をごくごくと飲んでいる。


「よかったじゃないか、ウルズラ。ベルンハルトは髭もじゃだけど、これでなかなか男前だぜ。奥さんに見られるなんて、光栄じゃないか」


 御者は、親しい者同士の気安い口調で婦人に言った。婦人の名はウルズラというらしい。


「何言ってんのよ、順番が逆。あたしの方が先に生まれたんだから、この子はあたしに似たの」

「はは、違いねえ。あんた、女にしとくにゃ勿体ないくらい男前だぜ」

「誉め言葉として受け取っとくよ」


 ウルズラは御者の軽口をいなして、ビールをあおった。その飲みっぷりといったら、見ていて気持ちが良いほどだ。アミュウは、御者が「男前」と言ったのが分かる気がした。御者と一緒になってひとしきり笑ってから、ジークフリートがアミュウに声をかける。


「おい、アミュウも食えよ」


 めいめいが大皿から好きな分だけ小皿に料理を取り分けて食べている。アミュウもサラダとクロースを自分の皿にとり、口にしてみた。酸味の効いたザワークラウトに、芋団子の素朴な味わいがよく合う。テーブルにはクリームソースも用意されていた。クロースにクリームソースを付けて食べると、酸っぱくなっていた口の中が中和され、まろやかになった。

 ウルズラは厨房からもう一品料理を持ってきた。ニシンの酢漬けとヨーグルトを和えたその料理を前に、ジークフリートの目が輝いた。


「ヘリングスゲリヒテだ!」

「あなたは坊主の頃からこれが好物だったねぇ。たんとお食べ、ジーク」


 ウルズラがジークフリートの皿にニシン料理とクロースを取ってやると、ジークフリートは待ちきれないといった様子でがっつき始めた。

 この素朴な宿の家庭的な雰囲気が、アミュウには好ましく感じられた。アミュウはウルズラに話しかけてみた。


「すごく美味しいです。食材も限られているでしょうに、こんなに美味しく作れるなんて」

「ふふ。ミルクならたくさんあるのさ。裏の小屋で牛を飼ってるんだよ」


 得意げに話すウルズラに、御者も続く。


「馬たちもそこで休ませてるんだ。ほんと、このホステルがあって助かってるよ」


 アミュウはまさにその点が気になっていた。馬車から見えた様子では、このヴェレヌタイラにほかに人は住んでいないようだ。なぜウルズラとベルンハルトはこんなところにたった二人で住んでいるのだろうか。ほかの住人たちはどうしたのか。

 舐めるように少しずつ口にしているビールの力もあってか、アミュウはその疑問を口にした。


「街から離れて暮らすのは大変なことだと思います。お二人だけではご不便も色々あろうかと……それに、危ないことはありませんか? 最近は大型獣があちこちで出ますし」


 ウルズラは困ったように口ごもり、代わりにベルンハルトが答えた。


「けものよりも人の方がよっぽど恐ろしいよ」

「え?」


 アミュウは戸惑いを露わにベルンハルトの髭面を見たが、ベルンハルトはその先を口にせず、ジークフリートの様子を窺っていた。空のジョッキを置いたジークフリートは、既に鎧戸の閉まった窓の方に目を向けた。その目は、今は見えない、窓の外の海が見えているかのようだった。ジークフリートは苦々しげに言った。


「土砂崩れに巻き込まれなかった家も、壊れてただろ。あれは、俺たち生き残った村人がやったんだ」


 アミュウは意味が分からずに、「どういうこと?」と訊き返した。


「空き家のまま残しておいたら、盗賊だの海賊だのの住み家になっちまう。だから、この村長の家だけ残して、他はみんな壊して回ったんだ」


 いつの間にかウルズラが、空になったジークフリートのジョッキにビールのお代わりを注いでいたようだった。ジークフリートは喉を鳴らしてビールを飲んだ。ウルズラも同じようにビールを飲んでから言った。


「ヴェレヌタイラはもともと小さな村だったからねぇ。港が潰れて船が出せなくなっちまったら、誰も生きていけない。それにこれだけの瓦礫、片付けようもないさ。クーデンやソンブルイユへ移っていった連中には、何にも文句は言えないよ」

「腰抜けが」


 音を立ててビールのジョッキを置いたベルンハルトの表情は、ひどく忌々しげだった。


「ここを捨てて逃げていった連中の肩を持つ義理はねえぜ、姉貴」




 食堂を出て部屋に戻るとき、ジークフリートはアミュウを呼び止め、周囲を気にしながら自分の部屋へと招き入れた。アミュウが通されたのと同じ、狭い六人部屋だった。


「こんな何にもない村で宿なんて、やっていけると思うか? おかしいだろ」


 ジークフリートは前屈姿勢で三段ベッドの最下段に腰を下ろした。前かがみでなければ、頭が上段につかえるのだ。アミュウは立ったまま頷いた。


「ベルンハルトさんたちが、この村を離れたくないと思っているのはよく分かったわ。豪雨災害については、とても不幸な出来事だったと思うけど……」

「違うんだ。いや、その通りなんだけど……もうちょっと複雑でさ」


 ジークフリートは前傾姿勢のまま頭を抱えて言葉を続けた。


「村人すら見捨てた村だ。生きていくための基盤がなんにもねえ。でも、東西の行き来のためには、ここを拠点にしなけりゃどうしようもねえのも確かだ」

「そうね。馬車の旅が野宿になっちゃうわ」

「そうなったら困るのは、クーデンの連中だろ。この宿の財布には、クーデンの金が入ってんだ」


 アミュウは驚いたが、すぐに合点が行った。街道の陸路交通が途絶えれば、商業都市のクーデンにとって大きな痛手だ。多少の面倒を見ながらでも、ここヴェレヌタイラに交通上の拠点を維持するだけの理由がある。


「ベルンハルトのおっさんやウルズラのおばちゃんが、ヴェレヌタイラに強い思い入れがあるのは確かだよ。でも、さっき話してたように、無事だった家までぶっ壊すように言ってきたのは、クーデンのハインミュラーだったんだ。ここに空き家があったら、悪い連中の根城になっちまうのは教会の奴らの言う通りなんだけどよ」


 ジークフリートは言いにくそうに声を落とした。


「ベルンハルトたちは、金をもらって宿を運営する以上は、ここの治安を守る必要がある。自分たちの身を守るためにもな。だからハインミュラーの奴の要求を突っぱねることができなかった……」


 ハインミュラーといえば、糺の話していたクーデン司教区枢機卿だ。土砂崩れに見舞われたヴェレヌタイラの人々に、自ら残った家々を打ち壊せとは、随分と残酷な要求だ。アミュウは自らの二の腕を抱いて、ジークフリートの話に相槌を打った。


「俺もベルンハルトを手伝って、村の馴染みの連中の家を壊して回った。みんな、村を見捨てるっていう負い目があるから、表向きは協力したよ。でもやっぱりベルンハルトたちのことを良く思わない連中も多くてさ、土砂崩れから三年も経つけど、ベルンハルトのいるこの村に戻ってくる奴は未だにいない。おかしいだろ。話の出どころはクーデンなのにさ。クーデンへ移った大勢の連中は、ハインミュラーに面と向かって、打ちこわしの件について抗議できずにいるんだ。そしてその鬱憤を、ベルンハルトたちに向けてる」


 アミュウはうつむいた。クーデンはここヴェレヌタイラから見て、最寄りの町である。被災後、相当数の移民を受け入れただろう。立場の弱い彼らが、ハインミュラー卿に異を唱えることができなかったというのは、想像に難くない。また、故郷の住み慣れた家を壊したのが同胞のベルンハルトであり、ジークフリートであったとしたら、恨みの対象がすり替わってしまうのも無理はないだろう。アミュウは声を落としてジークフリートに訊ねた。


「あなたも、ヴェレヌタイラの人たちから恨まれているの?」


 ジークフリートはばたりとベッドに仰向けに倒れ込んだ。


「分かんねえ。俺も土砂崩れの後はクーデンにいたけどよ、面と向かって何か言われたことはなかった。俺んちはベルンハルトに義理があったから、みんな俺の立場を理解してくれたよ。でも、人の心の中ばっかりは、分からないからさ……」




 その晩、旅の疲れにビールを飲んだことも重なり、アミュウはすとんと眠りに落ちた。早くに眠ったためか、明け方、鶏の声で目覚めた。眠い目をこすっていると、表から鶏の声のほかにも物音が聞こえてきた。鎧戸の隙間に目を当てて覗くと、崖を下っていくジークフリートの赤毛の頭が見えた。アミュウは顔も洗わずに、オーバーとショールを羽織ってホステルを出た。

 外はまだ暗かった。長く尾を引く雲が海から陸側に向かって伸びていて、その切れ間から日の昇る直前の橙色の光がほのぼのと見えていた。海はまだ暗いが、波音から荒れているのが分かる。

 街道の脇に、崖を下りていく崩れかけた階段が見つかった。そこだけ雑草がはびこっていないことを見ると、頻繁に行き来があるらしい。アミュウもその階段に足をかけようとしたところで、崖下の瓦礫の中にジークフリートの姿が小さく見えて、立ち止まった。海岸にほど近い場所、折れた木材や積もった土砂の中に、辛うじて家屋の基礎の石組みが覗いている。アミュウはそこが、昨夕ジークフリートが自分の家があったと指差した場所であることに気が付いた。ジークフリートは石組みに向かって胸に抱えていた何かを掲げる。


(ビール瓶だ)


 アミュウは目をすがめて、豆粒のようなジークフリートの姿を見る。ジークフリートはそのままビール瓶を傾け、家の石組みにビールを全て流した。景色を彩る花もない二月の廃墟に、ジークフリートの赤毛はよく映え、彼自身が供花のように見えた。

 アミュウはそっとその場を離れ、ホステルへと戻った。

挿絵(By みてみん)


メリークリスマス!

あたたかくしてお過ごしください。

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