7-7.クーデンへ
週はあっという間に明けた。糺と深輝、そしてヒコジとは御神楽邸の玄関先で別れたが、八栄はわざわざフォブールの停留所まで歩いて見送りに来てくれた。まだ馬車鉄道の動かない、夜が明けたばかりの刻限だった。
「どうかお姉さんが見つかりますように」
弁当包みを手渡すとき、八栄はアミュウの手をそっと包んで、すぐに話した。八栄の手はひんやりとしていて、その冷たさにアミュウの胸は詰まった。八栄は、急な客人であったアミュウたちの世話を、二か月にも渡って続けてきたのだ。アミュウは気の利いた言葉が思い浮かばす、「お世話になりました」とありきたりな挨拶しか返せなかった。八栄は目を細めた。
「八栄さんたちも、元気でな!」
既に駅馬車の長椅子に腰かけたジークフリートは、ひらひらと手を振った。アミュウも馬車に上がりこんだ。
馬車がゆっくりと動き出す。
無蓋の馬車の頭上には、まだ色づく前の白い空が広がっていた。八栄は羽織りの前を合わせて頭を垂れる。馬車はあっという間に駅前広場を出て角を曲がり、八栄の姿は見えなくなった。アミュウはずっと後ろを見ていた。
アミュウとジークフリートは、日が高くなってきた頃に八栄の弁当を口にした。小魚の佃煮を包んだ握り飯に、根菜の煮しめが添えてあった。豪華とはいえないが、冷めていても食が進むよう、味付けが工夫されていた。
これからは八栄の手料理が食べられなくなるのが心底惜しい。正面からは、無心に握り飯を頬張るジークフリートが時折「うまい、うまい」と繰り返す独り言が聞こえてきた。
弁当を食べ終わってしまうと、手持無沙汰になった。ジークフリートはさすがに旅慣れていて、たいして大きくもない荷物の中にカードゲームを加えていた。雪のちらつく寒空の下、アミュウとジークフリートは外套にくるまってゲームに興じた。
「ちくしょう! こんなとこでエースかよ⁉」
「ふふ、切り札はとっておくものよ」
アミュウは最後の手札を場に出して、ジークフリートに先んじて上がった。先に三回負けたほうが相手の言うことを聞くという賭けをしていたのだが、結果はアミュウのストレート勝ちだった。
「ジークってば相当引きが弱いわよね。よく勝負なんて言い出せたものね」
「ははは、嬢ちゃん強いねぇ。いや、あんちゃんが弱いのか」
アミュウが高らかに言うと、前方の御者までもが口を挟んできた。
「くそっ……くそう」
場の札を揃えながら、ジークフリートは肩を落とした。実際に、ジークフリートは弱かった。当人の戦略がどうこうというわけではなく、圧倒的に運がないのだ。アミュウは鼻歌をうたいながら、ジークフリートに何を言いつけようか考えていた。
街道はデウス山脈をぐるりとまわり、森の淵に沿っている。前方には森の北側をまわるカーブが見える。さらに北方の海側には、溶けずに残った雪が凍結した荒れ野が広がっていた。
見晴らしが良い分、風は身を切るように冷たい。アミュウはぶるりと震えてショールの前をかき合わせた。するとジークフリートは大きな背負い袋の中から蝋引きの革のマントを取り出し、アミュウに投げて寄越した。マントを受け取ったアミュウはきょとんとしてジークフリートの顔を眺めた。
「雨用のマントじゃない。これくらいの雪なら平気よ」
「馬鹿。移動中に熱でも出してみろ。ろくに休む場所もねえんだぜ。さっさとかぶれ」
アミュウは素直にジークフリートに従い、オーバーを着た上からすっぽりとマントを被った。硬い革は冷たい風を遮断し、確かに温かかった。アミュウはマントの中で膝を抱える。だんだんと熱が広がっていくのが感じられた。
カードを切るジークフリートの姿の後ろに、北の海に向かって広がる荒れ地が見えた。雪に包まれた荒原を、十羽ほどのうずらの群れがさまよっている。灌木の茂みから茂みへと移っていく鳥たちを、アミュウは可愛らしいと感じた。きっと傍から見れば、アミュウのうずらたちに向けるまなざしは優しかっただろう。しかしアミュウは、気まぐれなその場限りの優しさでしかないことを理解していた。荒れ地の先は灌木に遮られて見えないが、湿った潮のにおいが鼻をつく。
「……ナターシャがあなたに惹かれた理由が分かる気がする」
アミュウが漏らすと、ジークフリートの手からばらばらとカードが滑り落ちた。慌てて狭い荷台に散らばったカードを拾い集めるアミュウにはお構いなしで、ジークフリートは長椅子から手足を投げ出し、天を仰いだ。
「一応、その理由ってやつを聞いておこうかな」
ジークフリートの顔が赤くなっていたのが、冷たい風のせいばかりでないのは明らかだった。アミュウは声を上げて笑った。御者までもが肩を震わせていた。
「だって、人がいいじゃない。私にまでいつも親身になってくれるのは有難いけど、やり過ぎるとナターシャが妬くんじゃないかしら」
そこまで口にしてから、アミュウははたと気が付いた。ジークフリートとの二人旅は今回が初めてではない。スタインウッドへ行くとき、アミュウとジークフリートが二人きりで馬車をチャーターすると知ったナタリアは、激怒したのだった。すっと血の気が引いていくのを感じた。
(もしも今、私とジークが二人だけで行動していると知ったら、ナターシャはどう思うかしら……いつかのように怒るかもしれない)
ジークフリートはジークフリートで、アミュウの拾ったカードをパラパラと弄んでいた。何か思うところがあるらしい。アミュウは水を向けてみることにした。
「なあに? 何か気に障った?」
ジークフリートは手の中のカードを意味もなく切り始めた。そろそろアミュウが痺れを切らしてきたころ、憮然とした顔でジークフリートはこぼした。
「いい人ね、で終わっちまうんだよ。俺。今までちょっといいなってやつがいても、それで駄目だったんだ」
「馬鹿ねぇ」
アミュウは再び笑い声を上げた。
「ナターシャは、きっとそういうところが気に入ってるのよ。ふふ。好き放題話せるって気持ちいいわね」
「聖輝の前じゃ話せねえってか」
ジークフリートが口をとがらせて突っ込むと、アミュウの勢いは急に削がれた。
「そういうわけじゃないわ……」
「安心しろ。聖輝はじき良くなるぜ。鬼の居ぬ間になんとやら、だ。お互い羽を伸ばそうぜ」
ジークフリートは正面に座るアミュウに腕を伸ばし、蝋引きマントの上から肩をたたこうとした。アミュウはサッと身をかわして言った。
「そういうところよ」
「他意はねーよ‼」
とうとうこらえきれなかったらしく、御者が声を上げて笑い出した。
馬車はのんびりと北上していく。海から吹き込む湿った風が雪雲を運び、だんだんと牡丹雪になってきたが、革のマントのお陰でアミュウは凍えずに済んだ。ジークフリートは、愛用の赤いマントを身体に巻き付けるようにして暖をとっている。
大陸の南北を走るデウス山脈の北端をまわりきるかというところで、御者が山の方を指さした。
「なんだ、あれ……?」
デウスの山裾を覆う木々の中に、灰褐色のこんもりとした山のようなものが見えた。奇妙なことに、その山はふさふさとした毛で覆われていた。アミュウははっとしてその山を凝視した。
「おい、あれって……」
「ええ、そうね」
ジークフリートの言葉を最後まで聞かずに、アミュウは肯定した。針葉樹の林冠の隙間から見える褐色の山。大型獣に間違いなかった。




