7-1.早春の目覚め
雪が庭をしっとりと濡らしていた。空気は痛いほど冷たかったが、吸い込めば爽やかな芳香が感じられる。蝋梅が開いているのだ。雪吊りの松の葉に、半ば溶けて透明になった雪片が絡みついている。
段丘から市街地を望めば、鈍色の空を映し出す鉛板の屋根が連なっている。型抜き染めのようなモルタルがところどころで蠢いているのかと思ってよく見れば、煙突から白煙が立ち上り、モルタルの白色を溶かしこんでゆらめいている。
二月も半ばとなった。一年のうち、最も寒い時季が過ぎようとしている。
ショールを抱いて庭からソンブルイユの街並みを見下ろすアミュウの横に、いつの間にかジークフリートが立っていた。
彼はセドリックのお古のジャケットを羽織っただけで、外套は着ていなかった。アミュウが「寒くない?」と声をかけると、彼はおどけて震えあがってみせた。背中の傷はあらかた塞がっている。
二人は邸内に戻る。
「聖輝のことを考えてたのか」
居間の炉端に落ち着いたところで、ジークフリートはアミュウに訊ねた。そこではじめてアミュウは、ジークフリートが庭に出ていた彼女を心配して連れ戻しにやって来たのだと気付いた。アミュウは頷いた。
庭に面した掃き出し窓がカタリと鳴った。端のほうに、咲き始めた蝋梅の梢がちらりと見えている。その花に積もった雪の白は、聖輝の祭服を思い起こさせた。大蛇に咬まれて穴が開き、血の染みで汚れた祭服は仕立て直されたが、新しい祭服は本人が一度も袖を通さないまま、箪笥の中で眠っている。
囲炉裏の火のぬくもりが遠く感じられた。思い出されるのは、カーター・タウンの収穫祭のかがり火だ。聖輝と手を取り合って眺めた火の明るさが、まぶたの裏を甘美に刺す。遠ざかっていく囲炉裏の火と反比例して、聖輝の手のぬくもりがすぐ近くによみがえってくる。アミュウはその温度を胸の中の小箱に保管していて、いつでも取り出せるようにしていた。細密画のように記憶された聖輝の手の大きさ、骨の硬さ、皮膚のかさつきや節の盛り上がりには、あるいは多少の脚色もあったかもしれないが、アミュウは瞬時にそれらの全てを自分の手のひらに蘇らせることができた。そして決まって恐ろしくなるのだ。ある日突然、そのぬくもりが消えてしまうかもしれない。永遠に。
深輝が、聖輝の未来が見えないと語ったことも、アミュウの恐怖に拍車をかけた。彼女は聖輝の早逝を予言していたが、まさかこのような形で弟を失うことになるかもしれないとは思ってもみなかったに違いない。アモローソとなり果てたナタリアが聖輝を刺してから既に三週間が経過していた。深輝の塞ぎようは、アミュウと同じか、それ以上だった。
「大丈夫だ。必ず助かる。聖輝のおやっさんも言ってただろ」
胡坐を崩したジークフリートが、囲炉裏の火を見つめながら言った。
教会は総力を挙げて聖輝の治療を行うと、糺は確かに話していた。
この地の命運を担う聖霊の申し子が、役目を果たすことなく命を落としたら一体どうなるのか。前例がないことではあったが、この地にとって最悪の結果につながるだろうという予測は、国王と教会の共通認識だった。聖輝の治療に当たるのが国王派筆頭・グレミヨン枢機卿のお膝元であるソンブルイユ教会であることに、当初アミュウは不安を覚えたが、糺が言うには、聖輝の治療は派閥を超えて、何にも優先されるとのことだった。実際に、受傷の翌日には、医療の最先端を担うラ・ブリーズ・ドランジェ教会から複数の牧師がやって来た。ラ・ブリーズ・ドランジェのディムーザン卿は法王派だ。聖輝のために医療の粋が集められていることは、アミュウの目にも明らかだった。
しかし、高名な医師たちの手技を以てしても、聖輝の治療は困難を極めた。傷そのものが深かっただけでなく、受傷直前にヤマカガシの出血毒への曝露があったことがまずかった。どれだけ輸血を行っても、次から次へと出血していくのだ。後になって彼に注ぎこまれた輸血量を聞いたアミュウは、それだけで生きた心地がしなかった。
それでも、神の手を持つと言われる医師たちの努力により、聖霊の申し子は一命をとりとめた。赤の他人であるアミュウやジークフリートは見舞うことすら許されないが、糺や深輝はたびたび施療院に足を運んでいる。彼らが言うには、聖輝の容態はようやく少しずつ安定してきたとのことだ。
「そうね……きっと元気になるわよね」
アミュウはジークフリートの言葉に同調したが、アミュウの憂鬱は聖輝の容態のみに起因するものではなかった。聖輝を害したのは、最愛の姉なのだ。
セドリックへの手紙をしたためる際、アミュウは淡々と事実を報告することしかできなかった。すぐにカーター・タウンからヴィタリーが飛んできた。やや遅れて、大型獣への対応に追われる中でどうやって時間を捻出したのか、セドリック本人もやって来た。糺に陳謝する養父の後ろで頭を下げながら、アミュウは麻痺したように何も考えられずにいた。セドリックが誰よりも大切にしていた娘ナタリアが、かつての縁談相手を殺そうとした。しかもその縁談は、他でもないセドリック本人が持ちかけたものだ。セドリックの背中は憔悴しきっていたが、カーター・タウンへととんぼ返りする際、ソンブルイユ駅のプラットフォームで彼はアミュウに言った。
「まぁ……なんだ。今回のことで責任があるのは、俺だ。アミュウじゃない」
アミュウは言葉を返せなかった。ナタリアが失踪した原因は、アミュウ自身にあるのだ。フォブールでの初めての夜、ナタリアの前で夢の話をしなければ、姉は今も笑ってアミュウのそばにいただろう。
一方で、不可視の運命の歯車が回っていて、全員がその巨大な流れの中に巻き込まれているような予感がアミュウの胸に渦巻いている。誰もその流れに逆らえない。アミュウはため息をついた。白くなった息が無彩色の空にほどけていく。
(深輝さんは、ずっとこんな無力感を味わってきたのね……)
物思いは、客の来訪を告げる声により不意に中断された。耳を澄ますと、八栄が対応しているようだ。訪問者はすぐに帰っていった。そして八栄のばたばたと走る音と、慌てふためいた声。
「お、お嬢様! 若様が……若様が!」
アミュウとジークフリートは顔を見合わせて、居間から廊下へ飛び出した。
「聖輝がどうしたの、八栄さん⁉」
同じく廊下へ飛び出してきた深輝のもとに、八栄が駆け寄る。
「若様が、目を覚まされたそうです!」
八栄の言葉を聞いて、アミュウの膝の力が抜けた。
「おい、平気かアミュウ⁉」
ジークフリートがアミュウの腕を掴んで引っ張り上げなかったら、アミュウはその場にへたり込んでいただろう。
深輝はほんの僅かの間、放心したように口を開けていたが、すぐに顔を引き締めて言った。
「施療院へ向かいます。アミュウさんたちも、一緒に来るわよね」
「ああ、もちろんだ」
口の利けなくなったアミュウの代わりに、ジークフリートが力強く答えた。




