6-40.出産
東の空にはか細い月が上がっている。天頂を通り過ぎた北斗七星がアモローソの顔をほの白く、かすかに浮かび上がらせていた。彼女も夜空を見上げていた。物音ひとつなく、闇の中、アミュウは世界に自分とアモローソの二人しかいないような錯覚を覚えた。
闇に目が慣れると、彼女が男装しているのが分かった。結い上げた黒髪は山高帽に押し込められ、外套の裾からは、丈の短いズボンと乗馬用のブーツが覗いている。その格好は、匂い立つような彼女の顔立ちとのアンバランスさを際立たせ、未だはっきりとは明けない闇の中で妖しい魅力を放っていた。
彼女は紅の差していない唇を開いた。
「出産を手伝っているのね」
アモローソの声は、ナタリアの声よりも少し低く、よく伸びて艶があった。思えば、アモローソへと変貌してからの彼女がアミュウに声をかけたのは、これが初めてだった。アミュウはやや気後れしながら答えた。
「そうよ」
「よく言ってお人好し、悪く言って馬鹿……ですわね」
アモローソの言葉に、アミュウははっとして彼女を見た。つい先ほどまで天の星々を眺めていた彼女も、今はアミュウの方をまっすぐに見ていた。
「やっぱり、あなたなのね。ナターシャ」
アモローソは気だるげに首を横に振って否定した。
「私はあなたが夢に見ていたお姫さま。もうあなたの優しいお姉さんではありません」
「でも、ナターシャだったときの記憶はちゃんとあるのね」
アモローソは返事をせずに黙ったままだった。アミュウは畳みかけるように訊ねた。
「どうして聖輝さんを刺したの? 聖輝さんは、ナターシャを殺すつもりなんて少しもなかったわ……分からないの?」
「あなたこそ、分かってくださらないのね」
アモローソの瞳に、冷たい光が宿った。冬空を彩る北斗七星のような、冴えた輝きだった。
「聖霊の申し子である彼が過去に行った所業を、わたくしの目を通して見届けたはずのあなたなのに」
消え入りそうな月の浮かぶ東の空が白んできて、アモローソの表情がよりはっきりと見えるようになった。冷たい光を宿した目、引き結ばれた唇、そして、平素は弓なりだが、今は一文字を描く細い眉。
「わたくしは決して彼を許しません。そして、奪われた王国を再興します」
アミュウは軽いめまいを覚えた。
「正気なの? 百年も前に途絶えた歴史よ。それに、聖輝さんは昔のミカグラ卿ではないわ。過去にしがみついたってなんにもならない。大切なのは今じゃない」
アモローソは再び天を仰いだ。
「そうよ、大切なのは今……こうして現代に蘇った奇跡を、みすみす無駄にはしませんわ」
アミュウはかぶりを振った。
「違うわ! 今が大切なのは、未来につながるからでしょう。聖輝さんは、あなたと国産みを果たすつもりなのよ。この国を破滅から守るため、未来を見据えてる。崩壊寸前のこの世界を救うには、あなたが聖輝さんと国産みを成し遂げなければならないわ」
「笑止千万! 国産みというのが何なのか、ご存じないようね。契りを交わした夫婦が大地を産み落とすこと……シグルドを殺めた相手と契る気など、わたくしにはさらさらありませんわ」
アモローソは冷ややかに言い放った。アミュウは胸の前でこぶしを握った。アモローソの拒絶は明白だった。アミュウが説得を試みたところで、聞く耳を持たないだろう。
(国産みに関してなんの責務も負っていない私が何を話したって、ナターシャには届かない……)
東の空は少しずつ色を変え、明けの三日月が輝きを失っていく。どこかの家から夜泣きが聞こえた。甘えるような泣き声が小さくなっていったかと思うと、母親の子守歌が聞こえてきた。低く穏やかな母親の歌声は、やがて暁闇にほどけて消えていった。
ねんねんころりよ 愛し子よ
月明りの下 まどろむ小鳥
夢のあふれる ゆりかごの中
ねんねんころり ねんころり
アミュウは大きく息を吐いてから、ひゅっと吸い込み、再び口を開いた。
「ジークのふるさとが土砂崩れに遭ったのも、あなたがドムスルミニスの管理能力を失ったあらわれだそうね」
ジークフリートの名前を伝えた途端、アモローソの瞳がわずかに揺らいだ。アミュウはその隙を逃さず、言葉をつづける。
「ジークはナターシャの行方を血眼になって探しているわ。自分の怪我も顧みないくらい。彼のためにも、一緒にみんなのところへ戻りましょう、ね?」
アモローソは、よく見なければ分からぬ程に浅く、唇をゆがめて言った。
「シグルドには、追ってきちんと謝罪するつもりです。でも、今はあなた方のもとへ行くつもりはありません」
アモローソはアミュウに背を向けた。
その時、大きな音を立てて玄関扉が開き、慌てふためいた様子のダミアンが顔を出した。
「アミュウさん、ハリエットが破水した!」
アミュウはダミアンを押しのけて部屋の方を覗き込んだ。お産椅子のハリエットが苦し気に顔をゆがめている。隣近所の奥さん連中も今は目を覚まし、ハリエットの手を握ったり腰をさすったりして、彼女を励ましている。
アミュウが再びアモローソの方を振り返ったとき、そこには誰もいなかった。
日がすっかり昇ったころ、ハリエットは玉のような男の子を産んだ。出産に立ち会ったダミアンは感極まったのか、ハリエット以上に泣いていた。
血だらけの赤ん坊を産湯につかわせるうち、アミュウも知らず泣いていた。赤黒く皺だらけの新生児を、比類ないほど可愛らしいと感じた。
同時に、血を見たからか、倒れこんだ聖輝の姿を思い出していた。聖輝の無事を願わずはいられなかった。生まれたての赤ん坊は目を瞑っていて、どことなく神聖で厳かな気配を身にまとっていた。
(生まれる命があれば、消えていく命もある……お願い、どうか聖輝さんが生きていますように……)
アミュウの両手の中でひそやかに、けれども力強く呼吸する赤ん坊の命の輝きに、アミュウは祈った。
疲れ切ってベッドに横たわるハリエットに赤ん坊を見せると、彼女は赤ん坊に両手を伸ばした。アミュウは彼女の胸にそっと赤ん坊を置く。赤ん坊は薄目を開けて、口をパクパクと動かした。様子を伺っていた近所の奥さんがハリエットに声をかけた。
「お腹がすいてるんじゃない? お乳、あげてみたら?」
ハリエットはややためらいながら胸のボタンを外し、慣れない手つきで赤ん坊の唇に乳を添えた。赤ん坊は桃の果実のような唇を開けたり閉じたり、フガフガと息を鳴らしてハリエットの乳に吸いついた。
「誰が教えたわけでもないのに、どうしてお乳の吸い方を知ってるのかしら」
ハリエットの口からこぼれた問いをかき消すように、どこかの家で鶏が鳴いた。
アモローソはこの鬨の声を聞いてはいないのだろうと、アミュウはうすぼんやりと考えた。アモローソは、既にアミュウの手の届かないところへ行ってしまっていた。
目を閉じると、まぶたの裏に朝の海が広がっていた。日の光を照り返す白波は、無数の生き物の生と死とを混ぜ返して、しぶきを上げている。明け方まで繋がれていたはずの小舟のもやい綱は既に放たれていて、見渡す限りの水平線には、影ひとつない。小舟は彼方へ去っていた。
【第六章 了】




