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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第六章 きくは我

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6-39.陣痛

 ダミアンは馬車鉄道の線路をたどって通りを下り、駅前広場プラス・ドゥ・ラ・ガールへとアミュウを先導した。そして西側へと折れてやや行ったあたりで、二階建ての小さな建物を差してダミアンは説明した。


「あそこが子取りの婆さんの家なんだ」


 近づいてみると、玄関扉に貼り紙があった。


――本日は壁内街区(アンテリウール)デュポン通りの助産組合にて勉強会に参加いたします。


「今晩、婆さんはここには戻ってこない。デュポン通りまで呼びに行こうとも考えたけど、もしも僕まで閉め出されることになったら、ハリエットが一人きりになってしまう」


 悔しそうに眉を寄せるダミアンに、アミュウは声をかけた。


「ダミアンさんの言うとおり、奥さんを一人にしておくのは心配だわ。早くお家へ案内してください」


 ダミアンは頷いて、大股で歩き始めた。

 駅前は三階建て、四階建てのしっかりとした家々が並んでいたが、街門から離れていくにしたがって、粗末なアパルトマンや薄汚れた平屋建てが増えてきた。いわゆるスラムだ。舗装はされず、足元はむき出しの地面になっていた。そこらをうろつくネズミが鬱陶しい。


 食事時であるにもかかわらず、冷たい石壁に背を預けて立っている子どもがいた。子どもは毛布をマントのようにして羽織り、ぽかんと口を開けて、ひたすら夜空を見上げていた。毛布の下から覗く脚の細さが目についた。


 路地は迷路のようだった。斜めに伸びる道を進んだり、アーチ状のトンネルを抜けたりするうちに、アミュウはあっという間に自分がどの方向からやってきたのか分からなくなった。

 やがてダミアンは、長屋の一室の前で立ち止まり、鍵を開けてアミュウを招いた。


「さあどうぞ。狭いけど、ここが僕らの家だよ」


 扉を押さえるダミアンの前を通り、アミュウは長屋へと足を踏み入れる。暗くて辺りが良く見えない。部屋の右手奥の方にランプが灯っていて、アミュウの視線は自然とそちらを向いた。


「……誰?」


 ベッドの布団がもぞもぞと動き、合間から女性の声が聞こえてきた。ハリエットだ。


「ただいま。ソフィ婆さんが留守でね、代わりにアミュウさんに手伝いに来てもらったよ」

「え? 留守ってどういうこと? アミュウさんって……あの親戚の?」


 ハリエットは半身を起こしながら訊ねた。束ねた栗色の髪が寝乱れていて、化粧気のない顔に脂汗が浮かんでいた。アミュウはオーバーを脱ぎながら彼女に近付こうとして、自身の手に聖輝の血液が付着していたことを思い出し、距離を保ったまま声をかけた。


「よろず屋魔術師のアミュウです。カーター・タウンでは色んな病気の患者さんを見てきたし、お産に立ち会ったこともあります。どうか心配しないでください……ダミアンさん、先に手を洗いたいのですが」


 ダミアンはアミュウに流し場を案内しながら、妻にことの成り行きを説明した。その間にもハリエットは押し寄せる陣痛に顔をゆがめ、苦しそうにうめく。


「時計を用意してください」


 アミュウはすかさずダミアンに指示した。清潔になった手を拭きながらハリエットに近付き、横向きに寝かせて、背中から腰にかけて指圧した。


「いつもの先生でなくてごめんなさい。でも、安心してくださいね。痛むのは、このあたりですか?」

「もう少し下です……ありがとう、少しラクになりました」

「産み月を迎えていますか? 最後に月のものがあったのはいつでした?」

「四月の、末頃……」

「大丈夫、産み月ですね」


 アミュウが頷いて見せると、ハリエットはふっと力を抜いた。痛みの波が去ったらしい。アミュウは改めて暗い部屋を見回した。狭いが、よく整理の行き届いた部屋だった。机の上に、乾いたガーゼやタオルの山。赤ん坊の服も用意されていた。隅の方にはコの字型のお産椅子がある。アミュウはお産椅子を指してハリエットに訊ねた。


「あれは?」

「子取りの先生が、急なお産のときに慌てないようにって、置いて行ってくれたんです」


 年季の入った椅子だった。産婆は、こういう椅子をいくつか持っていて、お産のたびに産婦に貸していると聞いたことがある。アミュウはダミアンに訊ねた。


「度数の高いお酒はありますか。ウォッカとか」

「え……いや、僕は普段飲まないから」

「無いなら、買うか、借りてきてください。それから、部屋が暗いわ。ランプを足して。お湯もたくさん使うから、清潔なお水を沸かしてください」


 矢継ぎ早の指示を受けたダミアンは、慌ててアミュウの言葉を繰り返してから、まずランプを一つ足した。この家のランプはそれきりだった。そしてダミアンは表の共同井戸から水を汲んできて、竈に火を入れ、鍋に湯を沸かした。湯が沸くまでの間に、ウォッカを買いに走っていった。


 アミュウはハリエットの陣痛の波がやって来るたび、彼女の腰を押さえた。痛みの波間には、彼女の年齢や既往歴、家族構成や病歴について、少しずつ訊ねた。

 質問を重ねるうち、アミュウはあることに思い至った。ハリエットは、駆け落ちに至るほどの愛情をダミアンに対して抱いているが、子に関しては、同じだけの愛情を注いでいるわけではないらしい。妊娠は、彼女に抗いようのない変化をもたらした。慣れ親しんだカーター・タウンを離れなければならなくなったし、彼女自身の容姿にも、体調にも、深刻な影響があった。


「恋に落ちたのが、商工会会頭の跡取り息子だった……あの人のお父さんは、私たちの結びつきを重視してくれなかった。この子を宿してから、食事もできないくらい気持ち悪くなることもあったし、どんどんお腹が膨れて体型は崩れる一方。きちんと結婚できないまま、私はあの人について故郷を離れなければならなかったの。思えば、後悔ばかりよ」


 アミュウの胸がちくりと痛んだ。アミュウを産んだ母親も、同じように考えていたのだろうか……


(いいえ。私の不安と、ハリエットさんの不安をごちゃまぜにしてはいけない)


 アミュウは頭を振って雑念を追い出した。

 ウォッカの瓶を抱えたダミアンが戻ってきてからは、ハリエットは一言も弱音を漏らさなかった。そのこと自体が、ダミアンを深く愛している証だった。ウォッカを染みこませた布でお産椅子を拭きあげながら、アミュウはハリエットに問いかけたい衝動をこらえた。


(駆け落ちするまでダミアンさんを愛したなら、どうして赤ちゃんのことを愛せないの?)

(赤ちゃんを愛せないなら、どうして行為に至ったの?)


 メイ・キテラの元には、堕胎を望む妊婦もやって来た。中絶は教義にもとるため、彼女たちは教会に頼ることができない。限られた相談相手のうちの一人が、メイ・キテラだった。メイ・キテラは、まだ子供時分であったアミュウを、そんな相談者のもとにも連れ歩いた。そして堕胎作用のある茶を相談者に飲ませた後、帰り道でアミュウにぼやいたものだった。産み育てる気がないのなら、そもそも行為に及ぶべきではないと切実に考えているが、その願いは決して相談者に対して明かしてはならないと。相談者が自らその考えに至るのでなければ、堕胎を減らすことはできないのみならず、不幸な赤ん坊を増やすことになると、口を酸っぱくして語っていた。


 アミュウは、ハリエットに対して吐き出したい言葉の数々を、飲み込んだ。そして自分に問いかけた。


(私は、不幸な赤ん坊だったのかしら)


 お産椅子の消毒を終えたアミュウは、ハリエットの腹から中空へと視線を移した。


(私は、不幸なんかじゃない)


 アミュウはその後も、ダミアンに対して指示を出した。破水に備えて、ベッドから敷き藁へと移る必要があること。出産にはたらいも複数必要となる。また、赤ん坊の目方を出すためのはかりも必要だ。

 ダミアンは、良く働いた。自前で用意できるものはすぐに揃えたし、そうでないものは、近所を訊ねまわった。やがてダミアンのもとに、肉屋の旦那の使う、精肉専用の秤が届けられた。

 その頃には、隣近所の経産婦がハリエットのもとに集結していて、陣痛の強くなってきたハリエットに水を飲ませ、励まし、手を握り続けていた。


 ハリエットの様子に常に気を配り、進んでいくお産に集中していたアミュウは、研ぎ澄まされていく感性の中で、闇の中に不思議な光点を感じていた。

 ダミアンの用意した時計の針は、明け方を指していた。集まった近所の夫人たちも、今は寝室の壁に背を預けたり、食卓に突っ伏したりして、休んでいた。ベッドに寄りかかったダミアンも意識がもうろうとしていて、アミュウと、いよいよ陣痛間隔の狭まっていたハリエットだけが覚醒していた。


 アミュウは立ち上がり、玄関に視線をやった。お産椅子に移動していたハリエットも、そちらを見ていた。


「誰かいるの……?」


 不安そうに呟くハリエットを残して、アミュウはそっと玄関へ歩み寄った。目を閉じて、その懐かしい光点の輪郭を確かめる。

 アミュウは目を閉じたまま、玄関扉の向こうへと問いかけた。


「……ナターシャね?」


 返答を待たずにアミュウは扉を開けた。すぐそばの薪棚の脇に、アモローソが立っていた。

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― 新着の感想 ―
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