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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第六章 きくは我

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6-38.血塗られた因縁

 アミュウは広場へ飛び出した。うつ伏せに倒れこんだ聖輝のそばにしゃがみ込み、出血部位を調べる。腹側をやられたらしい。アミュウは聖輝の身体をごろりと反転し、仰向けにさせた。胸部よりやや下から出血していた。アミュウの頭がまっしろに塗りつぶされていったが、不思議と手だけはてきぱきと動いた。自らの肩からショールを外し、手早く畳んで聖輝の傷口に押し当てて止血を試みた。圧迫する指の間から、温かな血液が染み出す。

 ヤマカガシの出血毒により失われた血液の凝固作用は、まだ回復していないだろう。見たところ、傷は深そうだった。出血が止まるのか、アミュウには見当も付かなかった。


 聖輝の傍らには、祭服姿の牧師が佇んでいた。処置の応援を頼もうとして、アミュウがその牧師を見上げた途端、気の遠くなるような錯覚を覚えた。

 その牧師は、祭服を身にまとい、聖職者の証である白い帽子を被っていた。しかし帽子の影からのぞくのは、宵の空のように紫がかった黒髪で、小柄な上背といい、なめらかな肌といい、男のものではない。髪を結い上げた彼女は、雰囲気ががらりと変わっていたが、紛れもなくアモローソのものだった。


 アモローソの手からするりと何かが落ちて、石畳に跳ね返った。血に濡れた小柄こづかだった。空っぽになった彼女の手も、袖口も、返り血で汚れている。

 顔面蒼白となった彼女は、目を見開き、青い唇をわななかせ、かすれ声で言った。


「……は、刃を、寝かせろと教えたのは、そちらです」


 聖輝の口からうめき声が漏れた。アミュウは我に帰り、止血する手に力をこめた。

 施療院や事務棟から、牧師や修道士が次々に顔を表した。


「おい! 一体何事だ⁉︎」


 牧師の一人が声を荒らげると同時に、アモローソはくるりと背を向けて、孤児院の方へ走り出した。


「アミュウ! 追え!」


 牧師たちとともに飛び出してきたジークフリートが、鋭く叫んだ。アミュウは白い聖職者用のマントをひるがえして走り去るアモローソの後ろ姿と、アミュウのもとで浅い呼吸を繰り返す聖輝の青白い顔とを見比べた。今、アミュウが止血を中断したら、聖輝は――

 アミュウの迷いを見透かしたかのように、ジークフリートが畳みかける。


「いま追いかけなかったら、二度とあいつに会えなくなっちまうかもしれねえんだぞ!」


 いつの間にか、先ほどまで施療室に詰めていた牧師がすぐ近くまで来ていた。彼は怪我人が御神楽枢機卿の息子であることに気が付くと、大声で周囲の牧師たちを呼んだ。彼らのうちの一人がアミュウに代わって止血を施す。交代しようとして手を離した一瞬で、じわりと出血が広がった。


 聖輝を取り囲む輪から一歩離れたアミュウは、血だらけの自らの手を見た。頭がぼうっとして、視界が白くなっていった。周囲の音も、ガラス窓の向こうのように遠のいていく。


「アミュウ!」


 ジークフリートに肩を揺さぶられて、アミュウは正気を取り戻した。


「ナタリアを追ってくれ! 俺は今、走れねえ。今あいつを追いかけられるのは、アミュウしかいねえんだ――聖輝は、大丈夫だから」


 アミュウはわずかに首を横に振った。


「でも……聖輝さんは、出血毒の後遺症で……」

「大丈夫っつってんだろ! ここには施療院だ。先生が大勢いる」


 修道士たちが施療院から担架を持ち出してくるのが見える。聖輝は彼らの手によって担架に乗せられた。

 アミュウは、もう一度血だらけの自分の手を見下ろすと、ぎゅっとこぶしを握り、また開いた。

 アミュウは、聖輝を担ごうとする牧師たちを追い越して施療院に戻ると、手を洗うのももどかしく蓮飾りの杖と帆布の鞄を手に取り、再び表へ飛び出した。そして、牧師たちに向かって叫んだ。


「その人は、ヤマカガシの出血毒を受けてから、まだ十日ほどしか経っていないの! 血を補うには、ありったけの赤ワインを飲ませて! いい? 赤よ、赤‼」


 そして蓮飾りの杖にまたがると、あっという間に空へ舞い上がった。


「ジーク! 聖輝さんをよろしくね」


 眩しそうにアミュウを見上げるジークフリートに言い残すと、アミュウは教会の尖塔を飛び越していった。




 上空から参道を見下ろしアモローソを探すが、白い祭服は見当たらない。既に祭服を脱ぎ捨ててどこかに隠れたのかもしれない。迷っている暇はなかった。アミュウは下方を注視しながら中央通方面へと進む。

 参道を半分以上過ぎたとき、土産物屋で母親に何かをねだっていた子どもが、不意に空を飛ぶアミュウの方を見て、指さした。


「ママ、見て! 魔女が飛んでる!」


 周囲の人々の視線が一斉にアミュウへと集中する。焦るアミュウの視界の端に、走り去る白い影が見えた。どよめきを無視して、アミュウはその人影を追う。


 白い帽子に白いマント姿のその人物は、参道が尽きて車道の始まるところで、待ち合い所の二輪馬車に乗り込んだ。御者に何か指示し、ブールヴァールを東へと滑り出す。

 アミュウは速度を上げてその馬車を追った。軽量小型の二輪馬車は、ブールヴァールを行き交う辻馬車や、馬車鉄道、大八車の隙間を縫うようにして、どんどん先へと進んでいく。しかしアミュウは、空では伝書鳩に追いつくほどのスピードを出せるのだ。

 馬車は中央広場を右折し、南北のブールヴァールを南へと下って行った。アミュウは空を斜めに横切って、馬車との距離を詰めていく。あと少しで馬車に追いつくというところで、警笛の音が耳をつんざいた。


「そこの魔術師! 壁内街区(アンテリウール)での飛行は禁じられている! ただちに地上へ下りなさい‼」


 ブールヴァールを警邏けいらしていた衛兵が、アミュウに警告した。構わず馬車を追おうとしたが、既に数名の衛兵が駆けつけている。ここで揉めごとになると厄介だと判断して、アミュウはブールヴァールを取り囲む五階建ての建物の屋根の一つに降り立った。

 衛兵たちが建物に集まってくるのを確認してから、アミュウは煙突の影に隠れて再び蓮飾りの杖に乗り、もう何本か奥の通りへこっそりと移動した。そしてアパルトマン同士の壁の隙間の奥へと潜り込み、じっと息を詰める。

 静かな裏路地に衛兵たちの怒声が響く。一度は、アミュウの隠れるすぐ目の前の路地を過ぎていった。路地が静かになったころ、アミュウはそろりと壁の隙間から這い出して、慎重にブールヴァールへと戻ってきた。


 杖が目立たぬよう蓮飾りの部分を下にして持ち、馬車の向かった南方面へ向かってブールヴァールを下っていく。走りながらアミュウは、同じ道をアルフォンスを追って走ったことを思い出していた。


 思えば、アミュウはずっと走り続けているようなものだった。聖輝と出会い、その手からナタリアを取り戻そうと縁切りのまじないを試みたその時から、いつも誰かのために走り続けていた。ナタリアを守るため。ジークフリートを海難から救うため。父親の臥せったイアンを支えるため。グレミヨン卿の勢力に呑まれたアルフォンスを助けようと追いかけたら、いつの間にか壁外街区(フォブール)の住人たちを救っていたこともあった。先日は、大蛇の毒に倒れた聖輝のために奔走したところだ。


 息を切らせ、時には通行人にぶつかりそうになりながら、アミュウは冬のブールヴァールを走った。街路の両脇を彩る街路樹は、赤い実の華やかなナナカマドから、剥がれた樹皮の模様の美しい鈴懸の木に、そしてどっしりとした桜の木へと変わっていった。


 とうとう街門まで来たところで、アミュウは止まり、息を整えた。こめかみを伝う汗をぬぐうと、手にわずかに残っていた聖輝の血がにじんだ。これだけ時間が経っていたならば、すでに乾いて粉になっていてもいい頃だが、血は凝固していなかった。聖輝のことを考えれば、死んでしまうのではないかという恐怖で足がすくむ。アミュウは努めて聖輝の影を頭から追い払った。

 目の前には街門がそびえ、門番の衛兵たちが、ちらちらと目線を寄越す。アミュウが門を通行するかどうか、はかりかねているのだった。既に日は傾き始めていた。アモローソを乗せた馬車が街門を通り過ぎたかどうかは分からない。門番たちに訊ねたところで、ありふれた二輪馬車の通行の有無など、満足のいく答えは得られないだろう。アミュウはあまり期待せずに、二人いる門番のうちの一人に問いかけた。


「ここを、カブ(二輪馬車)に乗った牧師が通りませんでしたか?」


 門番は相方に確かめるように目くばせしてから答えた。


「通行人に関する情報については、答えられません」


 アミュウは彼らのアイコンタクトを、馬車が通った証であると判断し、街門をくぐり抜けた。入市するときには通行税が必要だが、出るときには特に手続きがない。


 フォブールに出てから真っ先に駅へと向かい、精霊鉄道の時刻表を確かめる。直前の便は小一時間ほど前だった。追跡の途中で衛兵の邪魔が入ったが、アモローソがこの便に乗るのは不可能だろう。なお、あと四十分ほど待てば、本日の最終便の時間だ。


(鉄道に乗って逃げられたら、探し出せなくなってしまう)


 アミュウは駅舎の隙間からプラットフォーム(ル・ケ)を覗いた。人影はまだほとんどなく、アモローソらしい姿は見えない。一方、駅前広場プラス・ドゥ・ラ・ガールは夕刻とあって混雑していた。市が立っていて、そろそろ店じまいの支度が始まる時刻だった。アモローソが祭服を脱ぎ捨てていたとしたら、この人混みの中から彼女を見つけ出すのは容易ではない。

 精霊鉄道の最終便を待てば、街門は閉ざされ、今晩のうちに教会へ戻ることはできなくなる。あるいは、アモローソはフォブールの宿屋街に身を隠したかもしれない。フォブールへ出たと見せかけて、再び入市し壁内街区(アンテリウール)へ戻っていることも考えられる。


(色んな可能性があるけれど、最悪なのは、ナターシャが精霊鉄道で遠くへ行ってしまうことだわ)


 アミュウは駅舎の影に身を寄せた。そこからは、切符売り場と駅舎入口が見渡せた。

 四十分間、アミュウは駅前に張り込みを続けた。駅にはいっていく人々の顔をひとつひとつ隈なく見ていたが、ついにアモローソは現れなかった。


 最終便が出発してしまうと、アミュウは徒労感でその場に座り込みたくなった。総菜屋の一画を残して撤退していく市の店の脇に置かれた、長椅子代わりの木箱に腰をかける。既に日没は過ぎ、街門は閉ざされていた。ぬくもりを失った風が、フェルトのショールを失った首筋を冷たく撫でていった。

 今晩はフォブールで過ごさなければならない。疲れて棒のようになった足に鞭を打って立ち上がり、アミュウは裏通りの宿屋街へと向かった。一軒一軒、アモローソが立ち寄っていないか訊ねて回ったが、はかばかしくなかった。全ての宿を回ったころには、既に夜空には冬の星々が瞬き、軒先には灯火が輝いていた。


 あてもなく表通りに戻り、何とはなしに街門の方をみやると、閉ざされた門の前に男の姿があった。彼は門の格子を叩いて何やら喚いている。

 そろりと近付き、闇に目が慣れてくると、海老茶の鳥打帽と外套がぼうっと浮かび上がってきた。


「お願いだ、ここを通らせてくれ! 子取りの婆さんを呼ばなくちゃならないんだ」


 男の声をはっきりと聞いて、アミュウは彼がダミアンであることに確信を持った。

 街門の向こうから、衛兵の怒声が聞こえてきた。一蹴されたらしい。

 がっくりと肩を落とすダミアンに、アミュウは背後から話しかけた。


「あの……何かあったんですか?」


 ダミアンはたいそう驚いた様子で振り返り、「ああ、アミュウさんか」と胸を撫でおろした。


「随分切羽詰まった様子でしたが……」


 アミュウが問いかけると、ダミアンは鳥打帽を脱いで頭をぐしゃぐしゃと掻いた。


「ハリエットが産気づいてるんです。でも、世話になっている子取り婆さんが、勉強会だかなんだかで壁内街区(アンテリウール)に行ったまま、戻ってこなくて……」

「産婆さんがいないんですか?」

「フォブールにたった一人だけの婆さんなんだ。初産で、僕もハリエットも全然勝手が分からないし、移住したばかりで、頼れるご近所さんもいない……」


 口元を歪めてダミアンは街門の格子を握りしめ、食い入るように門の向こうを見つめていたが、はたとアミュウの方を振り返った。


「ねえ、君はひょっとしてお産の介助の経験があるんじゃないのかい?」


 水を向けられたアミュウは大慌てで首を横に振った。


「私が? まさか! カーター・タウンだって分娩は産婆さんの領域だったわ。知ってるでしょう」

「でも、君のお師匠のメイ・キテラさんは、難しいお産の介助もしていたって聞いたことがあるよ。お産に立ち会ったことはないのかい?」


 ダミアンに詰め寄られて、アミュウの脳裏に昔の記憶がよみがえった。あれはまだアミュウがソンブルイユの魔術学校に入る前、アミュウがまだほんの十一か十二の頃、メイ・キテラは何度かアミュウを分娩介助の現場へ連れて行った。思春期に入ったばかりの少女だったアミュウにとって、お産の生々しさは恐怖が勝った。産声を上げる新生児を見ても、その血だらけの姿を、可愛いとはとても思えなかった。ただ、こんなにも壮絶な苦しみを経て自分を産み落とした母親が、この世のどこかにいるらしいということに、何とも言えず不思議な気持ちを抱いたものだ。

 揺れる気持ちを必死で押さえつけながら、アミュウはダミアンの目を見返した。懇願するダミアンの目は赤みを帯びてうるんでいて、妻と、今まさに生まれてこようとしている子を思う気持ちが痛いほどに伝わってきた。

 ダミアンの瞳に反映する自らの姿が、アモローソの蒼白な顔に変わったあと、ナタリアの顔へと変貌し、いつしかカーター邸のマントルピースにあった、アデレードの静かなまなざしの余韻を残して消えていった。


(――この人を放っておけない)


 アミュウは頷いてみせた。


「……分かりました。私でどれだけの力になれるか分からないけど、ともかくハリエットさんのいるところへ案内してください」

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