6-36.斎王2
アミュウが「もちろんです」と答えると、深輝はほっとしたような、悔やんでいるような、複雑な表情をほんの一瞬浮かべた。それから手元の琥珀色の茶を見つめて何やら思案しているようだった。
深輝はなかなか話し始めない。はじめアミュウは彼女が口を開くのを待っていたが、待てども待てども話が始まらない。それで、自分から訊ねてみた。
「斎王って、何なんですか」
深輝はわずかに驚いた。そしてすぐにほほ笑んだ。
「そうね、教会の外の人は、知らなくて当然ね。斎王っていうのは、教会の擁する、予知を司る巫女のことよ。物忌みのため、旧ロウランド城下町の近くにある斎宮で過ごして、過去や未来を占うの。長い間私はその職位にあったんだけど、つい最近任期満了になって、この家に戻ってきたのよ」
アミュウはこっくりと頷いた。アカシアの記録を見ることのできる深輝に相応しい役職だろう。アミュウが納得したのを確かめてから、深輝は話を進めた。
「御神楽の人間はアカシアの記録を多少は読むことができるから、斎王の任を受けることが多いの」
「わざわざロウランドまで行くんですか」
「ええ。霊峰デウスに近いから。穢れを避けるために、限られたほんの少しの教会の人間以外のひととの接触を断たれてね。ソンブルイユに帰ることも、ロウランドの旧城下町へ下りることもできないままで、まるで牢獄よ」
深輝のまなざしがふっと遠くなった。
「穢れを避けるなんていうのは単なる口実で、本当は、アカシアの記録という最重要機密を外部に漏らさないためなの」
「……なんだか、人柱みたい」
「まさにそうね」
「誰にも会うことができずに、遠くのお宮に、たった一人で。そんな環境じゃ、寂しいのも当たり前だと思います」
アミュウの言葉に、深輝は困ったように眉根を寄せた。彼女の黒い瞳は小刻みに揺れていたが、その温度は存外に温かかった。なんと言葉にしたものか、迷っているらしかった。
深輝は「そうじゃないのよ」と前置きしてから、言いにくそうに語った。
「私はね……アカシアの記録に、聖輝が年齢を重ねて、おじさんやおじいさんになっていく姿を見たことがないの」
その言葉の意味が、アミュウにはすぐには分からなかった。分からないまま、首を傾げた。
「未来が見えないっていうことですか?」
深輝は首を横に振った。
「ほかのひとの未来なら見えたわ。父上も、なんなら国王陛下だって、おじいさんになった姿を見たことがあるの。でも、聖輝に関しては、何も。私はそのことを、聖輝がじきに月へ上るのだと解釈していたわ」
アミュウにはますます意味が分からなかった。目を白黒させているアミュウを見て、深輝はより直接的な言葉で言い直した。
「つまり、運命の女を手にかけ、彼女から聖霊の力を譲り受けてこの世界の命運を担う者として月に君臨するのだとね」
アミュウは言葉を失った。そんなことがあるまいと言いたかったが、深輝の真剣な様子を前に、彼女の言葉を否定することはできなかった。以前に深輝は、聖霊の申し子と運命の女は代わりばんこに殺し合い、この大地の管理をしているのだと話していた。深輝の読み取るアカシアの記録の内容は絶対だ。深輝が、聖霊の申し子と運命の女は殺しあう運命だと信じているのだとしたら、アミュウにそれを否定するすべはない。
「私が聖輝に関して見ることができたのは、八年前、まだ十八のあの子がこの屋敷を出ていくところまでだった。もちろん、私が読むことのできるアカシアの記録には限界があるから、単に見えていないだけだという可能性もあるわ。それでも、聖輝の未来を見ることができないのは、つらかった……未来がないというのは、死ぬか、月へ上るか、ふたつにひとつだもの。聖輝の方でも、私が旅の行く末について何も予知をしないのを、同じように受け止めたでしょうね」
淡々と語る深輝の言葉に、アミュウが口を挟む隙はなかった。未来を知ることのできる深輝がどのような絶望を抱えているか、アミュウには推し量ることすらできない。
いつかメイ・キテラの語った言葉が、アミュウの耳によみがえる。
――過去に何があったか。未来に何が待ち受けているのか。そんなものをはっきりと知ってしまったら、人は希望を持って『今』を生きることができないんだよ。神が何を以ってそんな書物を書き上げたのか知らないが、それが読まれざる書物であるのは、人に生きる希望を与えるためだと、あたしは考えるね。
現に深輝は深く絶望していた。しかし彼女は、暗闇の中でも前を見ていた。すっと背筋を伸ばして座っている彼女の強さが、アミュウには不思議でならなかった。
「でもね。以前はずっと先の未来を見ることもあったのに、今は全然見えなくなってしまったの」
思いがけない深輝の言葉に、アミュウは思わず聞き返した。
「え? 聖輝さんの未来を、ですか?」
深輝は首を横に振って否定した。
「違うわ。聖輝だけじゃない。誰の未来であっても、読むことができなくなってしまったの」
アミュウは生唾を飲み込んだ。同じような言葉を、聖輝とナタリアから聞いたことがあった。アミュウは乾いた唇を湿しながら訊ねた。
「それって、いつからですか……?」
「去年の九月からよ。聖輝がアカシアの記録に触れられなくなったのと同じころ」
アミュウは頭を殴られたような衝撃を感じた。縁切りのまじないを試みたタイミングと同じだ。まじないによってアカシアの記録を読むことができなくなったのは、聖輝とナタリアだけではなかった。深輝もまた、未来予知の手段を断たれていたのだ。
そこで、アミュウは記憶に妙な違和感を覚えた。御神楽邸に迎えられたばかりのとき、深輝はアミュウたちに聖霊の申し子と運命の女の因縁について語ったことがあった。過去の記録や、以前に見聞きしたものについては覚えているということなのだろうか。
アミュウが黙っていると、深輝はアミュウが何を疑問に思っているか察したらしい。
「聖輝と違って、これまで見てきたアカシアの記録については覚えているわ。聖輝も、自分自身がじかにアカシアの記録に触れたときのことは忘れてしまったようだけど、父上や私が教えてきたことについてはしっかりと覚えているようね。必ず御神楽家に生まれるよう定められた聖霊の申し子と違って、運命の女はたった一人で生まれるから、アカシアの記録を誰かに教え伝えることもできないのでしょう。だから全て忘れてしまったのね。思えば、恐ろしく孤独なものね……」
アミュウはこれまでの姉の姿を思い返したが、重い運命を背負っているような悲壮感を見せたことは一度もない。ただ、ときどきふっと遠くを見るような、どこか所在ないまなざしを見せることはあった。アミュウはそれを、いずれカーター・タウンの指導者とならなければならない重圧に起因するものなのだと考えていたが、ひょっとしたら、まったくの的外れだったのかもしれない。
順番で考えるのならば、彼女は遠からず聖霊の申し子に殺される運命なのだ。そしてそのことを誰かに相談することもできない。自分が「運命の女」であることを知られてしまうのは、命取りになる。
「深輝さんは、ナターシャ――運命の女についても占うことができるんですか? カーター・タウンにいるってことも分かっていたんですか?」
深輝はかぶりを振った。
「運命の女に関しては、前世の姿を見ることはできても、今生の姿を見ることはできなかった。多分、お姉さんの方で何らかの細工をしていたのでしょう。聖霊の申し子に居場所が知れたら、すぐに殺されてしまうと考えるだろうから」
ナタリアのことを考えると陰鬱な気分になったが、アミュウは気持ちを沈ませる錘を振り払うかのように頭を振った。今、目の前にいるのは深輝なのだ。そして深輝も、恐らくは縁切りのまじないの影響を受けてしまった一人なのだ。
「ひょっとして斎王を辞めたのは、未来予知ができなくなったからですか……?」
「それもあるんだけどね……この子を授かったから、任期の更新を辞退したの」
深輝は言い淀んでから腹を撫でた。熟れた桃にでも触れるかのような、優しい手つきだった。アミュウは迷った挙句に口にした。
「奥さんがいる人がやることではないと思います。ましてや聖職者なのに」
深輝が目を伏せたのを見て、アミュウはあわてて言い添えた。
「深輝さんが悪いと言っているわけではありません。深輝さんが未来を見ることができなくなって悩んでいるときに、良い顔して近寄って来たんでしょう?」
「まあ、そうなんだけどね……でも、もともと知ってたの」
「え?」
「奥さんがいることは、知ってたの。狭い世界だもの。でも、そんなことは大した問題にはならなかったわ」
アミュウは今度こそかけるべき言葉を失った。深輝は視線を自らの腹に落としたまま、語った。
「あの人は、私の悩みを全部分かっていたわ。私がずっと苦しかったのは、未来が見えなくなったからじゃなくて、過去も未来も見えてしまうことだった。その点を、正確に理解してくれていた。
それだけじゃない。私が国王派に情報を流していたことも、知っていた。その理由まで、気付いてた」
アミュウははっと顔を上げた。自分が耳にしたことが信じられなかった。
「今、なんて……?」
深輝も顔を上げて、アミュウを見ていた。
「アカシアの記録という最高機密は、私からカリエール法王猊下に報告し、法王猊下が国王陛下に献策することになっているわ。つまり、陛下から直々にお言葉を賜らない限り、国王派の牧師たちが機密を知ることはないの」
アミュウは、ナタリアとともにジークフリートとケインズ・カーターを尾行した時のことを思い出していた。あの後、国王派であるマッケンジー・オーウェン司祭は、ナタリアが運命の女であることを報告する趣旨の信書を伝書鳩に託していた。マッケンジーが二羽の鳩を放ったうち、一羽を捕まえて書を検めたのだ。聖輝は、聖霊の申し子と運命の女のジンクスは有名だから、わざわざ運命の女の正体を報告したのだろうと言っていた。しかし、もしも国王派の牧師たちがアカシアの記録に関する知識を持っていたとしたら、あの信書にはもっと重大な意味があったということになる。
伝書鳩での通信には、不測の事態に備えて複数の鳩に同じ内容の文書を持たせるのが常だ。逃げのびたほうの鳩は、一体誰のところへ行ったのか……順当に考えれば、国王派筆頭枢機卿であるウジェーヌ・ドゥ・グレミヨンだろう。
アミュウがぐるぐると考えている間にも、深輝は語り続けていた。
「聖輝が使命を果たすには、兎にも角にも運命の女を探し出さなくちゃならない。目は、多ければ多いほど良いわ。だから私からグレミヨン卿に近付いて、聖霊の申し子と運命の女について話したのよ。いち早く運命の女を探し出して手中にすることができれば、情報面で先んじている法王派を出し抜くことができるってね」
アミュウには、深輝の言葉が信じられなかったし、深輝の考えが理解できなかった。やや遅れて、姉を政争の道具に利用されたことへの怒りを認識すると、深輝を責めようとする気持ちが泡のようにふつふつと沸いてきた。アミュウはその泡を理性の針でひたすら潰し続けた。アミュウの努力は実り、その目に非難の色を表出することはなかったらしい。深輝は真剣な表情のまま言葉を続けた。
「頭のおかしい女だと思うでしょうね。もっと飛躍した話をしましょうか。
私がかつてのぞき見た未来の果てでは、聖輝と運命の女は、互いに魂をすり減らしながら殺し合いを続けていたわ。そして二人とも力を失い、とうとうこの地を維持できなくなるの。そこは到底『光の家』だなんて呼ぶことのできない、破滅した世界だった。疫病と大型獣がはびこり、人々は残された安全な土地をめぐって争いあってたわ。
破滅の予知は、カリエール法王猊下と国王陛下、そして父上しか知らないトップシークレットよ。でも、ほとんどの枢機卿団は既に勘付いているわ。助祭に過ぎない彼までもが知っていたのには驚いたけど……」
アミュウは面食らい、わだかまっていた怒りが急速にしぼんだ。深輝の黒い瞳にはアミュウが映っていたが、彼女はアミュウではなく、まるで深淵をのぞいているかのようだった。深輝は遠い未来を見通している。文字通り、アミュウとは見えている世界が違うのだ。
「結局はみんな、遠い未来のことなんて興味ないの。ドムスルミニスの管理者の承継に乗じて、今、権力を手にすることができればそれでいいと考えているのよ。
でも私には、あの子が今までもこれからも途方もなく重い使命を背負って、傷付いて、挙句の果てに国産みを成し遂げられないのが分かっているから、どうしても悲観してしまうの。国王派の背中を押すことで現状打破のきっかけになる可能性があるのなら、内通くらい、わけないわ。
私ね、未来が見えなくなって、本当はほっとしているの。だって、破滅の未来とは別の未来へ進むことができるかもしれないでしょう?
彼は最低の人間だけど、私の絶望も、悪あがきも、一縷の望みも、全部理解してくれていた……彼にはアカシアの記録を見ることができないのにね。あの人こそ頭がおかしいわ」
深輝は熱っぽく語り続ける。アミュウはほとんど口をきいていないのに、喉がからからに乾いていた。しかし、茶を飲むどころではなかった。
「アカシアの記録上、私は早逝する聖輝に代わって子を授かり、御神楽の血筋をつないでいく役目だった。でも、今の予定ではなかった。相手だって彼ではなかった。運命は既に変わり始めている可能性があるのよ。
私、このお腹の子の顔を、アカシアの記録に見ていないの。それが怖くもあるし、嬉しくもある。この子は私にとって、変革の希望よ」
深輝の瞳の深淵に、ぽつりとひとつ光が宿った。深輝は確かにアミュウ自身を見ていた。
「そして、その希望をもたらしてくれたのは、聖輝と運命の女に縁切りのおまじないをかけたあなたじゃないかと考えているの。アミュウさん」
思いがけない言葉に、アミュウの胸は音を立てて縮み上がった。その中心に鋭い熱が走ると、ゆっくりと時間をかけて胸から腹の方へ広がってきた。アミュウはその熱に、高揚と戦慄の両方を感じ、震えあがった。
深輝が全身全霊でかけてくる期待が、言いようもなく重かった。一方でその重みには、心地よさも感じる。アミュウは大きく息を吐いた。それは溜息とは違った、武者震いの発露だった。
(聖輝さんに、ナターシャを殺させはしないわ。そんなこと、絶対にさせられない)
聖輝とナタリアが国産みを果たせるよう、橋渡しをすること。既にそれは、アミュウの個人的な望みではなくなっていた。
アミュウは、目の前の弟思いの巫女の手を握った。冷たく、清らかな手は、アミュウの手を握り返した。彼女は、宣言したとおりに正直を貫いた。アミュウは、彼女の打ち明けた事実を、そっと胸の奥底にしまった。




