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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第六章 きくは我

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6-35.斎王1

 そうは言ったものの、重い食事をとる気にはなれず、アミュウと聖輝は中央広場近くのカフェでサンドウィッチをつまむに留めた。アミュウの小食は今に始まったことではないが、聖輝までもが軽食で済ませるというのは、そうそうある話ではない。アミュウは、向かいに座る聖輝の顔をちらりと見た。うつむき加減でサンドウィッチを咀嚼する顎の動きは緩慢だ。アミュウは呪いのナイフのことを考え続けていた。聖輝は姉のことを考えているようだった。二人は食事のあいだ、ほとんど喋らなかった。


 カフェを出ると、とぼとぼとブールヴァールを北上し、王城を回り込んでピネードまで戻ってきた。ムーズ川の流れ橋が見えてきたとき、アミュウは思わずほっとした。御神楽家への滞在が長くなり、山の中腹の屋敷が「帰る場所」となりつつあるのだった。


 移動の疲れでへとへとになった脚に鞭を打って、松の木に覆われたピネードの山道を上る。やっと屋敷が見えてきたころには、薄雲の向こうに欠け始めた月が上がっていた。

 八栄やヒコジはもう離れへと戻っている時間帯だ。聖輝は玄関扉を叩こうとしてから、棚田の向こうにのぼりはじめた月の角度を見て、その手を止めた。そして革鞄から鍵を取り出し、自ら引き戸を開いた。暗い玄関へ吸い込まれていく背中を追って、アミュウも邸内へと足を踏み入れた。


 上がりかまちで靴を脱いだところで、ぱたぱたと足音を立てて深輝がやってきた。聖輝は静かに言った。


「ただいま」


 その声を聞いただけで、深輝にはただならぬ出来事があったと分かったようだった。彼女は囲炉裏のぬくもりがかすかに残る居間に二人を連れてくると、既に灰をこんもりとかぶせていた埋み火を火箸で取り出して、鉄瓶に湯を沸かす支度をした。三人は囲炉裏を囲んで座り込んだ。

 コポコポと湯の沸く音が聞こえ始めるまで、姉弟は無言だった。湯が沸いても深輝が動く気配はなかったので、アミュウが代わりに茶を淹れた。沈黙に耐え切れず、アミュウは小声で弁明した。


「私の帰郷に付き合わせたせいで、道中、聖輝さんが怪我をしてしまいました。すみませんでした」


 深輝はゆっくりと弟の方を向いた。


「そうなの?」

「大したことない、もう大丈夫だ」

「アミュウさんの郷里はどうだった?」


 続く深輝の質問に答えたのは聖輝だった。


「被害は少なくないが、限定的で、街の中心部は無事だったよ。再建はこれからってところだ。それで、帰りがけにジークを見舞ってきたんだが……」

「あぁ……」


 深輝は溜息を漏らす。


「目を離しているうちに、いきなり屋敷から姿を消したのよ。あの傷で山を降りていっちゃって……街中で倒れて、施療院に運ばれて、ようやく私たちのところにも連絡が入ったの。冷や冷やしたわ。具合はどう?」

「あの考えなしが……」


 聖輝は頭を抱えてから茶で口を湿し、ジークフリートの容態について姉に報告した。


「熱が引いたら退院だ。あと数日というところかな」

「そう、それはよかった」


 アミュウも「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。ジークフリートの世話を八栄たちに押し付けて、無理にカーター・タウンへ戻るのを選んだのはアミュウなのだ。深輝は特段気にしている様子でもなかったが、アミュウはそのことに責任を感じていた。


 聖輝は炉縁ろふちの木と畳の間あたりに視線を落としていた。分厚い座布団は、散った灰がわずかに付着していた。聖輝はたっぷりと考え込んだ後に口を開いた。


「教会で、ジャレッド・エヴァンズに会ったよ。深輝姉、あの男とはどういう関係なんだ」


 深輝の顔が曇った。家族の話題に水を差してはならないと、アミュウは静かに腰を浮かせたが、深輝は「そのままで」とアミュウを制した。


「どうっていう関係でもないわ」

「ロウランドの斎宮さいぐうに出入りしていたそうだな」

「ええ、確かに彼は法王猊下のお使いでよく来たわ。それだけよ」

「あいつ自身が、深輝姉とは無関係ではないと言ったんだ!」


 聖輝は語調を強める。そして、今も屋敷のどこかで耳をそばだてているであろう父親のれいを気にするかのように、声を低めた。


「ジャレッドは、深輝姉の妊娠経過を気にしている」


 外で強く風が吹き、雨戸が音を立てて震えた。一陣の風が過ぎてしまうと、再び辺りは静かになった。瞳を曇らせたまま、深輝は言った。


「表向きは任期満了で斎王の任を解かれたけど、私が妊娠していたことは、あの離宮にいた人なら誰もが知ってる。エヴァンズ助祭が知っていたとしても、不思議じゃないわ」

「だがしかしーー」


 なおも食い下がる弟に、深輝はぴしゃりと言い放った。


「私が無関係だと言ったら、無関係になるのよ」


 先刻までの動揺はどこへやら、深輝の目には相手に有無を言わせぬ光が宿っていた。間を取り持つこともできずうろたえるアミュウの隣で、聖輝は立ち上がった。


「埒が明かない」


 そう言って聖輝は茶を残したまま居間を出て行った。アミュウが振り返ると、正座の膝の上に置かれた深輝の握りこぶしが震えていた。

 アミュウは自分の座布団を深輝の側へずらして、いざり寄った。


「……聖輝さんには、言えないんですね」

「ええ」


 アミュウはこの気丈な、しかし一方で弱り切った妊婦にどう声をかけたものか考えあぐね、そっと深輝の背中をさすってみた。深輝は拒絶しなかった。アミュウは、彼女が何か胸に抱えたものを、口の堅い第三者に洗いざらい話したがっているのだと判断した。御神楽家の外の人間であるアミュウならば、その相手がつとまるかもしれない。

 アミュウは慎重に話しかけてみた。


「お腹の赤ちゃんのお父さんが誰なのか、みんな少しも触れないことが、不思議でした」

「爆弾を抱えているようなものだもの。これからも、誰にも言う気はないわ」


 深輝は、まださほど膨らんでいない腹を撫でた。アミュウは、彼女が胎児を慈しんでいるのを初めて見たような気がした。悪阻つわりに苦しむ様子はあったものの、彼女は妊婦であることを感じさせない気丈さを保っていた。そういえば、彼女の飲む茶は、いつも一人だけ色が異なっていた。妊娠中に禁忌となる茶は色々ある。彼女は腹の子を気遣い、差し障りのない茶を飲むようにしているのだろう。しかし、もしも妊娠の事情の複雑さゆえに、彼女が家族の前で大っぴらに胎児を可愛がることができないのなら、なんとも寂しいものではないか。


 アミュウは深輝の背中をさすりながら、老グレゴリー・エヴァンズから聞いた話を思い出していた。ジャレッドは王都へ来てからというもの、養父のスタインウッドの牧師職を継ぐことなく、ソンブルイユに移籍したとのことだった。そして、拝聖前に所帯を持ったとも。

 アミュウは奥歯をぎりりと嚙み締めた。ジャレッドがルシールをけしかけてマイラを追いつめた挙句、マイラにジョンストンを呪うよう仕向けたことも許せないが、それは八年も前の話だ。彼が妻帯者でありながら深輝と関係を持ったことにより、今、アミュウの目の前で、一人の女性が苦しんでいる。


 アミュウはジャレッドを糾弾したいという強い衝動に駆られた。しかし、当の深輝が秘密にしたがっているのだ。深輝の背をさするアミュウの手が、知らずこぶしを握っていた。


「……私、あのジャレッドっていう人が大嫌いです」


 深輝は苦笑いをこぼした。


「趣味が悪いって思っているでしょうね」


 アミュウは慌てて口を塞ぎ、弁明した。


「ごめんなさい、深輝さんをけなすつもりはなかったんです」

「いいのよ。誰だってそう考えるだろうと思うわ。私もあの人が嫌いだもの」

「え、ならどうして……」


 アミュウの問いに、深輝は困ったように考え込んだ。


「……多分、私は寂しかったのね。あの人の甘言を真に受けて、愚かだったと思うわ。でも、ほかにどうしようもなかったの」

「それって、人の弱みに付け込んだってことじゃないですか」


 口にしてしまってから、アミュウは言い過ぎたかと不安になった。相手を悪く言われて、深輝は不快に思ったかもしれない。

 しかし深輝はふっと笑った。


「アミュウさんはとても正直なのね。あなたと話していると、私まで正直になれるような気がするわ」

「私、そんなに正直じゃありません。嘘をつくときもあるし、誤魔化すときだってあります」


 深輝は、すっかり冷めてしまった茶をアミュウに勧めながら言った。


「そりゃ、そういう時だってあるでしょうけど。少なくとも今は正直でいてくれてるでしょう。それが、すごく落ち着くの」


 アミュウは勧められるままに茶に口をつけた。冷めているが、とろりと甘い茶だった。喉を鳴らして茶を飲むアミュウを見ながら、深輝はささやいた。


「アミュウさん……今だけ、私も正直になってみていいかしら」

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