6-32.ささやかな幸せ
アミュウと聖輝の乗り込んだ精霊鉄道の車両は、いくつかの丘を回り込んで走っていく。列車が向きを変えるたびに日の光が斜めに差し込んでくるが、冬の日差しは弱々しく、さらに薄雲に遮られて、眩しいとは感じなかった。そして、ぬくもりもなかった。
ちょうど大猫が立往生していたあたりに差し掛かると、車窓を眺めるアミュウのまなざしは自然と険しくなった。カーブを過ぎると、ソンブルイユの街の全貌がパッと眼前に姿を現し、壁外街区の向こう、外壁からやや外れた荒れ地に目を凝らせば、未だ大猫を包み込んだまま手つかずとなっている氷塊が見えた。ロサが大猫を丸ごと冷凍してから、溶かすわけにもいかず、そのままになっている。恐らく春先になって自然に氷が溶けるまで放置されるのだろう。
今頃アルフォンスはどうしているだろうか。船をこぐ聖輝の隣でアミュウは第二の師の身の上に思いを馳せたが、物思いにふける間もなく列車はプラットフォームに滑り込む。傍らの聖輝を起こして列車を下りる。
降車客たちは駅前広場へと流れ出していった。市が立っているが、夕刻を迎え、大方が店じまいの支度をしている。その一画に、夕食向けの総菜を売る店が集まっていて、そこだけがまだにぎわっていた。肉と野菜の串焼きからはもうもうと煙が立ち上り、大鍋のトマト煮込みを売る店の前には、各家庭から持ってきた鍋を手に待つ客が並ぶ。聖輝もアミュウも、においにつられるようにしてそちらへと向かっていった。
駅前広場は、日没前に街門を潜り抜けようとする旅客と、同じく日があるうちに一日の仕事を終えようとするフォブールの住人でごった返していた。先を行く聖輝の背を見失わないよう早足で進みながら、アミュウはフォブールの市が物珍しくて、右へ左へと目を走らせた。
と、その時、人の洪水の中に見覚えのある海老茶の外套を見つけて、アミュウは思わず声を上げた。その人物は人ごみから逃れるようにゆっくりと歩いていたので、アミュウにも容易に彼の後を追うことができた。
「ダミアンさん!」
アミュウが声を張り上げて名前を呼ぶと、彼はこちらを振り向いて愛想よく手を振った。アミュウが近くまでやってくると、ダミアンは鳥打帽を直して言った。
「やあ、アミュウ。この間の事件ぶりじゃないか。新聞にまで載っていたから、もうびっくりするやら、誇らしいやら、ドキドキしちゃったよ」
「やだ、新聞に?」
アミュウは顔を赤らめた。考えてみれば、感謝状や勲章までもらったのだ。記事にならない方がおかしい。
「ともあれ、無事で良かった。あの時のきみはとても勇敢だったよ」
笑顔でねぎらうダミアンの後ろには、市を訪れる客のため、長椅子代わりの木箱と、テーブル代わりの酒樽が置いてあった。そのうちのひとつに腰かけた女性がこちらをじっと見ている。深い褐色の瞳、そして艶めく栗色の直毛も印象的だったが、何よりも彼女の腹が、外套の上からでもすぐに分かるほどに膨らんでいるのが目を引いた。
アミュウがその女性を見ていることに気が付いたダミアンが、座ったままの彼女の肩に手を置いて言った。
「紹介しよう。妻のハリエットだよ。見ての通り、もうすぐ子どもが生まれるんだ」
アミュウは目を瞠った。ダミアンが結婚していたということも、妻のお腹がこれほど大きいということも、すべて寝耳に水で、何に対して驚けばいいのかすぐに分からなかった。
「……ひょっとして、あなたがカーター・タウンを黙って出ていった理由って」
アミュウが低い声で口走ると、ダミアンは誤魔化し笑いを浮かべた。
「まあ、ね。言っておくけど、ハリエットとの付き合いは長いんだよ。親父に紹介しようとしたことも一度や二度じゃない。でも、うまく行かなくてね……」
ハリエットがかすかに眉を寄せて、自らの肩に置かれたダミアンの手にそっと触れる。ダミアンはその手を握って言葉を続けた。
「二進も三進もいかないうちに、こうして子どもができてしまってね。親父とはどうしても反りが合わなくて、飛び出してきたんだ。親父には落ち着いたら僕から連絡するから、それまでこのことは内密にしていてほしい」
アミュウは驚きあきれて言った。
「だからあんなに慌ててカーター・タウンを出ていったんですか」
ダミアンはばつが悪そうな笑顔を作った。
「子どもが生まれる前に移動しなくちゃならなかったからね。暮らしは楽じゃないけど、ようやく自分の人生を生きることができている……そんな気がしているんだよ。ここで家族を第一に、慎ましやかに暮らしていけたら、それが僕の幸せだよ」
ダミアンの言葉は、不思議とアミュウの胸を打った。ダミアンの来ている海老茶の外套は、カーター・タウンの実家から持ち出したものなのだろう。毛玉ひとつなく、皺もなく、非常にしっかりとした仕立てである。ところが鳥打帽はどうだろう。いかにも安物といったようにふにゃふにゃと形が崩れていて、外套の色味とも微妙に合っていない。ここフォブールに来て急ごしらえしたものなのだというのが見て取れた。そのちぐはぐさに、アミュウはダミアンの人生を見ているような気がした。他人はそれを凋落と呼ぶのだろう。しかし、それが本人にとって、どんな価値観により、どう位置づけられるのかは、他人がうかがい知ることはできない。
「ここにいたんですか、アミュウさん。急にいなくなるから心配しましたよ」
喧噪の中から聖輝がほうぼうの体で飛び出してきた。大蛇の咬傷により血で汚れたままの二重マントが、人混みにもみくちゃにされて、みじめな皺を作っている。もっと汚れてしまった祭服は革鞄に押し込んで、今は裾の擦れたスラックスがマントの下から伸びている。
アミュウは聖輝に「ごめんなさい」と謝ったが、聖輝はアミュウではなくダミアンを見ていた。
「あなたは、確か……」
聖輝は記憶を探るようにダミアンの姿を見つめている。ダミアンの方が先に聖輝のことを思い出したらしく、笑顔を浮かべて鳥打帽を脱いだ。
「やあ、牧師の先生にはつつがなくお過ごしのようで。お怪我が治ったようで何よりです」
ダミアンの言う「怪我」が、大蛇による咬傷ではなく、ジークフリートに殴られたときの痣のことだということに思い至ってようやく、聖輝は彼のことを思い出したらしい。軽く頭を下げて挨拶を返した。硬い笑みを口元に貼り付けたハリエットが、木箱に腰かけたまま夫を見上げ、軽くとがめる。
「私はまだこの方々を紹介してもらっていないわ」
「ああ、ごめんよ。こちらが親戚のアミュウ・カーターさん。セドリックおじさんのお嬢さんだけど、僕らの居場所については黙っていてくれている。そしてあちらが牧師の聖輝さん。御神楽枢機卿のご子息だ」
「……お目にかかれて光栄です。お二人はなぜフォブールへ? 何か御用ですか」
ハリエットは作り笑いを浮かべて二人に向かって会釈をしたが、その目にはありありと懐疑の色が透けていた。舌先に載せた問いかけにも、社交辞令だけでなく、それなりの身分のある者がフォブールを闊歩していることへの皮肉が混ぜ込められているようだ。
「街の外から戻ってきたところなんです。これから壁内街区へ戻ります」
聖輝が答えると、ダミアンが「それはいけない」と声をあげた。
「もう日暮れ時じゃないですか。早く街門へ行ったほうがいいですよ。門がしまってしまいます」
アミュウは西の空を見やった。高い壁の向こうの分厚い雲は既に薔薇色に染まっている。
「そうですね。急ぎましょう、聖輝さん」
アミュウが聖輝を促すと、彼はこれ見よがしに溜息をついた。
「勝手にいなくなったのはどこのどなたでしたかねぇ……」
「さあ、本当に急いだほうがいい。また改めてどこかで会えるのを楽しみにしているよ」
ダミアンはアミュウと聖輝の背中を街門の方へと軽く押しやった。ハリエットは重そうな腹を抱えて立ち上がり、クロッシェ帽を脱いで別れの挨拶をした。
「ダミアンさん。また会いましょう」
アミュウは振り返りざまにそう言い残して、聖輝とともに閉門直前の街門を目指した。そのころには店じまいの露店がさらに増え、市はいよいよ総菜売り場を残して畳まれていった。辺りが薄暗くなってきたので、灯りをともす店もちらほらと見える。灯火の多い明るい店は、それだけ燃料を準備する余裕のある店であるということだ。ランタンひとつ、燭台ひとつで粘る店も多い。
アミュウはちらりとそれらの店々を振り返ってから、街門に向けて足を速めた。




