6-29.けもの避け
アラ・ターヴォラ・フェリーチェから出たアミュウと聖輝を、エミリが笑顔で迎える。
「ちょうどよかったわ、アミュウさん。探していたのよ」
エミリは、彼女の後ろに隠れるようにして立っていたドロテを前へ押し出した。
「この子に私の部屋を教えたのは、あなたね」
アミュウは神妙に頷いた。ドロテの工房に「薔薇の夜明け」を置いてきたときに、とっくに覚悟は決めていた。
「エミリさんからいただいた香水が非売品で、ドロテさんのお父さんがごく私的に作ったものだと聞きました。それで、お二人が近しい間柄なんじゃないかと考えました。勝手に住所を教えてしまってすみません」
アミュウの謝罪を、エミリはくすりと笑って受け流した。
「本当に世話焼きさんね。あなたのそういうところ、私はとても好きですよ」
アミュウはほっと胸を撫でおろす。ドロテも緊張が解けてきたようで、口元がふにゃりと弛緩している。
水たまりが鼠色の空を映していた。その色はドロテの髪の毛と同じく、つやつやと光っていた。エミリの毛皮のコートもしっとりと輝いている。
聖輝がエミリとドロテの顔を見比べて念を押した。
「エミリさん、あなたはラ・ブリーズ・ドランジェのご出身でしたね。もしかしてこちらの調香師さんは……」
エミリは視線をアミュウから聖輝に移す。穏やかな声で言った。
「娘のドロテです。その様子だと、お怪我は随分と良くなったようね。安心したわ」
そして彼女は再びアミュウの方を見た。
「積もる話はひとまず置いておいて、聞いてほしいことがあるの。ドロテがね、大型獣を寄せ付けない方法があるって言うんですよ」
エミリの店「酒処 カトレヤ」は「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の真上に位置する。今まで何度もここに来たが、アミュウが昼間にこの店に足を踏み入れるのは初めてだった。エミリはカーテンを開いて光を入れた。日の光の中で、店内は夜とはまったく違う空間であるかのように、アミュウの目に映った。
エミリはカウンターの奥のかまどに火を入れて湯の支度をしながら、ドロテに話すよう促した。
アミュウと聖輝に向き合ってボックス席に腰かけたドロテは、もじもじと手の中の小瓶をテーブルに置いた。
「えっとぉ……この香水のにおいを試してもらえませんか」
アミュウは小瓶を手に取り、蓋を開けて香りを確かめた。中身は少なかったが、充分に香った。鼻先をスッとかすめるメントールが心地よい。
「薄荷? 良い香りですね。ドロテさんが作ったんですか?」
「はい」
アミュウは聖輝にも香水を手渡した。聖輝はそのにおいを嗅ぐと、ふっと口元をほころばせた。
「確かに薄荷だ。懐かしい。アミュウさんから薄荷のキャンディーをもらったことがありましたね」
「ああ、そういえば……」
アミュウは目を細めた。聖輝と出会ったばかりのころ、酒臭い彼に、ニオイ消しにと薄荷のキャンディーを渡したことがあった。随分と昔のようだが、よく考えてみれば、あれから四か月ほどしか経っていない。
この香水は、きのうドロテが身に着けていた香りだ。普段は嗅覚を研ぎ澄ますために香水を着けない彼女が、どうして香りを身にまとっていたのか、アミュウは不思議に思ったのだった。
ドロテはおずおずと口を開いた。
「動物が嫌がる香りというものがあるんです。色々ありますが、薄荷はそのうちのひとつで、人間にとっては良い香りでも、動物は嫌がって近付きません」
エミリが湯気の立つタンブラーグラスを盆に載せて運んできた。香水だけでなく、グラスからも薄荷の香りがふわりと広がる。わざわざミントティーを淹れたのは、エミリの茶目っ気だろう。
「この子ったら、カーター・タウンがけものに襲われたって聞いて、ひとりで街道を歩いてここまでやって来たんですよ。危なっかしいでしょう」
ドロテのことを言うなら、イアンとたった二人で王都へやって来たエミリも相当に危なっかしいが、アミュウは話の腰を折らぬよう、黙っていた。
ドロテは肩身が狭そうに縮こまりながら話をつづけた。
「……実は、ここに来る途中で、すごく大きなイタチを見かけたんです。イタチって言っても、熊みたいな大きさでした。こっちに向かってきたから、私、必死で逃げました。でもイタチは走るのが速くて……つかまる寸前、私、この香水瓶の蓋を開けて、えいやってイタチに振りかけたんです。するとイタチはギャッて叫んで逃げていきました……」
エミリは額に手を当てて、アミュウに「どう思います?」と訊ねた。
「私には、この子がこうしてここにいることが奇跡だとしか思えなくて」
「ひどいわよぅママ、奇跡だなんて! この香水はけもの避けとして、しっかり考えて作ったものよ。偶然じゃないわ」
親子の応酬を聞きながら、アミュウは考え込んだ。
「もしけもの避けとしての効果が本当なら……柵のないカーター・タウンにとっては救世主になるかもしれないわ」
聖輝も顎に手を当てて考え込んだのち、口を開いた。
「問題は、量か。香りはすぐに飛んでしまうから、大量に必要ですね。この香水の在庫量はどれくらいですか?」
「えっと、まだ試作品なので、ほんのちょっぴりしかありません。でも、薄荷の香料は安くて手に入りやすいから、その気になれば、たくさん作れますよ」
「たくさんって、どのくらい?」
「うぅん……ラ・ブリーズ・ドランジェの香料卸に訊いてみないと分かりませんが……その小瓶のサイズで百本くらいなら、お待たせせずに用意できると思います」
「百!」
アミュウは感嘆の声を上げた。聖輝も頷く。
「カーター氏の施策のお陰で、この街には猟師のネットワークが生きています。もしもこの香水を猟師のパトロール隊に持たせることができれば……」
「大型獣を退ける武器になるわ!」
アミュウはテーブル越しにドロテの両手を掴んだ。
「お願い! その香水をたくさん作ってください、カーター・タウンのために‼」
泡を食ったドロテは勢いのままに頷いた。
「わ、私の作った香水が皆さんのお役に立てるなら、もちろん嬉しいですけど……」
アミュウは手をたたいて立ち上がった。
「この話、すぐにお父さんに知らせなくちゃ! ドロテさん、あなたも是非一緒に来て‼」
「え、ええぇっ⁉」
驚くドロテの鼻から眼鏡がずり落ちた。直そうとする彼女の手をアミュウはつかみ、そのままずるずると引きずって出口へと向かっていく。
「今行くんですかぁ⁉」
「ええ、今よ!」
取り残されたエミリと聖輝は、苦笑いを浮かべた顔を見合わせた。
「さて、私もカーター氏のところへ行ってきます。エミリさん、私たちに知らせてくれてありがとうございました」
エミリはクスクスと笑って言った。
「あら、お礼ならアミュウさんに言わなくちゃ。アミュウさんがあの子をここへ連れてきてくれたんですから」
「……彼女は本当に不思議な人です。縁切りのまじないを使ってみせたかと思えば、あちこちの人の縁をつないでしまう」
「ふふ、そうね。不思議な魅力をもった人ね」
エミリが同意のほほ笑みを浮かべる。聖輝はエミリに頷いてみせてから、アミュウたちの後を追って「カトレヤ」を出た。




