6-28.八栄の手紙
カーター邸へ戻ってみると、レッドロビンの生垣に小さな影が二つしがみついていた。何かと訝しんで目を凝らす。イアンとジョシュアが脚立を使って看板を外しているところだった。二人は葉を濡らす水滴が飛び散るのもいとわず、かたい針金をいじっていた。
アミュウが二人の名を呼ぶと、脚立に上がっていたイアンが驚いてバランスを崩した。落ちそうになるのを、慌ててアミュウは支える。
「ふぅ……危なかった」
体勢を立て直したイアンが冷や汗をぬぐう。
「邪魔な看板を取り外していてくれたのね。ありがとう」
イアンの外したベニヤ板を受け取りながら、アミュウは言った。ジョシュアが明るい声で応じる。
「いつも助けてもらってるのはこっちだからさ」
「昨日も、うちの片付けを手伝ってくれたし……」
イアンもぼそぼそと呟く。アミュウはクスリと笑った。
「どうぞ、上がっていって。お昼ご飯にしましょう」
アミュウは外した看板を庭の片隅に積み上げると、二人を屋敷に招き入れた。
あり合わせの材料で作ったスープに、残っていたパン。簡単なメニューではあったが、イアンもジョシュアもよく食べ、満足したようだった。
食後の茶を一服していたとき、カーター邸の扉を叩く音があった。アミュウが玄関扉を開けてみると、郵便配達夫が一通の手紙を届けに来たのだった。
アミュウは手紙を受け取る。差出人は八栄だった。
嫌な予感がした。居間へと戻りながら封を開け、廊下で読む。妙に厚みのある、繊維質な便箋だった。
几帳面に整えられた綴りで、ジークフリートが発熱し、ソンブルイユ教会の施療院へと移った旨が簡潔に記されていた。
アミュウは頭を抱える。
(どうしよう。すぐに聖輝さんに知らせなきゃ……)
居間の扉が開き、ジョシュアがひょっこりと顔を出した。
「どうしたんですか?」
居間の奥では、食卓についたままのイアンが心配そうにこちらを見ている。
アミュウは、一時期、ジークフリートがタルコット家の畑仕事を手伝っていたことを思い出した。人との距離をあっという間に詰めてしまうジークフリートに対して、イアンははじめ戸惑っていたが、根が正直者でよく働く彼を次第に慕うようになっていったようだった。そんなジークフリートの容体が悪化したとイアンに告げれば、またソンブルイユまで見舞いに行くなどと言いかねない。
「……なんでもないわ。ただ、ソンブルイユから聖輝さんに呼び出しがかかっただけよ」
「カーターさんも街を出るんですか?」
重ねて訊ねてくるイアンの目には陰りがあった。アミュウは多少の罪悪感を胸に覚えつつ、「それをこれから相談しに行くわ」とだけ答えた。イアンは無言で食器を持って立ち上がった。ジョシュアも慌てて彼に倣い、自分の使った食器を手に取る。
三人は食事の後片付けをしてからカーター邸を出た。
立て看板の取り払われたレッドロビンの生垣は、雲を通してではあったが、久しぶりの日差しを浴びて気持ちよさそうだった。看板を設置するときに無理をしたのだろう。ところどころの枝が折れていた。普段、カーター邸の草木の世話をしているのはヴィタリーだった。彼は傷ついた生垣を見て心を痛めるのではないだろうか。アミュウは、小さな友人達への感謝と、一部の心無い住人達への憤慨の両方を抱きながら、セントラル・プラザの方へ歩いていった。
キャンデレ・スクエアと背中合わせの学校前で、アミュウはイアンたちと別れた。
学校を回りこみ裏手に出れば、アラ・ターヴォラ・フェリーチェがある。ランチには遅いこの時間帯、給仕の少年が表を掃いていた。アミュウが通りがかるとき、彼は馴染みの客に対する気安さで手を振ってくれた。ここからザ・バーズ・ネストB&Bは目と鼻の先だ。
薄汚れた扉を開けてみれば、ちょうど聖輝がカウンターの中の主人に部屋の鍵を渡そうとしているところだった。聖輝はドアベルの音に振り返って「おや」と声を上げた。
「アミュウさん。どうしましたか」
聖輝は二重マントを着込み、革の鞄を提げていた。アミュウは挨拶も忘れて聖輝に尋ねる。
「お出かけですか」
「ええ、食事に行こうかと。アミュウさんもいかがですか」
「あ、私、もう食べちゃいました」
アミュウが即答すると、聖輝は「そうですか」と言って肩を落とし、うつむいた。アミュウは慌てて付け足す。
「聖輝さんにお話があって来たんです。飲み物だけでよければ付き合いますよ」
聖輝が顔を上げると同時に、背後のカウンターの中から宿の主人のダミ声が飛んできた。
「旦那。まさかほんとに飲み物だけってわけにはいかねえぜ。ちゃんと甘いもんを食わせてやんなよ」
アミュウは、ここの主人が必要最低限を超えた会話をするのを初めて見た。目をしばたたかせていると、聖輝が苦笑して言った。
「……だそうです。デザートをおごりますよ」
アミュウと聖輝はいつものアラ・ターヴォラ・フェリーチェへと向かった。アミュウは来た道を戻る恰好となったが、昼時のキャンデレ・スクエアでほかに食事にありつけそうな場所などない。
店内に入ると、さっき手を振ってくれた給仕の少年がにっこりと笑った。
「いつもありがとうございます」
「いろどり豆のリボリータを。バジル風味のグリッシーニもお願いします。あと、赤ワインをボトルで。銘柄はご主人に任せます。アミュウさんは?」
聖輝に促されて、アミュウは慌てて答えた。
「えっと、ホットミルクをお願いします」
「ほら、甘いものも頼まないと」
続けて聖輝が注文を急かす。アミュウは途方に暮れて黒板のメニュー表を見上げて、目に入った文字を読み上げた。
「……それじゃあ、ジャンドゥーヤを……」
給仕の少年は頷いて、アミュウたちのテーブルを離れた。彼の背中に向かって聖輝が念を押した。
「飲み物とドルチェは料理と同時にお願いしますよ」
注文を終えてしまうと、聖輝は椅子の背にもたれて腕を組んだ。
「体調が戻ってきたら急に腹が減るようになってね」
「元気が出てきたのは結構ですけど、食べ過ぎないでくださいよ」
アミュウは頬杖をついて正面の聖輝を観察した。すっかり調子を取り戻しているように見えるが、完治まではほど遠い筈なのだ。
すぐに給仕の少年がワインとホットミルクを運んできた。グラスとカップを小さく掲げるだけの乾杯ののち、二人は喉を潤した。
一息ついてから、アミュウは八栄からの手紙を聖輝に手渡した。聖輝は手紙の短い文章に目を通してから溜息をついた。アミュウは硬い声で言った。
「ジークの世話をしてもらっているのは、八栄さんたちのご厚意からです。この上甘えることはできないと思います」
「発熱……傷口から細菌感染でもしたかな」
聖輝は苦々しげに呟いてから、アミュウに手紙を返して言った。
「仕方ありません。私だけでもソンブルイユに戻りましょう。ですが、その前にカーター氏にご挨拶しなければ。調整をお願いできますか」
「待って、私も一緒に」
「あなたにはあなたの役割があるでしょう」
聖輝はぴしゃりと言った。アミュウが思わず黙り込んでいる間に、聖輝は手酌でワインを口に含んだ。アミュウもシナモンシュガーの振られたホットミルクを一口飲んでから口を開いた。
「……ベルモンさんが、カーター・タウンで医院を開くそうです。昨日、メイ先生のお宅を紹介してきました」
聖輝が急にむせこんだ。ひとしきり咳をしてからアミュウに聞き返した。
「ベルモン先生が? どうしてまた」
アミュウは今朝の出来事についてかいつまんで説明した。
「私に分かるのは、ベルモンさんのお人柄の誠実さと、志の高さです。カーター・タウンの医療を託すことのできる方だと判断しました」
アミュウはホットミルクのカップを手に包み込み、言葉を続けた。
「私がやるべきことは、ナターシャを見つけて連れ戻すことです」
給仕の少年が、豆と肉とパンの煮込み料理を持ってきた。次いで、アミュウにもチョコラートの盛り合わせを差し出す。聖輝はカトラリーを手にする前に、アミュウに念を押した。
「後悔はないのですね」
「今ここでナターシャを追いかけなければ、その方がよほど後悔となります」
聖輝は一瞬顔を曇らせたが、すぐにうつむき、食前の祈りを唱えて、煮込みの豆を口に運んだ。アミュウには、彼の表情の動きを全く追うことができなかったが、その後に続けられた聖輝の言葉を聞いて安堵した。
「いずれにしても、カーター氏への挨拶が必要ですね。今日明日にでも、時間を頂けるでしょうか」
「父はこのところ、随分遅くに帰ってきます。明るいうちに役場に押しかけた方がいいと思います」
聖輝は眉をひそめた。
「ご迷惑じゃありませんか」
「夜更けにうちに来てもらうわけにもいかないでしょう」
アミュウはチョコラートをかじってから言葉を続けた。
「大丈夫です。父は、こういう状況で私がここに留まるべきではないと考えているみたい。ナタリアを探しに行くと言えば、きっと分かってくれるわ」
聖輝は渋面を浮かべた。数日前にセドリックからあれほどの拒絶を受けたのだ。アミュウの言葉を信じられないのも無理もない。それでもセドリックへの義理を通そうとする聖輝に、アミュウはある種の誠実さを感じていた。
料理をぺろりと平らげた聖輝のグラスに、アミュウはワインを注いでやり、ついでに自分のチョコラートを一粒分けてやった。聖輝は嬉しそうにその菓子を頬張った。
甘味を堪能し共有する至福の時。その穏やかな時間、ささやかな幸せが長く続くものではないことを、アミュウは予感していた。ナタリアを探し出すと決めたものの、一筋縄でいくはずがないのは分かりきっていた。だから、なおさらにチョコラートの甘味が舌に染みわたっていく。口いっぱいに広がるカカオとナッツの風味を惜しみながら、アミュウは最後のひとかけらを飲み込んだ。
会計のとき、聖輝はおごると言ったが、アミュウは自分の分は自分で払うと言ってきかなかった。財布を手に攻防を続ける二人のもとへ、主人のポンペオがやってきた。
「やあ、久しぶりだね。お二人さん」
「ご主人の味が恋しくて、つい来てしまいました」
「嬉しいことを言ってくれるねぇ」
聖輝の世辞にポンペオは気を良くしたらしい。アミュウに笑顔を向けて言った。
「こういうときは男を立てるもんだよ、アミュウさん」
「私、そういう考え方が大っ嫌いなんです。はい、どうぞ!」
アミュウはふくれっ面で無理やりにポンペオの手に金を握らせた。ポンペオはカッカッと豪快に笑った。
「いいねぇ、それでこそアミュウさんだ!」
「まったく……毎度これだから参りますよ」
聖輝が頭を掻く。アミュウが言い返そうと意気込むと、聖輝の後ろ、窓の向こうの表の通りに見知った顔を見つけた。
真っ黒の毛皮のコートに身を包んだエミリが、こちらに向かってひらひらと手を振っている。
(エミリさんが昼間に起きているなんて)
アミュウは不思議に思いながら手を振り返したが、不意にその手が止まった。エミリの後ろに、ドロテがいたのだ。




