6-27.再び、モーリス・ベルモン【挿絵】
翌朝になっても雨はしとしとと降り続いていた。アミュウは蜜蝋を塗った皮のマントをすっぽりとかぶって街西部上空を滑空し、教会墓地にふわりと舞い降りた。カーター邸の花壇から用立てた、雛菊と三色菫がアミュウの手の中で震えている。飛行中、その繊細な花々を潰してしまわずにすんだことに安堵しながら、アミュウはメイ・キテラの墓前へとやってきた。
墓石の前に花束を置くと、花弁はたちまち雨粒に濡れそぼった。雨は弱かったが、わざわざ雨降りの日に墓参りに来る者は、アミュウのほかなかった。
アミュウは長い間墓前にしゃがんでいた。しびれる足の痛みが、霧雨に溶け出していくようだった。
不意に、アミュウの周囲だけ、霧雨がやんだ。不思議に思って後ろを振り向くと、モーリスがアミュウに傘を差しかけて立っていた。
「すみません。お参りの邪魔をするつもりはなかったのですが、あんまり長く雨の中座っているようでしたので、風邪をひいてはいけないと思って」
スモック姿のモーリスは片手に傘を、片手に泥上げを持っていた。掃除でもしていたのだろうか。アミュウは立ち上がって礼を述べた。モーリスはにっこりと笑った。
「冷えたのではありませんか。あたたかいお茶を飲んでいってください」
彼の笑顔に充満していたのは親切心そのものだった。アミュウは内心で、ドロテはこの優しさにのぼせ上がったのだろうかと考えた。
「お気遣いありがとうございます。でも、ひとっ飛びで帰れるので大丈夫です」
アミュウは固辞しようとしたが、モーリスは引き下がらなかった。
「もしお時間があれば、是非。実は、折り入ってご相談したいことがありまして」
(相談? ベルモン先生が、私に?)
モーリスには抗毒血清の恩がある。アミュウは彼の申し出を受け入れることにした。
モーリスはアミュウを施療室に招き入れた。患者のいないときは、彼はこの部屋に寝泊まりしているとのことだった。
「不便じゃありませんか」
アミュウが問いかけると、モーリスは茶の支度をしながら苦笑した。
「聖職を退いた身である私を受け入れてくださるというだけで充分ですよ」
その人の好さそうな話しぶりに、アミュウの心配はつのった。
「マッケンジー先生はずっと一人司祭でしたから、実務経験豊富なベルモン先生が来てくれて助かってると思いますよ。でもそれって、良いように使われてるってことじゃないですか。大丈夫ですか?」
「アミュウさんは見かけによらず、なかなか手厳しいですねぇ……あ、私のことは先生とは呼ばないでくださいね」
モーリスは困ったように笑うと、書きもの机の椅子に腰かけたアミュウに茶を差し出し、自身も丸椅子に座った。アミュウは口を尖らせた。
「これが初めてじゃないんですよ。マッケンジー先生ってば、聖輝さんのことも良いように使った挙句、倒れたときには血清もくれずに見捨てたんです。そういう、ずるい人なんです」
そこまで言い切ってから、アミュウは「陰口みたいになっちゃってすみません」と弁明し、茶を一口飲んだ。まろやかな口当たりのリンデンの茶だった。
「ここに来てまだ日の浅い私には、オーウェン司祭の人となりは分かりませんが……ただ、教会を去ると決めたのに、いつまでもずるずると教会のお世話になるのは良くないと考えているところです。それにしても、これだけ大きな町の教会を、たった一人の司祭が切り盛りするのは大変なご苦労です。オーウェン司祭を補佐する人が必要なのは確かでしょう」
モーリスは穏やかな言葉を選んでいるが、つまり、マッケンジー・オーウェンにカーター・タウン教会を運営する能力がないということを言っているのだ。彼が相談したいと言っていたことの核心に近付いてきた予感がして、アミュウは相槌を打った。「それで?」と彼に話の続きを促す。
「私は聖職を辞した身。教会に入り込んで直接司祭のお手伝いをすることはできません。でも……もっと専門的な領域に限れば、いくらか力になれるのではないかと考えているのです」
アミュウは「専門」という言葉を拾って口にした。モーリスは頷いて見せた。
「私の専門は、医療です」
モーリスは自らの膝に肘を載せ、前傾姿勢で両手を組み合わせた。そしてほぅっと息を吐くと、アミュウにいたずらっぽい目線を寄越して言葉を続けた。
「ブリュノから聞いていましたよ。カーター・タウンには優秀な魔術師がいて、街の医療の片翼を担っていると。あなたと、あなたのお師匠さんのことなのでしょう。アミュウさん」
モーリスの小さな目には面白がるようなきらめきが宿っていたが、その奥の色味は案外優しかった。アミュウは肯定する代わりにうつむいて言った。
「……私の先生は、例の大鹿騒動で命を落としました。今、この街でまともな医療を提供できるのは、マッケンジー先生と私だけです。だから、ベルモンせんせ……ベルモンさんがカーター・タウンに来てくださったのは、これ以上ない幸運でした」
「でも、あなたはお姉さんの行方を追わなくてはならない」
モーリスは優しく断言した。アミュウはますますうつむいた。
「……ごく私的な事情で、この街の医療に穴を空けようとしているんです。私の身勝手なんです……」
「アミュウさん。お茶を飲んでください。気持ちが落ち着きますよ」
アミュウは言われたとおりに茶を口に含んだ。蜜のような香りと甘味がアミュウの心を満たす。震える心が凪いでいくのを感じた。
「ベルモンさんは、なんだか古の魔術師みたい」
「とんでもない。一昨日アミュウさんが見せてくれた魔法には、到底及びません」
モーリスは自身も茶で口を湿して言った。
「私は、教会から独立する形で施療を行おうと思います。少々回りくどい気もしますが、オーウェン司祭を間接的に助けることになるでしょうし、私を受け入れてくれたこの街に多少なりとも恩返しができる気がしているのです」
アミュウは顔を上げて、モーリスを正面から見た。アミュウのまじないはモーリスがラ・ブリーズ・ドランジェを去り、カーター・タウンへ流れ着く遠因となった。しかし、モーリスはこの街の医療のため尽力しようと言っている。そのことがアミュウの胸を打った。
「アミュウさんは、アミュウさんにしかできないことをしてください。アミュウさんの穴を埋めるには私では力不足ですが、精いっぱいやらせていただきます」
カップを持つアミュウの手が震え、茶にさざなみが立った。これ以上モーリスの厚意に甘えてはいけない。今こそモーリスに謝るべき時だった。
「……ラ・ブリーズ・ドランジェのドロテさんに、恋のまじないを教えたのは私なんです。ドロテさんの想い人がベルモンさんだなんて知らなくて、私、よく考えもせずにドロテさんをけしかけてしまいました……本当にすみませんでした」
アミュウはカップを両手で包むように持ったまま、深く頭を下げた。モーリスは長い間沈黙を保っていた。垂れ下がった前髪の隙間から彼の表情を窺うと、モーリスは小さな目に困惑の色を浮かべていた。困惑というよりも、後悔に近いかもしれない。モーリスはその目をしばたたかせた。
「顔を上げてください、アミュウさん」
アミュウは姿勢を正した。モーリスは心持ち肩をすくめて見せた。
「実は、多分そうなのではないかと感じていたところです」
「え?」
アミュウは目を丸くした。モーリスは穏やかな口調で話す。
「アミュウさんはドロテさんと親しいようでしたからね。それにあの朝、ドロテさんの工房の前でアミュウさんと鉢合わせして、心底驚きましたが、後で考えてみれば、アミュウさんが何か不思議な魔法を使って、その効果を確かめに来たんだろうと分かりました」
アミュウはかぶりを振った。
「いいえ、それは違います。あの朝はたまたま散歩をしていて……それに、あの時ベルモンさんに会って初めて分かったんです。ドロテさんが振り向かせたかった相手がベルモンさんだったんだって」
モーリスは「そうですか」と頷くと深くため息をつき、窓の外を見た。その横顔には、今度こそ見間違えようのない後悔が苦々しく広がっていた。
「どちらにせよ、その恋のまじないに流されてしまったのは、私の心のどこかに女性に対する劣情が残っていたからです。その隙を突かれたのは私の甘さゆえであり、決してアミュウさんが負い目を感じることはありません」
窓の外では、ライラックの裸木が細やかな枝を放射状に広げていた。どこかでジョウビタキが「ヒッ、ヒッ」と鳴いている。モーリスの目はゆっくりと細くなり、やがて閉じた。
「修道の際に立てた誓いを違えてしまい……自分の未熟さにほとほと嫌気が差しました。しかし、そんな自身を見つめなおすことが、今の私に課された試練なのでしょう。生きている限り、私は私をやめることができないのですから」
モーリスの独白はアミュウの胸を潰した。彼がカーター・タウンの医療を背負ってくれるならば、アミュウにとっては願ってもないことだ。しかし、そこに至るまでに彼が支払った代償を思うと、アミュウの良心は苛まれた。彼は真面目すぎる。その真面目さが、アミュウの胸をきりきりと締め上げた。
これだけは伝えなければならないと、アミュウは重い口を開いた。
「……今、カーター・タウンにドロテさんが来ています。彼女がこの街に来た目的は恐らくあなたに会うためではないでしょうが、特にキャンデレ・スクエアには近付かない方が良いでしょう」
「ドロテさんが?」
閉じていた目を見開いて、モーリスはアミュウの方を見た。モーリスはしばし考え込んだのち、「ご忠告ありがとうございます」と言った。
「もしも彼女にもう一度会えるならば、私は今度こそ心の底から謝らねばなりません。しかし、彼女の前に私が姿を現すこと自体が彼女にとっては負担でしょうから、外を出歩くときには気を付けることにします」
それから二人の会話は途切れた。アミュウは振舞われた茶を飲み干し、辞去の意を告げた。モーリスは施療室の扉を開き、アミュウを見送ろうとする。雨は上がっていた。
アミュウの頭にある考えがひらめいた。
「……ベルモンさん。教会を出て、落ち着くあてはあるんですか?」
モーリスは眉を八の字に寄せて笑った。
「いやぁ……何せ土地勘もないし、あまり蓄えもないというのが実際です……」
モーリスの答えを聞いたアミュウは蓮飾りの杖を握りしめ、目を閉じた。まぶたの裏に、そして耳の奥に、メイ・キテラが怒声を上げてアミュウを励ます姿が蘇る。
(……こんなに誠実なベルモンさんだもの。先生もきっと、賛同してくれますよね……?)
アミュウは意を決して、モーリスに提案した。
「東部地区に、私の師の家があります。先生は一人暮らしだったので、今は誰も住んでいません。狭いですが、薬草の蓄えならたくさん残っています。医業を志すベルモンさんが使ってくれるなら、きっと先生も喜んでくれると思うんです」
モーリスはきょとんとした表情をゆっくりとほころばせた。一も二もなく頷いた彼を、アミュウはそのまま山査子の家へと連れて行った。家にはメイ・キテラの使っていた道具類がそのまま残っていて、モーリスはたいそう気に入った様子だった。
アミュウは彼を食料品店の主人に紹介した。主人はモーリスの篤実な人柄を評価したらしく、メイ・キテラの家にモーリスが住まう段取りが着々と整えられていった。モーリスはマッケンジー・オーウェンに教会を出るつもりであることを、すぐにでも相談すると言った。メイ・キテラの家を紹介した手前、アミュウも同席することを申し出たが、モーリスは断った。
二人はセントラル・プラザで無言の礼を交わした。
顔を挙げてほほ笑んだモーリスの表情は、スタインウッドで出会ったときには思ってもみなかったほど親しげで、ラ・ブリーズ・ドランジェのアトリエ・モイーズ前で鉢合わせたときには考えられなかったほど晴れやかだった。




