6-24.薄荷の香りとともに
雨は結局、降らなかった。翌朝は、きのうよりもさらに黒く重い雲が垂れこめていた。
セドリックとヴィタリーを送り出してから、アミュウは生垣の立て看板を外しにかかった。看板は大きく、小柄なアミュウの手に余る。さんざん苦労した挙句、三枚の看板を外したところで、アミュウは悪態をついた。
「……ガリカといいザッカリーニといいこの街の人たちといい! 人ン家を何だと思ってるのよ!」
外した看板を思い切り蹴っ飛ばしたアミュウは、爪先を痛めた。うずくまり声にならないうめき声をあげて、痺れをやり過ごす。看板外しに見切りを付けたアミュウは、憤然として勝手口から蓮飾りの杖を持ってくると、曇り空へと舞い上がった。
聖輝の見舞いのためキャンデレ・スクエアに差し掛かった瞬間、今までの苛立ちはどこへやら、アミュウは急に消沈した。どんな顔をして聖輝に会ったら良いのか分からなかったのだ。アミュウは「ザ・バーズ・ネストB&B」よりは随分手前に着地した。夜通しの営業を終えた朝のキャンデレ・スクエアは、ともしびの光も色彩も失って、色あせて見える。動く者はどこにも見当たらない、と見えたが――
「……ん?」
静かな朝の歓楽街に、アミュウは人影を見た。薔薇色の外套を身に着けた女だ。こちらに背を向けているため顔は見えないが、きょろきょろとあちこちを見回している。アミュウがなんとなく彼女を見ていると、向こうもこちらを見た。
アミュウはあっと声をあげた。その人物は、かけていた眼鏡をいったん外し、ハンカチでレンズを磨いてから再びかけ直してじっとアミュウを見つめた。
「え? ……え? ひょっとして、アミュウさん?」
二十代半ばほどの若い女。鼠色のおかっぱ髪を揺らして身体を傾ける彼女は、ラ・ブリーズ・ドランジェの調香師ドロテ・モイーズだった。彼女を認識するや、アミュウの胸に黒雲が立ち込め、回れ右したくなった。アミュウはもともと彼女のことが苦手だったが、もちろんそれだけではない。知らぬこととはいえ、思い込みの激しいドロテに恋のまじないを教えて恋情を焚きつけ、結果として当時助祭だったモーリス・ベルモンにけしかけてしまった苦い記憶が蘇る。そこまで思い出してから、ふとある考えが浮かんだ。ドロテはモーリスを追ってカーター・タウンにやってきたのではないか。アミュウの表情は凍り付いた。
足を止めたアミュウに、ドロテは抱き着かんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「わぁ! こんなところで会えるなんて!」
両手を握られたアミュウは思わず一歩後ずさったが、ドロテはさらに一歩詰め寄り、歓声を上げた。彼女が近寄ると、ふわりと薄荷のメントールが香った。アミュウは不思議に思った。調香師は、自ら香りを身にまとうことはないのではなかったか。
「会いたいなぁって思ってたんです。アミュウさんってば、何にも言わずにラ・ブリーズ・ドランジェを出て行っちゃったんですもん。修道士・ブリュノが教えてくれるまで、私、ずっとアミュウさんのことを探してたんですよぉ」
アミュウはさらに一歩退いた。ドロテは構わずに話し続けた。
「うちのアトリエに香水を置いていったの、アミュウさんでしょう? あの手紙に書いてくれた住所を訪ねてみたくて、私、カーター・タウンに来たの。でも、道を訊ねようにも、ここら辺って人通りがなくて、誰にも訊けなくて……」
アミュウはふぅっと息を吐いた。ドロテとエミリの間に親子関係があるのではと勘繰って、ドロテにエミリの住所を教えたのはアミュウ自身だ。
「ここは飲み屋街だから、昼間の明るいうちはみんな眠っているんです。エミリさんの居場所なら、私が案内しましょう」
そう言ってアミュウはドロテを先導した。
厚い雲を通して、冬の光が通りの奥から真横に射してくる。曇天の下、キャンデレ・スクエアはモノクロに塗りこめられていた。酒屋の軒先に置かれた木箱の中をよく見れば、普段より酒瓶の数が少ないように思われる。大鹿の事件があって酒盛りを自粛しているのは、ヴィタリーばかりではないようだった。事件がカーター・タウンに与えた傷は想像以上に深いようだった。
アミュウたちは「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」にたどり着いた。リストランテの脇の小ぢんまりとした階段を指してアミュウは言った。
「エミリさんはここの三階に住んでいます。ちなみに二階はエミリさんのスナック。今ごろは家で休んでいるはずだから、夕方に出直した方がいいと思います」
「わぁ、ありがとう! アミュウさん」
ドロテはアミュウの両手を掴んでぶんぶんと振り回した。が、ふとその手を止め、丸眼鏡の奥の目でアミュウをじっと見つめてきた。
「なんですか?」
尋ねるアミュウの声には、早くどこかへ行って欲しいと願うばかりに少々の棘が含まれていたが、ドロテはさして気にしていない風だった。
「ここに住んでいる人が、アミュウさんに『薔薇の夜明け』を渡したんですよね」
「ええ」
アミュウが頷くと、ドロテはやや声の調子を落とした。
「……どうしてその人はアミュウさんに香水を渡したんでしょうか。ムッシュー・ロベールも言っていたとおり、それは市場に出ることのなかった、とても貴重な香水なのに」
それはアミュウも疑問に感じた点だ。『薔薇の夜明け』は、ドロテの父ジャルヴェが娘のためだけの香りとして、調香の手本に作った香水だ。もしもエミリがドロテの母親であるならば、彼女が『薔薇の夜明け』を持っていたことにも合点がゆく。アミュウは慎重に言葉を探した。
「……エミリさんは私の顧客で、私のことを本当の娘のように可愛がってくれていました。それで私が王都へ旅立つ日、見送りのときに、餞別だと言って渡してくれたのがあの香水です」
「……そう、ですか。本当の娘のように、ですか」
ドロテは神妙だった表情をふにゃりと崩すと、アミュウに笑顔を向けた。
「ありがとうございます。アミュウさんに会えて、よかった」
アミュウはそこでドロテと別れ、聖輝が身を寄せている「ザ・バーズ・ネストB&B」へ向かった。ドロテはキャンデレ・スクエアにあるもう一軒の宿のほうへ泊まっているらしい。交通事情が改善するまではカーター・タウンへの滞在を続けるとのことだった。
「ザ・バーズ・ネストB&B」の不愛想な主人への挨拶もそこそこに、アミュウは聖輝の部屋へと向かった。そろそろ聖輝も起き出す時間だ。粗末な扉を叩くと、意外にも、聖輝が出てくるまで時間はかからなかった。
「おはようございます、アミュウさん」
聖輝の声はしゃんとしていて張りがあった。部屋着のままだったが、髭は剃られて顔はつるりとしている。櫛を入れたらしく、髪もさらさらと整っていた。
「随分すっきりしたようですね。良かった……」
「アミュウさんとベルモン先生のお陰です」
アミュウは聖輝をベッドに座らせて、ガーゼを交換した。聖輝の容態はかなり持ち上がったように見えたが、ガーゼは相変わらず血で濡れていた。
「痛みが引いたのは良かったですが、まだ傷は塞がっていないんですから、無茶は禁物ですよ」
アミュウが釘を刺すが、聖輝は衣服をはだけさせたままうんと伸びをした。
「今日は私も事件現場を見に行きましょう」
「ちょっと! 人の話、聞いてますか」
「アミュウさんも一緒にいかがですか」
「誘いながら脱がないでください! もう!」
おもむろに着替え始めた聖輝から脱兎のごとく逃げたアミュウは、廊下に出て後ろ手に扉を閉めると、その場にへたり込んだ。安心して力が抜けたのだ。脱力すると、途端に涙がにじんできた。
(変ね、聖輝さんが元気になったのを見ただけで泣けてくるなんて、私、どうかしてる……)
アミュウは手の甲で涙をぬぐってから一階に降りると、宿泊客用の洗面所で鏡を見た。目は腫れていないが、鼻が赤くなっている。顔を洗っていると、身支度を整えた聖輝が二階から降りてきた。二重マントの下からスラックスの脚が伸びている。汚れた祭服を片手に抱えた聖輝は、アミュウが顔を拭いているのを見て目を丸くしたが、何を察したのか、無言でアミュウの傍らに立って訊ねた。
「大丈夫ですか」
「それはこっちの台詞です」
アミュウが強がりを言うのを見てとると、聖輝は宿の主人に鍵を預けて宿の扉を押し開けた。




