6-22.血清
アミュウとモーリスは農家を後にした。成り行き上、二人は並んで歩きながら、どちらともなく互いの近況を語り始める。
「年末に、ラ・ブリーズ・ドランジェの教会を出て行くことになりました。どこにあてがあるわけでもなかったので、途方にくれました……ソンブルイユには教会の知人が多いので、あまり行きたくなかったし、スタインウッドも知り合いだらけでした。かと言って西部は治安が悪いですし……そんなわけで、カーター・タウンへ来てみたわけです。そうしたら、いくらも経たないうちにあの大鹿の事件でしょう?」
「先生が教会を去ったという話は、伝え聞いていました。大変なご苦労をなさったと思います……」
モーリスの話を受けたアミュウは気まずかった。そもそもモーリスが教会を去らなければならなくなったのは、アミュウの所為でもあるのだ。ドロテの想い人がモーリスだと知らなかったにせよ、アミュウが恋のまじないをドロテに教えなければ、モーリスは今まで通りラ・ブリーズ・ドランジェ教会で働いていられたはずだ。
「大丈夫ですよ。神は、耐えられないような試練を与えたもうことはありません。私がまだまだ未熟であることを、月が教えてくださったのです」
モーリスは柔らかく微笑んでから、言葉を続けた。
「大勢の方々が怪我をする中で、無我夢中で手当てをして回りました。そのうちにマッケンジー・オーウェン司祭が声をかけて下さって、今は司祭のお手伝いをしながら教会に身を寄せています。でも、私は教会を追われた身です。いつまでも教会の厄介になるわけにはいきません……」
アミュウは「そうですか……」と相槌を打ったきり、どう言葉を続けたらよいか分からなくなってしまった。かけるべき言葉が見つからない。二人は特に示し合うこともなく、街中に向けて農道を北上する。モーリスはアミュウに話を振った。
「アミュウさんたちはラ・ブリーズ・ドランジェを出たあと、確かソンブルイユへ行ったんでしたね。王都はいかがでしたか」
アミュウは逡巡ののち、モーリスのことを信頼のおける人物であるとして判断した。ナタリアを探すなら、ナタリアのことを少しでも知る人物に事情を共有しておきたい。アミュウはこれまでのことをモーリスに語った。
「……そして姉は姿を変えて、どこかへ消えてしまいました。ジークが怪我を負って動けない中、今回の事件の報せを受けて、私と聖輝さんだけでカーター・タウンに戻ってきたんです。でも、途中で聖輝さんが毒蛇に噛まれてしまって……」
モーリスが「えっ」と声を上げた。
「毒蛇? こんな季節に?」
アミュウは暗い顔で頷いた。
「ええ。カーター・タウンを襲った鹿と同じ、大型獣です。大人が腕を回せないほどの胴回りでした。並の蛇なら冬眠の季節ですが、そのあたりは普通と違うのかもしれませんね」
「どんな蛇でしたか。種類は?」
「ヤマカガシです。褐色の身体に濃い色の斑紋、頭は黄色っぽく、首は赤かったです」
「症状は? いつ? 手当ては受けましたか?」
矢継ぎ早に飛んでくるモーリスの問いに、アミュウの声はますます暗く沈んでいった。
「症状は頭痛と患部からの出血、目の充血。傷を負ったのは一昨日の昼です。血清が見つからなくて、満足な手当てができていません」
「血清? 血清ならここの教会にありますよ。すぐに治療を始めなければ」
(やっぱりあったのね)
アミュウは胸中で毒づきながら、マッケンジーから抗毒血清の提供を受けられなかったことをモーリスに説明した。モーリスは頭を抱えた。
「信じられない。目の前の患者が誰であろうと、決して見捨ててはならないのが医療の道なのに」
「私も、マッケンジー先生にはがっかりしました……あの人は、町長選対立候補のケインズおじさんと結託して、その立場を利用して色々と吹聴しているみたいです。宗教や医療に政治を持ち込んで、卑怯だわ」
いつの間にか二人の足は止まっていた。小麦畑はとうに過ぎ、左右の畑にはキャベツやブロッコリー、大根といった野菜が育てられていた。しかし、このあたりにも大鹿の爪痕はみとめられた。既に昼時となっていて、冬の太陽は高くも低くもない中途半端な位置にあった。
「私が血清を持ってきましょう」
モーリスは言った。アミュウは目を丸くしてモーリスの顔を見上げた。
「施療室に出入りしている私なら、怪しまれずに保冷庫を開けることができます。受傷後四十八時間が経過しているなら、急がないと。アミュウさん。ミカグラさんのところへ連れて行ってください」
教会に寄ると、モーリスは言葉どおりに施療室から抗毒血清を持ち出してきた。アミュウはキャンデレ・スクエアのザ・バーズ・ネストB&Bへとモーリスを案内した。
ドアベルを鳴らして、薄汚れたスチールの扉を開く。寸詰まりのエントランスのカウンターで、主人が新聞から顔を上げた。そして三白眼をぎろりとアミュウに向けると、興味を失ったのか、また新聞へと顔を向けた。アミュウはモーリスを先導して、手垢だらけの壁に挟まれた狭い階段を上る。聖輝の部屋は突き当りの二〇五だ。薄い木の扉を叩くと、中から返事ともうめきとも取れない声があった。
「アミュウです。ベルモン先生も一緒です」
アミュウが声をかけてからやや間をおいて、鍵の回るガチャリという音が響き、中から扉が開いた。
「……ベルモン先生?」
朝に見た部屋着のまま、聖輝は寝癖の髪を押さえて出てきた。アミュウの後ろにいたモーリスが軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、ミカグラさん。私は聖職を退きました。ただのベルモンと呼んでください」
モーリスはアミュウの前に出ると、聖輝に肩を貸してベッドへと誘導した。頭を押さえていたのは、寝癖を隠すためではなく、純粋に頭痛がつらかったらしい。モーリスが傷を見せるよう促すと、聖輝は着流しの右半身を脱いだ。白い包帯をじわりと血が濡らしていた。モーリスはベッドサイドに丸椅子を引き寄せて座った。アミュウはモーリスの後ろから二人の様子を見守る。
「ヤマカガシの大型獣から毒を受けたなら、多量の毒が体内に入ったと考えるのが自然です。まったく、今こうして起きていられるのが不思議なくらいですよ」
モーリスはそう言いながら、往診カバンの中から注射器と小瓶を取り出した。注射針を酒で消毒し、小瓶の中の液体を測り取る。聖輝は眉根を寄せてモーリスに訊ねる。
「高価な薬のはずです。あなたが持ち出したことがマッケンジー・オーウェン司祭に知れたら、まずいことになるのでは?」
「余計な心配は御無用です。その時には『古くなっていたので捨てました』とでも言いますよ」
モーリスは軽口で応じて、聖輝の病歴を問う。
「持病は?」
「特にありません」
「過去に毒蛇に噛まれたことはありますか」
「これが初めてです」
モーリスは聖輝の右腕を取ると、実に慣れた手付きで注射針を差し入れた。その手早さとは反して、血清の投与はゆっくりだった。モーリスは慎重にシリンジの押し子を押し込んだ。全ての薬液を注入し注射針を抜くと、モーリスはふぅ、とため息をついた。
「これから三十分は安静にして、異変がないかよく注意してください」
聖輝は衣服を直すと「失礼」と言って枕に頭を載せた。モーリスは両手を挙げて「どうぞ楽に」と言い、言葉を続けた。
「ヤマカガシの牙は、口のだいぶ奥の方にあるんです。ですからたとえ噛まれたとしても毒液が体に入るのはまれで、そのため血清を準備している施療院はそう多くはありません。カーター・タウンに血清があったのは、不幸中の幸いです」
「お詳しいんですね」
アミュウの言葉に、モーリスは振り返ってにっこりと笑った。
「専門ですから。蛇に限らず、毒蜘蛛や破傷風といったあらゆる種類の抗毒血清は、ラ・ブリーズ・ドランジェで製造されているんですよ」
アミュウは驚くと同時に、いまだカーター邸の店舗に転がったままになっているヤマカガシの頭を思い出した。恐る恐るそのことを口にすると、今度はモーリスが驚く番だった。
「大蛇の頭が? もし毒液を採取できれば、多くの血清が作れます」
「お役に立てるのなら、どうぞ使ってください。もともとそのつもりでしたので。午後に教会へ持って行きます」
アミュウの言葉に頷くと、モーリスはベッドに横たわる聖輝に向き直って言った。
「しばらくは出血がとまりにくい状態です。決して無理せず、怪我のないよう過ごしてください」
そして、何か変わったことがあったらいつでも呼ぶようにと念を押して、モーリスは往診カバンを抱えて部屋を出て行った。
扉が閉まると、聖輝がアミュウに話しかけた。
「まさかカーター・タウンでベルモン先生に会うとは思いませんでした――いや、ベルモンさんか。お陰で助かりました」
「無茶はしないでくださいよ。解毒されても、血液の凝固作用はすぐには戻らないんですから」
アミュウは釘を刺してから、先ほどまでモーリスが座っていた丸椅子に腰かけ、小さな窓の外を見た。先ほどよりも雲が出ている。久しぶりの雨が降るかもしれない。安心して気が抜けたアミュウは、ふと、ここ最近考えていたことを口にした。
「カーター・タウンは見てのとおり田舎ですが、人口は多いです。この街にはマッケンジー先生しか医療者がいません。今はベルモンさんが手を貸してくれていますが、それもいつまで続くか分かりません。マッケンジー先生ひとりの手でこの街をカバーできるとは、到底思えません。それに、この街の雰囲気はお父さんにとってあんまりにも厳しすぎます……」
聖輝は天井を見つめていたが、アミュウの話に耳を傾けている様子だった。聖輝が何も言わないので、アミュウは言葉を続けた。
「私、本当はこの街に留まっていた方がいいのかもしれません……」
窓の外の雲はじっと動かなかった。向かいの板葺きの屋根伝いに黒猫が走っていった。遠くで烏の鳴く声がした。長い沈黙が過ぎていった。聖輝は目を閉じて言った。
「アミュウさんがそう思うなら、きっとそうなのでしょう。ナタリアさんのことは私が見つけ出し、必ず国産みを果たしてみせます。もともとそれが私の目的でしたから。あなたはあなたのための目的を果たすべきです」
それきり聖輝は口をつぐんだ。沈黙は、先ほどよりも長いような気がした。聖輝は目を瞑ってしまったので、眠ってしまったのかどうかも分からない。アミュウは急に不安になった。そしてそんな自分を嫌悪した。
(不安になるくらいなら、言わなければよかった)
アミュウは「また様子を見に来ます」とだけ告げて、聖輝の部屋を去った。




