6-21.厄除けのまじない
もともと人当たりの柔らかなモーリスであったが、私服姿ではいっそう優男に見えた。灰色の外套に薄茶のスラックス、使い古された革靴という出で立ちで、若く見える顔立ちも相まって、聖職者というよりも、気の好い学生のようだった。
「あら、モーリスくん」
女は存外に親しそうにモーリスの名を呼んだ。
「こんにちは。お父様のお加減はいかがですか」
「怪我自体は大したことないと思うんだけどねぇ、よっぽど怖かったみたいで、夜眠れていないようなのよ」
「それはおつらいでしょうね。ところで、」
モーリスは女の言葉をいったん受け止めた上で言葉を区切り、アミュウの方を見た。
「彼女のお仕事とカーター町長のお仕事に、何か関係があるのでしょうか。私はこの土地に不慣れなもので……ご説明願えませんか?」
モーリスの質問に女はたじろいだ。彼女の夫と思しき、後ろの男がまくし立てる。
「あんたは知らねえかもしれんが、この魔女はな、町長の娘なんだよ。大鹿を防げなかった責任は、こいつにもあるってこった。ならせめて、壊れちまった家を守るくらいの仕事はしてもらわねえと」
男の説明を受けて「なるほど」とモーリスは大きく頷くと、穏やかな声で問いかけた。
「今はもう使われていない古いことわざに、『父たちが、酢いぶどうを食べたので子どもたちの歯がうく』というものがあります。ご存知ですか?」
肩透かしを喰らった男は勢いを削がれたようだ。
「キツネが負け惜しみで『あのぶどうは酸っぱいに決まってる』って言ったってやつか?」
「いいえ、その寓話とは違います。親のせいで子どもが苦労をするという意味のことわざで、まだ『光の家』が生まれる前、旧世界で使われていたそうです。古の預言者エゼキエルが、旧約聖書の一部にこんな預言を遺しています」
モーリスはすらすらとよどみなく話を続けた。
「昔むかしある国で、偽りの神が崇められていました。真なる神は人々の不義に大いに怒り、裁きを下されました。国は焼かれ、多くの人々が死ぬこととなりました。しかし、神はこうもおっしゃいました。例のことわざが再び使われることはない――すなわち、子どもは父の悪を負わず、父は子どもの悪を負うことがありません。この国の人々は裁きののち、信仰に目覚めて悔い改めました。そのため、神の御業により国は復興すると預言されています。
わかりますか。不義は世代移転するものではなく、正義も悪も、すべてその人に帰するものだと、神がはっきりおっしゃっています」
突然始まった蘊蓄に、女も男もぽかんと口を開けていた。彼らを見回したあと、モーリスは「そうそう」と付け加えた。
「魔術師の業をおとしめることは新世界の禁忌ですよ。我々は、魔女狩りの災難から救済された民であることを、どうかお忘れなく」
女は気まずそうに首をすくめて、モーリスを半壊状態の家へと招いた。開け放された扉の前でモーリスは立ち止まり、アミュウの方を振り返って言った。
「私は今、カーター・タウン教会のお手伝いで、回診をしているんです。アミュウさんもご一緒にいかがですか。こちらのお宅には、脚に怪我を負った方がいらっしゃいます。私は傷を診ることはできますが、不眠症状への対応は少々苦手で……一緒に診て願えたら、助かるのですが」
モーリスの打診にアミュウは二の足を踏んだ。彼がうまく丸め込んでくれたが、ここの人間たちのセドリックに対する不信感が拭われたわけではない。かと言って助け舟を出してくれたモーリスが、今度はアミュウに助けてほしいと言っているのを、無下に断るわけにもいかない。アミュウは渋々ながら彼に付き合うことにした。
屋内に足を踏み入れてみると、廊下には大小さまざまな荷物が積み上げられていた。大鹿はこの農家の居間を薙ぎ払ったらしい。廊下の先に見える居間らしき大部屋は、壁が崩れて裏庭が丸見えになっていた。その裏庭を仕切る木柵も踏みつぶされ、畑の奥に向こう隣の家が見える。
女は居間の手前の部屋の扉を開き、モーリスを招いた。彼女は、アミュウのことは無視することに決めたようで、ちらりとも視線を寄越さない。アミュウも女には構わないことにして、部屋に足を踏み入れた。男が最後に部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。
部屋は存外に広く、損壊は見られない。しかし、雨風をしのぐため他の部屋から運び込まれたと見える荷物が部屋を圧迫していた。タペストリーや刺繍飾りで飾られた部屋の中心には大きなベッドがあり、花柄の布団の中で老齢の男性がひとり横たわっていた。二人用の広さのベッドなのに、枕は老人が使っている分ひとつきりである。
(奥さんを亡くされたんだわ)
アミュウは室内の雰囲気から、そう判断した。この一家が喪に服している様子はない。今回の事件で亡くなったわけではないようだが、そう時間が経っているわけでもなさそうな、妙な生々しさがあった。
(ひょっとして、流行り病で亡くなったのかしら……マッケンジー先生はケインズおじさんと組んでいるわ。葬儀のときに、マッケンジー先生から色々吹き込まれたのかも……)
アミュウは自分の考えが憶測でしかないと分かっていたが、そう仮定すると、この家の夫婦がセドリックに拒否反応を示しているのも合点がいく。すると、この横たわっている老人も、現町長への不満を募らせているに違いない。アミュウは胸中で嘆息した。
老人はゆっくりとモーリスに顔を向け、弱々しい声で何かを囁いた。モーリスは頷くと、花柄の上掛けを丁寧に取り払い、老人のズボンをたくし上げた。膏薬を貼ったふくらはぎが露わになる。声の頼りなさとは裏腹に、筋肉の衰えていない、しっかりとした脚だった。つい最近まで畑に出ていたのだろう。
モーリスは膏薬を剥がす。アミュウは彼の背後から傷口の様子を窺い見た。紫色に腫れあがった中の、擦過傷が生々しい。モーリスは鞄から新しい膏薬を出して、貼り換えた。
「膿もなく、順調です。骨が折れているわけではありませんから、時々ゆっくりと散歩してみてくださいね。ずっと寝ていると、足腰が弱ってしまいますよ」
モーリスは明るい声で老人を励ましたが、どうにも暖簾に腕押しのようだった。モーリスは眉を八の字に寄せて、アミュウに助けを求めるような視線を投げかけた。アミュウは前に進み出てモーリスの隣に並ぶと、老人に話しかけた。
「はじめまして。よろず屋魔術師のアミュウです。眠れなくてお困りと聞きました。夢見が悪いのでしょうか?」
「おお、大魔女メイ・キテラどのの後継者ですか」
老人ははじめてはっきりとした声をあげた。その声にメイ・キテラへの信頼のようなものが感じられたので、アミュウは思い切って提案してみた。
「寝つきの良くなるお茶を差し上げましょうか。それに、厄除けのおまじないも。ただしこのおまじないはご本人に行ってもらわなければ効力を発揮しません。まじないを信じる強い気持ちが必要です。いかがでしょうか。」
老人が一も二もなく同意したので、アミュウはまじないに必要な品を説明した。
手頃な大きさの空き瓶ひとつ、折れ釘一本、鏡が一枚。ただし、鏡は後で割ってしまう。塩をたっぷりに、そしてハーブ。タイムにローズマリー、セージをそれぞれひとつかみ。丁子か八角があればなおよい。
「それからこのお部屋の荷物も片付けてください。儀式を行うには、整頓されていなければなりません。傷が痛むと思いますが、寝間着も着替えて、お顔を洗ってきてくださいね」
驚くべきことに、老人はむくりとベッドから起き上がり、自らの足で立ち上がると、よろよろと部屋を出て台所へ向かった。今の今まで衰弱しきっていた老人が、だ。夫婦は顔を見合わせて驚きの声を上げた。
「親父が起き上がった!」
「お父さんが、歩いた!」
そして二人は慌てて老人の後を追って部屋を出て行った。モーリスが両手をパチンと胸の前で合わせ、小さな目を輝かせて言った。
「すごいです、アミュウさん! あの方は事件の後すっかり気力が弱ってしまって、寝たきりになっていたんですよ。起き上がって、しかも歩くだなんて。これが魔術の力ですか」
「私も驚いています。あの患者さんは、まだ古の魔術を信じてくれているのですね……」
アミュウの声は、驚きと気恥ずかしさから小さくなっていた。
モーリスも老人や夫婦の後を追って部屋を出ていた。一人になったアミュウはこの部屋の空間と店の空間を繋ぎ、安眠の茶と、儀式に使う香炉を取り出した。
「準備ができました」
老人は小ざっぱりとしたシャツに綿のズボン、防寒チョッキに着替えていた。髭も剃ったようで、先刻までの悄然とした様子はかけらもない。部屋の荷物はすっかり片付けられていた。老人は台所から持ち出した塩やハーブ、小瓶といった品々を、空いたスペースに並べた。手鏡は部屋の隅の小さな鏡台から持ち出したものだ。亡くなったであろう奥方の遺品かもしれない。アミュウは「割ってしまってよろしいんですね」と訊ねると、老人は頷いた。
「妻が守ってくれる気がしまして」
アミュウは必要な品々が揃っていることを確認すると、老人に指示した。
「南に向かって座って、まずは深呼吸してください……そう、ゆっくりと。頭の中を空っぽにして」
老人は落ち着いた様子でアミュウに従う。部屋の後方では、夫婦とモーリスがそわそわとした様子でアミュウたちを見守っている。アミュウは火打石で蝋燭に火を灯し、桃色の樹脂のかけら、乳香を載せた香炉に火を入れた。次第に煙と甘やかな香りが広がる。
「煙に瓶を七度くぐらせてください。次に鏡を割ります。鏡も煙にくぐらせて、金槌で思い切り割って」
アミュウの指示通り、老人は力を込めて金槌を遺品の手鏡に振り下ろした。けたたましい音を立てて鏡が割れる。老人はどこか吹っ切れたような表情をアミュウに向けた。アミュウは頷いて見せると、次の手順を説明した。
「瓶に材料を詰めていきます。材料は都度、煙にくぐらせてくださいね。始めに塩、次にハーブ、スパイス。折れた釘を入れたら、最後に鏡の破片です――そう、そうしたら両手で胸の前に瓶を持って、願いを込めます」
老人は瓶に材料を詰めていくと、大事そうに瓶を胸の前へ持っていった。アミュウは言った。
「私のあとに呪文を続けてください。『南方の偉大なるミカエルよ、まごころよりの感謝とともに』」
「南方の偉大なるミカエルよ、まごころよりの感謝とともに」
「『平和と安寧と守護をあなたに願い、この瓶に祈りをこめます』」
「平和と安寧と守護をあなたに願い、この瓶に祈りをこめます」
「『獰猛な獣と恐ろしい夢が近付かぬよう、どうか祝福ください』」
「獰猛な獣と恐ろしい夢が近付かぬようどうか祝福ください」
アミュウは注意深く老人を見た。魔術師にしか見えないおぼろげな光が瓶に注がれるのが、アミュウの目に映った。
アミュウは続いて、老人に香炉を持たせて家じゅうを歩いて回り、乳香の煙で家を浄化した。屋内の浄化が済むと、アミュウたちは家の外へ出て、家の周囲に四角形を描くように塩を撒いた。
「鏡や釘で手を傷つけないよう気をつけてくださいね。玄関と裏庭の柵の崩れたところは塩を撒かないでください」
アミュウの助言に、後ろで様子を見守っていたモーリスが首を傾げた。
「これは塩の結界でしょう? 結界を閉じなくてよいのですか」
アミュウは首を横に振った。
「定置型の結界に近いですが、これはあくまでもまじないです。風通しを良くしておかないと、空気が澱んでしまいます。招いたものが通れるように玄関は開けておかなくちゃなりませんし、家の中の澱みが抜けていくよう、裏口も開けておく必要があります」
説明を受けたモーリスは「ふぅむ」と唸った。
「やはり古の魔術は奥が深いですね」
「塩を撒き終わりました」
敷地を一周して玄関に戻ってきた老人が、アミュウに次の指示を求める。アミュウは老人をねぎらった。
「お疲れ様です。残った塩はそのままに、瓶に蓋をしてください。そして南の窓辺に、鏡の破片が外を向くようにして置いておいてください」
老人は足を引きずりながら家に戻っていった。男が上ずって言った。
「信じられねえ……あんなに元気のなかった親父が、しゃんとしちまって……」
アミュウは夫婦に向き直った。
「古の魔術は、目に見えるものではありません。でも、だからこそ人の心に寄り添い、不安を取り除くことができます。はい、こちらを眠る前に飲ませてあげてくださいね」
アミュウは女に安眠の茶を手渡した。女は無言だったが、茶を拒みはしなかった。アミュウは続けた。
「父は確かに外壁や柵の設置に反対しています。でもそれは決して怠慢などからではなく、発展途上のこの街を柵で囲ってしまえば、将来必ず柵から溢れてしまう人が生まれてしまうからです。貧富の差が拡がることは、この街にとって百害あって一利もありません……そもそも、ケインズおじさんの唱える、森を切り拓いて得た木材で柵を作るという政策だって、木の柵で大型獣を防げるとは到底考えられません。それどころかひとたび街道がブリランテへ繋がってしまえば、ブリランテの戦火はきっとカーター・タウンに飛び火します。人同士の戦いは、獣相手の戦いよりもむごいものだと思います……」
夫婦は黙りこんだが、やがて女がエプロンのポケットから財布を出した。
「……いくら?」
アミュウはにっこりと笑った。
「ご愛顧、ありがとうございます」




