6-20.悪意
キャンデレ・スクエアの『ザ・バーズ・ネストB&B』へ行ってみれば、聖輝は未だ部屋着のまま、粗末なベッドで掛け布にくるまっていた。部屋に入ってくるアミュウを見ても、起き上がろうともしない。
「気分はいかがですか」
アミュウが声をかけると、聖輝はもぞもぞと寝返りを打った。狭い部屋にはベッドのほか、小さな書き物机と丸椅子、それにクローゼットがあるのみだ。アミュウは宿の主人から借りたポットとカップを机に置くと、早速手製のハーブティーを淹れた。蒸らす間に聖輝の熱と脈拍を確かめる。異常はない。アミュウがガーゼを交換する旨を告げると、聖輝は大儀そうに起き上がり、褪せた墨染の単衣の右袖を抜き、長襦袢をずらして傷口を見せた。傷そのものは大したものではないが、未だにぐずぐずと濡れている。出血毒のために血液の凝固作用が失われているのが明らかだ。
アミュウは慣れた手付きで手当てを終えると、いったん廊下へ出た。共同の洗面台で手を入念に洗ってから部屋へ戻ると、ちょうど聖輝が衣服を整え終えたところだった。蒸らしていたハーブティーは良い頃合いだった。カップに注ぎ、聖輝に手渡す。
「熱いから気をつけてください」
聖輝はふぅふぅと息を吹きかけてから、カップに口を付けた。そして一言、
「うまい」
「それはどうも」
素っ気ない返事をしたあとで、アミュウは陰鬱に考えた。痛み止めの茶など、必要がなければそのほうが良いのだ。
「ご主人からお湯をもらって、こまめに飲んでくださいね。はい、これ、ごはんにどうぞ」
アミュウは買ってきたパンとチーズを紙袋から取り出して見せ、最後に赤ワインの瓶を机に置いた。聖輝は茶を啜りながら「世話になります」と言ったあとでちょっと考える素振りを見せ、アミュウに問いかけた。
「これからどこかへ行くんですか?」
「ええ。南部の被害現場を見てから、もう一度教会へ行ってみようかと……」
アミュウの返答に、聖輝はぴくりと眉をひそめた。
「教会へ? 何のために?」
「血清の件、マッケンジー先生にもう一度お願いしてみます」
「おやめなさい。無駄足になりますよ」
聖輝が気だるげに言うと、アミュウはぷいとそっぽを向いた。
「無駄かどうかは私が決めます」
アミュウは立ち上がり、オーバーを着込んで支度を整えた。聖輝は茶の残りを飲み干して、カップを机に置くが、置いたそばからアミュウが回収する。部屋を出るついでに宿の主人に返すつもりなのだった。カップを手にしたアミュウの手を、ほんのわずかに聖輝の手が追った。
「……?」
アミュウが顔を上げると、聖輝はゆっくりと手を引っ込め、薄笑いを浮かべた。
「片付け、ありがとうございます。お茶も助かりました」
「お大事に。ゆっくり休んでくださいね」
アミュウはカップとポットを手に、聖輝の部屋を出て行った。
蓮飾りの杖でいつもより高くまで上がり森の方向に目を向けると、家並みが途切れがちとなり、農耕地帯が始まるあたりまでよく見える。アミュウは南へ進んだ。麦畑では苗が伸びやかに青さを増していたが、いたるところで無残にも畝ごと荒らされ、株が根こそぎ倒れている。畑の中の一軒一軒に目を凝らせば、屋根が崩れ落ちたり、壁が吹き飛ばされたりと、けものの爪痕が見えてきた。
それらのうちの一箇所に、四、五人の男女が集まっている。瓦礫の片付けをしているらしい。気になったアミュウが高度を下げると、彼らはアミュウを指差して口々に何か言い合い、しまいには手を振り「おぉい」と声をかけてきた。彼らと面識はなかったが、アミュウはその家の崩れた門のすぐ外に下りてみた。彼らはすぐにアミュウを取り囲んだ。
「あんた、あの魔女のお弟子さんでしょ?」
挨拶もそこそこに、中年の女が話しかけてきた。気圧されたアミュウが頷くと、女は「やっぱり!」と声高に言った。
「ねえ、あの結界とやらでうちを守ってよ」
女は、さも当然であるかのように言った。突然の要求にアミュウが目を白黒させていると、後ろにいた男たちが続いた。
「俺んちも頼むよ。すぐ近くだからさ」
「あ、うちも!」
アミュウは一歩後ずさった。嫌な雰囲気だ。
(これって、一度引き受けたらきりがなくなるんじゃないかしら)
どう対応すべきか迷っているのを、女は見透かしたらしい。ふてぶてしい態度でアミュウに詰め寄る。
「あんた、あの町長のところの娘なんでしょう。大鹿が街に入ってくるのを防げなかったのはあの無能町長の怠慢のせいなんだから、そのくらいの責任はとってよね」
けものに踏み荒らされた畑を冷たい風がよぎった。遠くでチチチと小鳥が地鳴きをするのが、やけに耳に澄んで聞こえる。アミュウは急に手足の冷えを感じた。血の気が引いたのだ。父セドリックへの悪意を剥き出しにぶつけられて、アミュウは戸惑った。そして、ここでの受け答えを間違えたら、セドリックに累が及ぶと直感した。
(こういうとき、ナターシャならどう対応する……?)
女はじろじろとアミュウを睨みつけている。これ以上黙っているわけにはいかない。アミュウは勇気を振り絞って口を開いた。
「私の師が結界を張って大鹿の動きを封じたと聞いていますが、恐らくそれは即時型の結界で、効力は長く続きません。定置型の結界を張ることも可能ですが、魔力の消費が激しいので、一度に何軒もの家屋を守ることはできません」
アミュウは努めて冷静に説明したつもりだったが、女の耳には届かない。
「そこをどうにかするのがあんたの役目でしょ。私たちは被害者なんだから」
女の最後の一言が、この場にいる男女たちの心理を最もよく表しているようだった。アミュウはカーター邸の生垣に括りつけられた立て看板を思い出した。大鹿による被害は全て、住民の望む街壁を設置せず、適切な対応をとってこなかったセドリックの所為ということになっている。そして街を守るために命を落としたメイ・キテラの犠牲は、便利な道具のように消費されて然るべきものらしい。生理的な嫌悪感にアミュウは身震いした。しかしセドリックの立場を思うと、ここで彼らと禍根を残すわけにはいかない。アミュウはラ・ブリーズ・ドランジェでの卜占を思い出し、同じ手を試みてみた。
「厄除けのおまじないなら特別な魔力は必要ありません。必要なのは、ご自宅を守りたいという気持ちの強さと魔法を信じる気持ちの強さです。いかがでしょうか」
アミュウが呈示した代替案は、鼻であしらわれるだけだった。
「おまじない? 笑わせないでよ。おまじないで獣除けができるなら、みんなやってるわ」
アミュウは愕然とした。話が何も通じない。
この女は、今回の事件で被った損害の代償を、セドリックの娘であるアミュウに支払わせたいだけなのだ。まじないという古の魔術に対する畏敬の念などかけらもない。アミュウは他の町で昔ながらの魔術師を見かけなかったことを思い出した。なるほど、こういう人間が増えたなら、古の魔術は廃れて当然である。
(こういう時、先生ならどうする――?)
アミュウはメイ・キテラの背中を思い浮かべた。彼女ならば「魔法を信じない者に、魔法の恩恵を受ける資格はない」と言って一蹴しただろう。しかし、今この状況で、アミュウが同じ真似をしたならば、ここにいる男女はセドリックへの不満を募らせるのみだ。近所の住民たちにあること無いこと吹聴して回るかもしれない。
(丁重にお断りするしかないわ)
そう判断を下したアミュウが断り文句を探していると、不意に後ろから声をかけられた。
「あれ? アミュウさん?」
振り向くと、質素な外套に身を包んだ青年がそこにいた。アミュウは、彼の顔を判別するのにわずかな時間を要した。彼がいつも頭に戴いていた聖職者の帽子がなかったからだ。
亜麻色の短い巻き毛が、冬の陽射しに白くふんわりと輝いている。その光がアミュウには後光のように見えた。小粒な目はアミュウを捉えたあと、その場にいる男女へと移っていく。しかし彼は剣呑な雰囲気に押されることなく、さりげなくアミュウと女の間に割って入った。
「何かあったようですが、私でよろしければ、お話を聞かせてもらえませんか」
彼の背中をアミュウは信じられない思いで見つめた。
「ベルモン先生……?」




