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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第一章 森の魔女と聖霊の申し子

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1-19.幸福の食卓で【挿絵】

 朝日が影をつくる泉で洗濯をする。木立の隙間をつんざくように、モズの声がキキィーと響いていた。そろそろ十月に入ろうかというこの時期にしては、水が冷たかった。桶の水にナタリアのチュニックを浸し、せっけん代わりのムクロジの実をひとつかみ入れる。しゃぽしゃぽと揉みしだくと、細かな泡がたった。

 無心に押し洗いを続けている間、アミュウはいまだに夢の中にいるような心地がした。


(いいえ、違う。もっと夢の中にいたかったんだ……)


 みずおちの辺りが締めあげられるようで、朝ごはんを食べる気にもなれなかった。アミュウは洗濯物をすすいで絞りあげ、のろのろと小屋へ戻る。干す間にも、アミュウは夢心地に浮かされていた。


(もしも、夢のことで何かあったら、私のところに来てください)


 聖輝の声が耳によみがえる。


(昨日の今日で、泣きつくのは癪じゃない)


 しかしアミュウは、ワンピースを後ろまえにかぶり、水瓶からポットに水をうつそうとして床に盛大にぶちまけ、部屋干しした洗濯物に何度も顔を突っ込んだ。そして日が昇り温かくなってきたころ、ついにアミュウは聖輝の元を訪れようと腹を決めた。




挿絵(By みてみん)



 昼のキャンデレ・スクエアはやはり眠ったようだった。閉ざされた扉が並び、秋の爽やかな日差しのもと、その快さを甘受するのみで、動くものは何も無い。この界隈には二軒の宿がある。「小さくて狭いほうがいい」と言った聖輝の言葉を思い出しながら、アミュウは粗末なほうの宿「ザ・バーズ・ネストB&B」を訪ねた。


「すみません。こちらに牧師さんは宿泊されていますか?」

「あん?」


 カウンターに座っていた、やけに白目の大きな男が、新聞から目を離してアミュウを見る。アミュウはやや怯んだが、重ねて訊ねた。


「こちらに泊まっているかもしれないと思って。黒髪の若い男性で、いるとしたら、昨日からなんですけど」


 男は大儀そうに新聞をたたみ、分厚い宿帳を取り出した。頁を繰るまでもなく、目当てを見つけたようだ。


「二〇五」

「ありがとうございます」


 男はまた新聞を広げた。

 アミュウは食堂を兼ねた広間の奥から伸びる階段を上がった。手すりは無い。木の壁の目線よりやや下の部分には、手の脂を吸ったのだろうか、階段の斜線に並行して、黒っぽい染みがぼやけた線を描いている。階段を上がると、目の前が二〇一号室で、二〇五号室は突き当りだった。

 アミュウは部屋番号を何度も確認した。今日は空色ダンガリーのシャツワンピースを着ていた。シンプルながら、胸元に控えめなタックが入っている。足元はヌメ革のストラップシューズだ。

 意を決してドアをたたくと、やや間をあけてガチャリと鍵が回り、扉が開いた。

 聖輝はアミュウを見下ろして「おや」と言った。部屋着姿で片手に本を持ち、指を挟んで栞にしていた。


「どうしたんですか。あなたの方からやってくるとは」

「突然、すみません」


 聖輝の身体の後ろに、狭い客室が覗いて見える。机には何やら書き物があり、椅子は斜めに引き出されている。ベッドの毛布は乱雑に剥ぎ取られたままだった。


「ちょっと、話を聞いてもらいたくて、来ちゃいました」

「ナタリアさんのことですか」

「いえ、その……また夢を見ました」


 聖輝の目つきが変わった。


「どこか場所を変えましょうか。少し早いですが、良ければ昼食でも。急いで支度をします」


 そう言って聖輝はドアを閉めた。アミュウは蓮飾りの杖を床に突いてため息をこぼした。胸が痛いほど鳴っている。夢を見たと聖輝に話したことで、現実と夢の境界がはっきりと分かたれた気がした。すると夢との距離がますます遠く感じられて、苦しかった。

 ドアが開いた。聖輝は牧師のチュニックではなく、シャツにジャケットという姿だった。


「お待たせしました、さあ、行きましょう」


 表に出ると、空の一角に綿雲が浮かんでいた。聖輝は雲を指して言った。


「あれは好天のサインですよ。オーラなど読まずとも、分かります」

「そうなんですか」

「あなたは、天候に関する依頼は受けないんですか。雨ごいとか」

「カーター・タウンは気候が穏やかですから」


 聖輝が先に立って歩き始める。アミュウが後からついていく。聖輝は左右を見回しながら言った。


「このあたりの店は、昼間はどこも閉まっていますねえ」

「あ、開いてるお店、知っていますよ」


 アミュウが聖輝を追い抜き、先導した。広場を東側に折れて進むと、「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」のオリーブの木が見えた。果たして、店は営業していた。昼時には早いが、既に数組の客が入っている。


「まだ入ったことはないんですけど」

「良さそうじゃないですか。ここにしましょう」


 開け放されたドアをくぐると、厨房から流れてくるニンニクのにおいが、アミュウの衰えていた食欲を刺激した。給仕の少年がやってきて、アミュウたちを奥の席へと案内した。店内の壁には黒板が据え付けられていて、今日のメニューが記されていた。聖輝が目に付いたものを読み上げる。


「海老とオクラのニョッキか……鮭とヒラタケのクリームソース」

「海鮮がお好きなんですか」

「山育ちですからね、海のもののほうが珍しい気になるんですよ」

「王都ですか」

「ええ、王都の裏の山の手です」

 アミュウもぼんやりとメニューを眺める。

「決まりましたか」


 アミュウが頷くと、聖輝が手を挙げて給仕を呼んだ。


「料理の前に飲み物をお願いします。適当なワインを」


 そう頼むと、聖輝はアミュウの方を向いた。


「アミュウさんは、お酒は召し上がりませんね」

「苦手なんです。お茶をお願いします」


 給仕が行ってしまった。アミュウは、何から話したらいいか分からず、目のやり場に困って、メニューの文字を眺めていた。

「まだ何か召し上がりますか」


 聖輝が訊ね、アミュウは慌てて首を振った。


「いいえ、充分です。そうでなくて、その」

「また夢を見たと言っていましたね」


 聖輝も黒板に目をやりながら言った。


「今度もアモローソ王女の夢ですか」


 アミュウは頷いた。店に三人連れの客が入ってきた。給仕の少年が飛んでいく。


「ただ、今度は取るに足らない日常って感じの夢でした」

「どんなふうだったんですか」


 新しく入ってきた客らがメニューを見てあれこれ騒ぎ立て、注文している。アミュウはどう話したらいいか分からないまま口を開いた。


「……王女はお付きの騎士に恋をしていたようです」


 聖輝は肩をすくめた。


「めくるめく禁断の恋ってやつですか」

「いえ、そういう感じではなく、私が見たのはもっと淡い感じの……」


 話しながらアミュウは考えるが、うまい言葉が見つからない。


「多分、そのとき王女は十四歳で、初恋のような」

「騎士なら貴族ですね。革命の二年前ですか。ひょっとしたら記録が残っているかもしれません。名前は?」


 アミュウは夢の中の「彼」を思い浮かべようと目を閉じる。しかしその姿は像を結ばない。


「思い出せません……名前も、姿も。あまり良い家柄ではなかったような印象です」


 給仕がワインと茶を運んできた。聖輝はグラスを合わせずに、掲げるだけで乾杯の仕草をする。アミュウも、ほんの少しティーカップを持ち上げてみせた。


「あ、ジュスタって名前の侍女がいました」

「侍女か……侍女では、当たりようがありませんね」


 聖輝がワインに口を付ける。アミュウも茶を啜りながら、悔しく思った。夢で味わった情感のうち、切れ端ほども聖輝に伝えられない。


「この前見た、お城から逃げる夢でも、騎士の顔が分かりませんでした。でも、きっと、同じ人物です」


 聖輝がグラスから口を離した。


「逃亡劇の相方?」

「はい」

「それを早く言ってください。それはかなりの重要人物ですよ」


 聖輝はグラスを置いて、考え込んだ。


「王女は、反乱襲撃のどさくさに紛れて、身分違いの恋を成就せんと駆け落ちをはかったのかもしれないと」

「えっ」


 アミュウは眉根をひそめて聖輝を見た。


「あの時の夢はそういう感じじゃありませんでしたよ。もっと悲壮でした」

「可能性のひとつを挙げたまでですよ」


 アミュウは黙った。


(駄目だ)


 うまく言葉で表現できない。アミュウは聖輝に、夢で味わった感情の機微を分かってほしかった。その心の動きの名前を知らなかったので、聖輝に判じてほしかった。しかし、説明しようとすればするほど、その正体は遠のいていくようだった。


(この前は、うまく話せたのに……)


 聖輝は既に一杯目のワインを空けていた。手ずから注ぎ、二杯目を口にして言った。


「どうも、話がぼんやりしていますが、大体は分かりました。また、何かあったら教えてください」


(何も分かってないじゃない)


 アミュウは唇を噛んだが、それでこの話はおしまいになった。

 給仕が料理を運んでくる。聖輝の皿には立派な海老がお辞儀をするように盛り付けてあった。アミュウもアクアパッツァに手を付けたが、お腹が空いていたはずなのに、味が薄められたようだった。店は次第に混雑し始め、厨房のほうから聞こえる注文指示を飛ばす声が鋭くなってきた。


「美味い。ニョッキが出汁を吸っている」


 のんびりとした聖輝の声が、アミュウにはどこか遠く感じられた。

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