1-1.奇妙な縁談【挿絵】
PV動画はYouTubeよりどうぞ。
https://youtu.be/8sLPdGUeaJY
月も星も明るい夜、藍よりも濃く深い空に水音が吸い込まれていく。暗い森の輪郭は曖昧で、どこからが水面なのかもおぼろげなまま、月明かりをうつしたさざ波が広がる。昼間ならばその泉の底の石までよく見えて、水がどれだけ澄んでいるかよく分かるものだが、今は手を差し入れた冷たさでその清浄さを思い出すだけだった。
アミュウは水桶を抱えて立ち上がった。肩からずり落ちそうなドビー織のショールを、身体を傾けて留めた。夜空を見上げると、月が洗いたてのように輝いていた。
(月に見られている)
見守られているのではなく、見られていると感じた。今夜の月光は、何を見張っているのだろうか……誰かの視線を思わせるほどに強烈だった。
(嫌ではない……強い光のほうが、効き目があるかもしれない)
アミュウは桶を抱えたまま数歩後ろに下がり、満月がすっぽりと桶の水に映し込まれる位置で立ち止まった。湿った地面に桶を置いてしゃがみ込み、両手で水をすくう。月の光が手の中で輝く。
「月より落つる金のしずく、銀のしずく、光を留め、器を満たせ」
呪文というよりも詩に近い響きの言霊をつむぎ、すくい上げた水を桶に落とす。桶の水は変わらず冷たく、月の光を映している。
同じ動作を三度繰り返すと、アミュウは桶を抱えて泉のほとりを離れた。
腐葉土を踏み固めただけの道を五分ほど進むと、丸太を組んだ板葺きの小屋が見えてきた。彼女の住まいである。
家に入る前に、アミュウは月が映る位置に桶を置いた。そして小屋から子どもの握りこぶしほどの大きさのムーンストーンの塊を持ち出してくると、桶に沈めた。
その夜、アミュウは一時間おきに家から出てきては、月がうまく映り込むよう桶の位置を調整し続けた。月が森の木々に隠れ、小鳥がさえずり始めるころ、ようやく部屋の灯りを消して床にはいることができたのだった。
既に日は、すっかり昇っていた。
玄関のドアをノックする音が響く。昨日は徹夜だったので、アミュウはまだ眠っていたかった。目の奥がつんと痛む。まぶたをこすり、ベッドから起きだして薄手のガウンを肩に掛け、玄関に向かう。
「どなた?」
「私」
聞き慣れた声に、アミュウはむっとしてドアを開けた。
「もう少し寝かせてよ。満月の夜は忙しいって知ってるでしょ」
「ごめんごめん、ちょっとお願いがあってさ」
来訪者は、アミュウの姉貴分のナタリアだった。くるくると渦を巻く短いブリュネットを揺らして、ナタリアは家に上がりこむ。彼女はたびたび、町からわざわざ森の中のアミュウの家まで出向いてくる。ナタリアはここが自分の家であるかのように遠慮なく椅子に座ると、鞄を床におろしてくつろいだ。
「今日はあんた、町に来ない日でしょ。色々やることあるのは分かってるけどさ、午後あけられない? 夕方からでいいから」
「急ね」
アミュウはかまどに火を入れケトルを天板に置いた。ベッドに戻り、ガウンと寝間着を脱ぐ。シュミーズ一枚の背中にナタリアの視線が刺さる。
「ちょっと、また痩せた?」
「そんなことない、じろじろ見ないでよ……」
アミュウは薄手のワンピースの上に作業用の青いスモックを被り、金の巻き毛を梳いた。台所の戸棚から固くなったパンを取り出す。
「ナターシャも食べる?」
アミュウはナタリアを家族の愛称で呼んだ。
「ううん、いらない――そうだ、パパからあんたに」
「お父さんが?」
ケトルを火からおろし、代わりにパン焼き網を載せて、アミュウは麻袋を受け取る。卵にチーズ、ベーコン、茄子、人参、はちみつが入っていた。
「こんなにたくさん」
「パパも心配してるんでしょ」
「ここでの暮らしも、もう長くなるのに」
「そういうものだって」
アミュウは実家を間借りして小さな店を営んでおり、父親とは頻繁に顔を合わせている。わざわざナタリアに持たせなくとも、自分が店に来る日を待てばいいのにとアミュウは思った。
さっそく卵を焼いてパンに添え、茶を淹れた。ごく簡単な朝食だが、アミュウにとっては目玉焼きがある分、いつもより豪華だった。
ナタリアは、ボウルいっぱいに注がれた茶を飲み、かーっと喉を鳴らした。
「やっぱ美味いわ、ここのお茶は」
「それで、お願いって何」
アミュウはもそもそと固いパンをかじりながら、早く用を済ませてくれと言わんばかりに訊ねた。
「今夜ね、偉い牧師さんが、うちに泊まることになりそうなんだって。夕飯ご馳走して、部屋を貸すんだってパパが言ってた。それでさ、アミュウにも一緒にいてもらいたいなって思って」
「手が足りないの?」
「いや、そうじゃなくて……」
ナタリアは、彼女らしくない態度で言いよどんだ。どう話したらいいのか悩んでいるようだ。アミュウはパンをかじりながらナタリアの次の言葉を待った。
「ほら、最近パパってば、婿とれ、婿とれってうるさいでしょ。どうもその牧師さんっていうのが、なんていうか……相手を探してるみたいなのよ」
「へぇ」
アミュウは朝食を中断してナタリアを見た。ナタリアの緑がかった褐色の瞳が、落ち着きなく揺れる。
「だからね、今夜は、教会相手の接待っていうていのお見合いになりそうで」
「その上寝室に連れて行かれて、さあどうぞって供されたらたまらないってわけね」
「何言ってんのよ、そこまでは」
「さすがに今晩すぐにってことはなくても、あの手この手でくっつけようとしてくるんじゃないかしら、お父さんは」
「……そうかなぁ、いや、やっぱりアミュウもそう思うか……」
ナタリアの父親セドリックはカーター・タウンの町長で、一人娘のナタリアに婿を取らせて、その男に後を継がせるつもりでいる。当のナタリアは、まだ結婚には早いと抵抗しているが、セドリックは構わずに次から次へと見合い話を持ってくる。
しかし、今まではすべて婿に入ることを前提とした見合い話だった。
「牧師さんって、婿に来るものなの?」
アミュウが素朴な疑問を口にすると、ナタリアは呆れたように答えた。
「来るわけないじゃない、嫁を取る側よ。しかもその人、けっこう偉いご身分みたいでさ」
「偉い人ならいいんじゃないの。教会で地位がある人の奥さんなら一生ラクして暮らせるよ」
「簡単に言わないでよ……」
ナタリアはボウルの茶をすすって言った。
「今まであんなに婿取りに執着してたパパが、婿でなくてもいいっていう風なのよ。確かに、その人はそれだけのご身分で、父親としても安泰なのかもしれないよ。でも、私が婿取りをしなければ、誰がパパの後を継ぐの?」
「後継者を探すのだってお父さんの仕事のうちでしょう。いいかげん古臭い同族経営から脱却すべきだと気づいたんじゃないの」
「そう簡単に考えを変えるわけがないよ。うちにはもう一人娘がいるって思ってるに決まってる」
「私⁉」
アミュウは仰天した。アミュウは養女だった。幼いころに拾われ、カーター家の子として育てられた。実の娘であるナタリアと変わらぬ愛情を注がれたが、なんでもかんでもナタリアと同じというわけではなかった。アミュウはそれを自由で気楽だと捉え、こうして気ままな一人暮らしをするに至っている。今更家督を継ぐなどというのは寝耳に水だった。
「私じゃつとまらないでしょう……だって血がつながってない」
「パパはそうは考えてないよ。断言できる。だいたい後継者っていったって、そんなこと頼める親戚なんていないんだから、血がつながってるかどうかは問題にならない」
ナタリアは頬杖をついた。いつもは涼しげに光る眼を今は伏せて、ため息をつく。
「まぁ、そういうわけで、一人じゃ心細いっていうのもあるけど、あんたに全然関係ない話ってわけでもないんだわ」
そこで会話が途切れ、二人とも窓の外を見た。
窓の外では木漏れ日が揺れ、スジグロ白蝶がひらひらと舞い、アミュウが丹精込めた菜園の花々のあいだを行ったり来たりしている。日差しの柔らかな初秋の日だった。
「ナターシャは、その、偉いっていう牧師さんの件に限らず、結婚についてどう思ってるの」
ナタリアは窓のほうに目を向けたままだった。しかしその目は何も映してはいない。
「こういう家に長女で生まれた以上は、結婚にある程度の不自由があるのは当然だよ。今までムコとれムコとれって言われてたから、そのつもりでいたし。今さらこの町を出るっていうのはピンとこないけど、まぁ、色んな事情があってそういう流れになることはしょうがない。できればあと五年くらいは独身でいたいけど、こればかりは縁だからね」
アミュウは我が身を振り返ってみたが、結婚というものがあまりにも自分の生活から遠いところにあって、自分に引き付けて考えることができなかった。
自由気ままな一人暮らしから、四六時中他人と顔を突き合わせる生活に一変するなんて――考えるだけでぞっとした。いつかは成り行きでそうなるかもしれないが、自分の意思に沿わず、望まぬタイミングで、そんな環境に放り込まれるのはまっぴらだ。
しかしナタリアは、幼いころからそれを当たり前の義務として育てられてきた。アミュウが一人で気の向くままに暮らす一方、ナタリアはずっと籠の中の鳥だったのだ。一見したところナタリアは奔放のように見えるが、実は責任感が強く、とにかく自分に向けられた期待を無視することができない。自由へのあこがれがあったとしても、かくあれと願う周囲の期待を裏切ってまでそれを追い求めることはしない。
だから、アミュウ自身が結婚について否定的なイメージしか持てなくても、ナタリアにそれと悟られるような言動をとるのは浅はかだ。
ナタリアは続けた。
「とは言っても、私にだって一応選ぶ権利はあるからさ、その不自由の中でできるだけ都合の良い相手を見つけたいとは思ってるよ」
「つまり、相手次第じゃ、この話はまったく見当違いってわけでもなくなるのね」
アミュウとしては気楽な生活が気に入っているが、それはつまりナタリアが婿を取って家督を継ぐことを前提に成り立っているのだ。姉に不自由とやらを押し付けてまで自由を謳歌するというのはいかがなものか――嫁に行くというのは、籠に押し込められてきたナタリアにとってそう悪いことではないのかもしれない。セドリックが婿取りにこだわらなくなったのなら、せめて、彼女が実家を出ていく選択肢を奪わずに見守るべきなのではないだろうか。アミュウが後継者になるかどうかはまた別の話だ。
「わかったわ、今晩は付き合う。そっちさえ良ければ、泊まっていってもいい。要はその人が、ナターシャに似合う相手なのか、一緒に見てほしいんでしょ」
ナタリアはぱっと笑顔になった。アミュウはまだ残っていたパンを口に放り込んで言った。
「いいよ。どんな人間なのか見たうえで、縁結びだろうが、縁切りだろうが、まじないをかけてあげる。安心して」
「ありがとう! アミュウ大好き!」
ナタリアは抱き着かんばかりの勢いでアミュウの手を取った。
「その人は今日、スタインウッドを発ってカーターに来るんだって。街道を歩いてくるから、夕方になると思う。一張羅で来てね」
「一張羅なんて……」
「無いならうちで着替えなよ。昔着てたやつ、ちゃんととってあるからさ」
ナタリアはそう言うと鞄を肩にかけ、風のように去っていった。