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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第六章 きくは我

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6-18.セドリック・カーター

 出来上がった食事を客室へ運ぶと、聖輝は昏々と寝入っていて、起きる気配がない。アミュウは食事を机に置くと、椅子をベッドの傍へ引き寄せて腰かけた。

 血の気を失った聖輝の顔は、元が黄味がかっているだけに、粘土細工のような黄土色に見えた。アミュウはその額にそっと手を乗せた。ほんのりと温かく、黒々とした前髪が束になって横へ流れた。熱はない。アミュウは暫くそのまま聖輝の額に手を置いていた。


(人のために力を使うというのは、驕りにすぎない。すべて、自分のためなのだと心得るべきだ)


 思い出されるのは、タルコット家の庭から掘り出したナイフの呪いを解いたとき、聖輝が口にした言葉だ。ナイフの謎を追って、スタインウッドへ向かったのは秋のことだった。駅馬車に揺られて街道を北上した際、シンプトン家の羊たちを狙う大型の狼に遭遇したが、あの狼を撃退するのに聖輝は積極的でなかった。精霊魔術を使えないアミュウが狼に突っ込んでいったことを非難されたとき、アミュウはこう答えたのだった。


――だって、ほっとけないじゃないですか。

――それに、聖輝さんが来てくれると思ったから。

――実際に来てくれましたよね。


 ところが今はどうだろうか。大蛇に遭遇したとき、アミュウたちとの距離は充分にあった。毒蛇であるとわかった時点で逃げ出すこともできたのだ。しかし聖輝は単身、大蛇へと向かっていった。

 アミュウの脳裏に、メイ・キテラの不愛想な眼差しがちらついた。彼女も大型獣の暴走を止めるために、老いた体を張って街を守ったのだ。師の墓を目の当たりにしたばかりのアミュウには、今、こうして聖輝が寝息を立てているのが、細く折れそうな脚で水面に浮かぶアメンボのように脆く儚い奇跡であるように感じられた。


「……どうして、危ないと分かっていながら、立ち向かっていったんですか……」


 心の内に留めておくつもりだった言葉は、しかし実際に声となってアミュウの口から洩れた。聖輝は薄く目を開けた。アミュウは思わず、聖輝の額に置いた手をそろりと動かし、頬を撫でた。鏡の無いスタインウッド教会の水場では、まともに髭を剃れなかったのだろう。伸びかけた髭がちくちくとアミュウの手のひらを刺した。その刺激が、伸びやかな生命の芽吹きそのものであるような気がして、アミュウは聖輝の頬から手を離すことができなかった。

 聖輝はとろんとした目をアミュウに向けていたが、やがてそのまなざしははっきりとした光を宿すようになった。


「泣かないで」


 聖輝の声が存外に優しかったので、知らぬ間にアミュウの目に盛り上がっていた涙がぽとりとこぼれ、アミュウのスカートの膝を濡らした。アミュウは聖輝の頬から手を離し、片方の目をこすった。聖輝は掛け布からもぞもぞと手を出すと、アミュウのもう片方の目尻をぬぐった。聖輝の手は大きく骨ばっていて、アミュウが自身の手で拭うのとは全く違う感触がした。


「もしかして、アミュウさんたちを守るために、私が怪我をしたと思っている?」


 もしかしても何もない。聖輝の問いに、アミュウは小さく頷いた。聖輝はかさかさの唇を引き上げて微笑んだ。


「もちろん、あなたたちを守らなければと思いました。でも、そう考えるようになったのは、アミュウさん。あなたにほだされた部分がずいぶんと大きいのですよ」


 細められた聖輝の目は音さえも吸い込みそうなほど黒く、しかしランプの光を照り返す虹彩は、灰にも紫にも見える複雑な色合いをしていた。充血しているのが痛々しい。聖輝の微笑みを見ているのがつらくなり、アミュウはかぶりを振った。


「私、誰も何も守れてなんていません。現に聖輝さんの毒をどうすることもできないし、ジークだって傷を負ってる。ナターシャは見つからないままだわ」


 聖輝は唇を微笑みの三日月型に保ったまま、目を瞑った。


「気付いていないのですか。あなたは随分と多くのものを守っていますよ。その小さなからだでね」


 アミュウは目を瞠ったが、聖輝は目を閉じたままだった。やがて聖輝は寝息を立て始めた。掛け布から出たままになっていた腕を、アミュウはそっと布団の中に戻した。

 どれほどそうしていただろうか。もしも雲が出ていなかったら、冬の大三角が冴えた光を放っていただろう。


 ノッカーの音もなく、突然玄関扉の開く音が暗闇を裂いた。アミュウは弾かれたように立ち上がると、机のランプを掴んで廊下へと走り出た。

 階下の人物たちは、空っぽのはずの屋敷に人の気配を感じたらしく、きょろきょろと辺りを見回していた。くたびれたスーツを着たセドリックと、彼の外套を抱える執事ヴィタリーだった。

 アミュウが階段を下りようと手すりに手をかけたとき、セドリックは大きな声で娘の名を呼んだ。


「ナターシャか⁉」


 アミュウのモカシンシューズの足が止まった。胸の内に苦い落胆が広がる。このまま回れ右したくなるのを気力でねじ伏せ、アミュウはゆっくりと階段を下りた。


「アミュウよ。お帰りなさい」


 セドリックの顔に驚愕が広がる。大口を開けて動けないでいる主人を見るに見かねて、ヴィタリーが口を開いた。


「お帰りを言うべきはこちらですよ、アミュウさん。よくぞ帰ってこられました。しかし、どうしてまたこんな時に」

「こんな時だからこそ帰ってきたのよ。それに、ナターシャのことで話さなくちゃならないこともあるの」


 アミュウはセドリックとヴィタリーを居間兼食堂に連れて行き、暖炉に火を入れた。スープを温め直してサンドイッチとともに食卓に並べると、ごく簡素な夕食が整った。

 手を組むだけの簡単な祈りののち、三人は食事に手をつける。もしも聖輝が同席していたら、きちんと祈りの文句を述べていただろう。

 アミュウはセドリックたちの腹が満たされるタイミングを見計らって、街の被害状況について訊ねた。セドリックはため息交じりに答えた。


「南部は壊滅的だな。建物への被害も甚大だが、農耕地帯が踏み荒らされてな、今年の収穫量は激減するだろう」

「スタインウッドで避難している人たちを見たわ」

「スタインウッドだけじゃない。カーター・タウンは森に近いぶん獣が多くて危険だというイメージがついてしまってな。ラ・ブリーズ・ドランジェや王都まで逃げていく住民もいる。各地から救援物資が届いているが、帰りの馬車はそういう避難民でいっぱいだよ。お陰で交通網のパンクが続いている。アミュウ、お前はどうやって帰ってきたんだ」


 アミュウは王都からここまでの道のりについてセドリックたちに語って聞かせた。イアンとエミリがメイ・キテラの訃報をしらせてくれたこと。道中、聖輝が負傷したこと。話題が聖輝に移ったとき、セドリックの眉がぴくりと跳ねあがった。


「ミカグラ先生が?」

「ええ。今は二階で寝ているわ。ヘビ毒を受けてしまったの……」

「起きていますよ」


 アミュウの言葉を遮るようにして、居間の戸口に聖輝が現れた。セドリックが椅子から腰を浮かせる。ヴィタリーもその場に立ち上がった。アミュウが聖輝に歩み寄り椅子を勧めたが、聖輝は立ったまま腰を折った。


「ナタリアさんの件では、私の力が及ばず、まことに申し訳ございませんでした」


 セドリックはその場に立ったまま腕を組んだ。


「……娘の居場所に心当たりはありますか」


 聖輝は首を横に振ると、ナタリア失踪の事情を全てつまびらかに語った。

 長い話の最中、アミュウは何度も聖輝たちに座るよう促したが、三人とも一向に腰を下ろそうとしない。聖霊の申し子と運命の女の因縁に話が及んだとき、セドリックは顔を歪めて食卓を叩いた。食卓の振動によってスープ皿の中の匙が震える音を、同じように震えながらアミュウは聞いた。聖輝は、ナタリアがアモローソ王女の記憶に目覚め、容貌すがたかたちを変えていずこかへと去ってしまったところまで、冷静に説明し終えた。


「……つまりナターシャは、聖霊の申し子と運命の女とやらの因縁から逃れるため、ミカグラ先生の元から逃げたと?」

「恐らくそういうことでしょう」


 脱力したセドリックは激しい音を立てて椅子に座り込んだ。頭を抱えてうつむき、何も言えずにいる主人の代わりに、ヴィタリーが聖輝に声をかけた。


「はるばる王都からここまでおいでになったのは、この話をするためだったのですね」

「そうよ。本当はもっと早く来たかったんだけど、王都でゴタゴタしちゃって……もしもけものが現れたときに私たちがいたら、もっと違った結果になっていたかもしれないわ。遅くなって、本当にごめんなさい」


 アミュウが詫びると、セドリックは沈痛な面持ちのまま顔を上げて言った。


「……いや。こっちも色々と取り込んでいてな。正月で郵便が止まっていたこともあって、すぐに手紙の返事を出せなかった。それに、もしも事件のときにお前がいたとしても、お前を現場に向かわせるような真似はしなかったよ。あのけものは猟友会の連中の手に負える相手ではなかった……リスクを低く見積もった、私の手落ちだ」


 セドリックは額から後頭部へと手のひらを撫でつけ、歯噛みした。話の間ずっと立ったままでいた聖輝がふらつき、二、三歩よろめいた。あわててアミュウが聖輝の身体を支える。ヴィタリーが気づかわしげに声をかけた。


「怪我に障ります。お話は途中ですが、もう休まれては……」

どこ(・・)で休むだと? ヴィタリー」


 セドリックがぎろりとヴィタリーを睨みつけた。


「あそこはもともとアミュウの部屋だろう」

「私ならナターシャのベッドを借りるわ」

「黙りなさい、アミュウ」


 セドリックはアミュウの申し出を一蹴した。彼の顔には、これまでアミュウが見たこともないような苦悶が浮かんでいて、アミュウは抗議の声を呑み込まざるを得なかった。続くヴィタリーの声が一際のんびりと聞こえたのは、セドリックの怒りを宥めるためだろう。


「客室ならもう一室あるじゃないですか。私の荷物を片付けて、そっちで休めば良いでしょう」


 しかしヴィタリーの言葉はセドリックを逆撫でするだけだった。


「ヴィタリー、お前はどうしてここに泊まりこんでいるんだ。今、この状況で、俺がお前の力を必要としているからだ。残業続きで悪いが、もう少しここにいてもらわなきゃならん」


 セドリックの言葉にヴィタリーは肩をすくめた。


「いっとき休ませていただきありがとうございました。宿へ移るので、どうかお気遣いなく」


 聖輝は深く頭を下げると、荷物を取りに二階へと上がっていった。アミュウはセドリックに向き直り、非難の声を上げる。


「ひどいわ、お父さん! 聖輝さんは私たちを守ろうとして傷を負ったのよ。今、ああやって立って歩くだけでもつらいはずよ。うちで休ませてあげるべきじゃないの」

「アミュウ」


 娘の名を呼ぶセドリックの声は震えていた。


「みっともないが、今、俺は冷静でいられない。ミカグラ先生にこれ以上の失礼を働かないためにも、この家にいてもらっちゃ困るんだ。分かってくれ」


 座り込んだまま、懇願とも受け取れるような弁明をするセドリックの動揺は、握ったこぶしに、丸まった背中に、震える脚にありありと現れていた。アミュウは、セドリックを説得することができないことを悟った。それならばせめてと、アミュウは聖輝を送っていくと申し出た。


「駄目だ。お前はここに残りなさい」


 セドリックは頑として動かなかった。ヴィタリーが自身の外套を手に取って言った。


「私が案内しましょう。プラザホテルは避難者でいっぱいです。どこか別の宿が空いていないか、ミカグラ先生と一緒に見てきましょう」

「その必要はありません。あてがあるので、大丈夫です」


 支度を整え二階から下りてきた聖輝が、ヴィタリーの申し出を断った。聖輝はもう一度深く頭を下げていとまを告げた。アミュウは、残っていたサンドイッチを包んで聖輝に持たせた。そのとき聖輝はアミュウに耳打ちした。


「『鳥の巣』へ移ります」


 ザ・バーズ・ネストB&Bのことだ。アミュウは頷き、玄関の外へ出て聖輝を見送った。オーバーを着込まずに出てきたアミュウを、冬の夜気が容赦なく包んだ。アミュウは両手で自身の二の腕を抱きながら、鉄格子の門の外まで出て、セントラルプラザへ消えていく聖輝の後ろ姿を見守った。

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