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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第六章 きくは我

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6-11.街道をゆく

 翌朝早くにオーベルジュ・レザロームを発った。

 早朝のジャスマン通りは閑散としていたが、坂の下の方から荷車が上がってくるのが見えた。牽いているのは牛だ。近付くにつれて、坂を下っていくアミュウたちにも荷物が見えた。山積みの花々だった。


「朝一番に咲き始めた花ばかりを集めて香水にするんですって」


 アミュウは何の気なしに、以前聞いた話を口にした。エミリがその話題を受け取った。


「日が出る前、花はいちばん強く香りを放つのよ。だから急いで摘んで、香りを閉じ込めるの」

「お詳しいんですね」


 聖輝が感嘆したように言うと、エミリは気まずそうにふにゃふにゃと笑って誤魔化した。エミリとドロテは似ていなかったが、そういう風に笑うと口元に微かにドロテの面影が匂いたつ。アミュウがエミリの顔をまじまじと見つめていると、エミリは化粧で彩った顔にパッと笑顔を咲かせた。垣間見えたドロテの面影はふっとかき消えた。


「さあ、早いところ街を出ないと。スタインウッドへ着くころには日が暮れちゃうわ」


 坂を下りるにしたがって、通りの両脇から店が少なくなり、代わりに民家や倉庫が増えてくる。坂道が終わるとすぐに街壁が住宅街と畑を区切っていて、門の向こうには真っすぐに街道が伸びていた。

 四人で街門を出ると、街道の左右には野菜畑が広がり、物置小屋が点在していた。

 以前この道を歩いたときの、身体の芯から凍えるような孤独が胸によみがえり、アミュウは思わず身震いした。ひとり街を離れ、花畑の中をどこまでも歩いた足は冷たく、痛かった。あのときアミュウは、このままカーター・タウンへ戻ることもできるのだと考えた。そうすることのできる自由は、つまり孤独と同義だった。かつてのエミリも、同じ思いで家族を捨て、ラ・ブリーズ・ドランジェを離れたのだろう。

 ところが今、アミュウの隣には当のエミリが、黒い毛皮のコートを揺らして歩いていた。目の前には聖輝の背中があり、やや遅れてイアンが歩いている。

 アミュウの口元から「ふふ」と笑みがこぼれた。


「なあに、思い出し笑い?」


 笑って問いかけるエミリに、アミュウは頷いた。


「ええ、ちょっと」


 イアンが不思議そうな顔をして振り返った。


「カーターさんも、そういう笑い方をするんですね」


 アミュウがぱっと赤くなってうつむくと、聖輝が声をあげて笑い、エミリもつられて笑った。イアンはポーカーフェイスを通そうとしているようだったが、口元がにやついていた。アミュウは頬を膨らませた。

 あらせいとうと水仙の花畑はいつの間にか過ぎ、一人で歩いたときには到底たどり着けそうもなかった大橋を、四人は通り過ぎていた。




 四人は川を越えてなお街道を南下する。徒歩での旅が続いているエミリとイアンを気遣い、頻繁に休憩を挟みながらの旅路だった。ラ・ブリーズ・ドランジェからスタインウッドまでは、三本の川を越えることとなる。そのうち二本目の川を渡ったところで、一行は昼食をとることにした。

 群生するエノコログサやイヌムギの枯草の途切れた、紫色のカタバミが地面を覆っているあたりに、アミュウたちはむしろを敷いて腰かけた。筵を通して地面の冷たさが足や尻に伝わってきたが、ちょうど雲間から日が差し、わずかながら温もりの感じられる頃合いだった。

 アミュウが買ってきたパンを瓢箪の水で飲み下して一息つくと、エミリは言った。


「こうしてお天気の日にみんなでご飯を囲んでいると、麦打ちを思い出すわね」

「あのときはありがとうございました」


 ぶっきらぼうなイアンがすかさず礼を述べたことに、アミュウは内心驚いた。ほんの数か月のうちに随分成長したものだ。しかし感心していることを本人に悟られるときっと拗ねるだろうから、アミュウは素知らぬ顔でパンを噛んでいた。木の椀にワインを注ぎながら聖輝が本音めいた感想を洩らす。


「それにしても、エミリさんとイアン君というのは、意外な組み合わせですね」

「この子がね、どうしてもアミュウさんに知らせなきゃって言ったのよ」


 エミリがポンとイアンの背中を叩くと、彼は気まずそうにうつむいた。


「イアン君が?」


 アミュウが目を丸くすると、イアンはぼそぼそと呟いた。


「だって……後で知ったら、後悔すると思ったから。だから……」


 イアンの言葉は尻すぼみとなったが、アミュウにはイアンの真剣な気持ちが痛いほど伝わってきた。しかし、それをどう受け止めてどう返したらよいのか、アミュウには判断がつかなかった。気にかけてくれてありがとうと言うべきなのか。街の外へ出るのは危険だと諭すべきなのか。――街の中にいてなお、危険な目に遭ったというのに?

 エミリが目を細めて言った。


「ジョンストンさんもオリバーさんも私も、もちろん止めましたよ。街の外にはけものがいないとも限らないし。でもね、イアン君が『後悔する』って言ったとき、本当に後悔するのは、アミュウさんじゃなくって、イアン君自身じゃないのかしらって、そう思ったのよ……男性陣は後片付けで忙しいし、なら私がついていってあげなくちゃ」


 エミリは再びイアンをポンポンと叩いた。今度は背中でなく、頭だった。子ども扱いが嫌だったのか、イアンは頭を振ってエミリの手を払いのけた。


「おうちが壊されたっていうけど、ジョンストンさんは今、どこにいるの?」

「……伯父のいる、本家に」


 アミュウの問いに、イアンは苦々しげに答えた。アミュウは「そう」と相槌を打って考えた。イアンとジョンストンの親子はタルコット本家と折り合いがあまり良くない。身を寄せるには気苦労も多いだろう。

 そのまま会話が途切れた。

 街道の西側には遠くデウス山脈が連なり、山裾の木々は雑木林となって手前の方まで迫っていた。東側は枯れ野となっていて、あちこちに木立の群れや灌木の茂みが見える。杖に乗って上空へ上がれば、ゆるやかな丘陵の向こうに海が見えるだろう。ときおり海の方から湿った風が吹いてきて、背後の林の中へほどけていく。そのたびにアミュウはキンバリーからもらったショールの前をかき合わせた。陽射しはあったが、気温は低かった。


「あたたまりますよ」


 聖輝がワインで満たした木の椀を差し出すが、アミュウは首を横に振った。聖輝は笑って言った。


「それもそうか、こんなところで眠くなっても困りますね」


 その言葉を聞いて、なぜかイアンが顔を赤らめた。

 エミリは、毛皮のコートに散らばった星のようなパンくずを手で払う。パンを多めに買ったので、クッペがいくらか余った。聖輝はそれらをまとめて紙に包もうとしたが、急に手を止めて雑木林の方を見た。その目は険しく、細められている。


「どうしたんですか」


 アミュウが問いかけると、聖輝は今しがた包もうとしていたクッペを拾い上げ、もう片方の手にワインの瓶を持って立ち上がった。


「妙な気配がします。気をつけて」


 アミュウは蓮飾りの杖を手許に引き寄せ立ち上がった。すぐにイアンも続く。エミリは全員の荷物を地面に下ろして筵をたたみ、眉を寄せて不安そうにあたりを見回した。

 枯れ野となっている東側に比べ、山のある西側は木々が邪魔で見通しが悪い。裸木となった広葉樹の合間に、ヤブ椿やモチノキといった常緑低木の葉が茂る。ゴジュウカラの柔らかなさえずりのほかに、聞こえる音はなかった。

 聖輝は雑木林に目を走らせている。アミュウも木々の奥を見ようと目を凝らす。イアンは枯れ野の方を警戒していた。

 落ち葉の擦れる音と同時に、それ(・・)は現れた。

 枯れ葉と同じ色の大蛇が、雑木林の林床を這って突如姿を現した。その体は、大人が腕を回せるかどうかというほどに太い。長さに至っては目測できない。


「アミュウさん、二人をお願いしますよ」


 聖輝が林に向かって躍り出る。アミュウはエミリとイアンを背にして、蓮飾りの杖を構えた。

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