6-9.慌ただしい出立
アミュウは八栄の介添えを振り切って城内を走り出した。聖輝のアミュウを呼ぶ声が聞こえる。前を歩いていたロサとカルミノを追い越して階段を転がるように降り、廊下からテラスへと抜けたところで、後ろから聖輝に腕を掴まれた。ハイヒールの足がもつれて転びそうになるのを、聖輝が引っ張り上げて支える。
「アミュウさん、落ち着いて!」
アミュウは噛みつかんばかりの剣幕で振り返った。
「落ち着いてなんかいられるわけがないでしょう! 帰郷を先延ばしにしてお姫様ごっこをしているうちに大型獣が現れたなんて、冗談じゃないわ!」
アミュウは髪を留めていた花飾りをむしり取り、遅れてやってきた八栄に突き返した。編み込みがほつれ、何本かの髪の毛が引きちぎれたが、構いやしなかった。
「今すぐカーター・タウンに帰ります! お願い、フォブールのソンブルイユ駅まで馬車を出して!」
八栄は突き出された髪飾りを受け取りもせず、太い眉を集めてわなわなと震えていた。その途端、アミュウの胸に苦い後悔が広がった。この激情をぶつける相手は、少なくとも八栄ではない。アミュウは突き出した手を己の胸へ持って行って、花飾りをぎゅっと握りしめた。
うすぼんやりとした曇り空の下、テラスは無風で、階上の広場で怒鳴りつける上官の声がやけに遠く感じられた。
聖輝が低く落ち着いた声でアミュウをたしなめる。
「焦っても仕方がありません、アミュウさん。その格好のままで行くわけにはいかないでしょう。私もカーター・タウンへ同行しましょう。ですが、その前にいったん屋敷へ戻ります。ジークの容態も見ておかなければなりません」
八栄が城の門へと走り、待たせてある貸し馬車を呼びに行った。遅れて糺がやってくると、聖輝はようやくアミュウの腕を放した。糺は落ち着きはらった声で告げる。
「ベランジェ大臣によると、カーター・タウン方面の交通は既に滞りはじめているようだ」
糺に続いて聖輝も早足でテラスを横切り、階段を下がって行った。アミュウはぐしゃぐしゃになった髪を直しもせずに、とぼとぼと二人の後を追って階段を降りていった。
苦労してピネードの山道を上り、やっとの思いで御神楽邸へとたどり着くと、玄関の三和土に見慣れない靴が揃っていた。女性ものの編み上げフラットシューズと、もう一足、こちらは男性もののように見えるが、それにしては小さい。誰のものだろうかと訝っていると、屋敷の奥からヒコジが駆けてきた。
「お帰りなさいませ。あの、アミュウさんにお客様が」
「私?」
アミュウに来客の心当たりは皆無だった。アミュウが御神楽邸に身を寄せていることを知っている人物は限られている。マリー=ルイーズは今の今まで感謝状授与式に参加していたし、アルフォンスの足が入るような靴ではない。考えあぐねるうちにダミアン・カーターの顔が思い浮かんだが、彼の足はこんなに小さかっただろうか。ダミアンの足をまじまじと見たことがないので、アミュウには分からなかった。
ヒコジを追って客間へ向かおうとするのを、八栄が引きとめた。
「髪を簡単に整えましょう」
八栄は衣裳部屋へアミュウを押しこむと、編み込みがほつれてシニヨンの崩れていたアミュウの髪を手早くまとめ直し、ドレスに見劣りのしない程度に整えた。そしてアミュウを客間へと連れて行った。
「お待たせしました」
八栄が襖を開けると、座卓の前に座っていた客人たちは弾かれたようにアミュウの方を見て、感嘆の声を洩らした。
「アミュウさん! まあ、きれいだこと」
薔薇色の旅装に身を包んだ婦人を見て、アミュウはあっと声を上げた。ミルクティーのように薄いブラウンの髪に、年齢を重ねてなお華やかな顔立ち。藤色のアイシャドウの下の目はよく光って丸く、アミュウをまっすぐに見つめている。キャンデレ・スクエアのスナック「カトレヤ」の女主人、エミリ・マルセルだった。
彼女の手前には、厚いキルトの上着を着込んだ少年イアンが座っていた。彼はローブ・モンタントを着たままのアミュウを見て言葉を失っていたが、やがて口を開いた。
「……どうも、カーターさん」
その不愛想な口調が懐かしくて、アミュウは郷愁に身体を丸ごともっていかれそうになったが、どうにか踏みとどまり、座卓を挟んで彼らの正面に座り込んだ。
「エミリさんにイアンくん。どうして、こんなところまで? ……ううん、まずは無事でよかったわ。カーター・タウンが大型獣に襲われたって、さっき聞いたばかりなの。街はどんな様子なんですか?」
堰を切ったように質問を重ねるアミュウに、エミリとイアンは気まずそうに顔を見合わせた挙句、イアンはうつむいてしまった。エミリの灰色の目はしばらく左右に揺れていたが、やがて彼女は意を決したように口を開いた。
「落ち着いて聞いてちょうだいね。メイさんが亡くなったわ」
襖が開き、聖輝とヒコジが入ってきた。ヒコジは昼食の支度ができたと言って、エミリとイアンを居間へと連れて行ってしまった。聖輝は客間の入口に立ったまま、アミュウに淡々と告げた。
「ジークの具合は悪くありません。八栄さんに処置の仕方を教えておいたので、今日にも出立できます」
「……そう」
アミュウは立ち上がろうとしたが、床が傾いでいるかのようにぐらつき、ずいぶんと緩慢な動きになってしまった。聖輝は眉を寄せた。
「大丈夫ですか? 出立は明日にしましょうか」
「いえ、すぐに行くわ。着替えてきます」
アミュウはそのまま衣裳部屋へ戻り、着るときには八栄や深輝と大騒ぎした衣装を、ひとりで脱いだ。深輝が取り付けたピンやクリップを全て外してひとまとめにし、抜け殻のようなドレスを衣桁にかける。バッスルも取り外してしまうと、姿見に映る自分の姿は、もとどおり痩せっぽちだった。アミュウはいつもの綿のワンピースを着て、いつもの青いスモックを被った。顔を洗って化粧を落とすと、アミュウは自分がずぶ濡れの猫にでもなったような気分になった。痩せっぽちのみすぼらしい猫。
エミリの話によると、四日前、巨大な鹿がカーター・タウンの南の森から姿を現し、耕作地帯を荒らして街の南部へ侵入してきたとのことだった。そのとき防衛線を張ったのが猟友会の男たちだったが、何しろ鹿は巨体なので、全く歯が立たなかったという。駆け付けたメイ・キテラが杖に乗って宙を飛び、鹿を攪乱しながら結界を張ったが、怯えて暴れる鹿の角が当たり、空中から地面へと投げ出されてしまった。結界により猟友会連中は鹿の息の根を止めることに成功したが、当たり所の悪かったメイ・キテラはそのまま息を引き取った。
なお、この騒動によりタルコット家をはじめ、南部に居を構える少なくない数の農家が家を壊され、その倍以上の農地が荒らされたらしい。
身支度を終えたアミュウは、ジークフリートの部屋の襖をそっと開けた。ジークフリートは布団に横たわっていたが、眠ってはいなかった。彼は呻きながら体位を変え、アミュウの方を見た。
「聖輝から大体の事情は聞いた。早く先生のところへ行ってやれよ」
「ええ……」
実のところ、アミュウはすっかり動転していて、ジークフリートに声をかけることさえ忘れかけていたのだ。彼にあてがわれた部屋の前を通ろうとしたとき、一言話しておかなければと思い至り、こうして帰郷を告げに来たのだ。アミュウの頭は真っ白で、ジークフリートにかけるべき言葉もろくに浮かばなかった。
そのときアミュウは、寝ているジークフリートの寝間着の袷から、見覚えのあるメダルが覗いているのに気が付いた。
「それ、ハシバミのメダルね。まだ身に着けていてくれたのね」
「あ? ああ、アミュウが作ってくれたんだろ。これ」
アミュウは頷いて目を細めた。カーター・タウンに漂着したジークフリートが故郷を水害で失ったと聞いて、アミュウが彼のために拵えたものだ。
「水難除けのお守りだったんだけど……刃までは防いでくれなかったわね」
「いや、ちゃんと御利益ならあンぞ。アミュウの小屋の近くでザッカリーニとやりあったとき、ガリカの呼び出した大水から俺を守ってくれた。あのときメダルがふわっとあったかくなったんだ。だから、こいつはれっきとしたお守りだ」
アミュウは、カルミノたちと一戦まじえたときのことを思い出した。確かにロサは精霊魔術で鉄砲水を呼んだが、あのとき標的となっていたはずのジークフリートは間一髪で水流を避け、命中を免れたのだった。
ハシバミのメダルの魔術は古い魔術で、メイ・キテラから教わったものだ。彼女の教えがジークフリートを救ったのかもしれないと思うと、不覚にも涙が湧いてきそうだった。
アミュウは根性で涙を引っ込め、ジークフリートに別れを告げた。
「行ってくるわ。その傷、早く治してね」
ジークフリートは返事の代わりにニッと笑って見せた。久しぶりに見る笑顔だった。
居間の襖は開いていた。中から少年たちの声が聞こえてくる。
「それでお前ン家、こわれちまったのか」
「ああ」
「家族は?」
「父さんはたまたま外にいたから無事だった」
「おっかさんは?」
「……いない。おれがまだ小さいときに死んじまった」
「……そうか……」
それきり、イアンとヒコジの会話は途切れた。アミュウは客間に足を踏み入れた。
「それじゃ、カーター・タウンに行ってきます。わざわざ報せに来てくれて、ありがとうございました」
茶を啜っていたエミリが顔を上げた。
「あら、私たちも一緒に行くわよ?」
「えっ……ええっ⁉」
驚くアミュウの後ろに、背高の聖輝がぬっと姿を現した。
「お言葉ですが、交通網が麻痺するのも時間の問題でしょう。馬車で帰るというわけにはいかないかもしれませんよ」
「そりゃあ、馬車なんてとうに満車でしょうよ。だから私たち、ラ・ブリーズ・ドランジェまで歩いてきたんですもの」
エミリはカラカラと笑って、カラスのように真っ黒な毛皮のコートを着込んだ。見れば、イアンも外套を来て鳥打帽を被っている。
「それで思ったより時間がかかっちゃったんだけどね。だいじょうぶ、この子、けっこう足腰強いわよ。もちろん私もね」
「でも、とんぼ返りじゃ大変でしょう。それに、危ないんじゃ……」
アミュウが不安の声を上げると、イアンがぼそぼそと言い返した。
「危ないかどうかの話をするなら、ここに来るだけでけっこう危なかったんだ。カーターさんに知らせなきゃって言ったら、父さんは反対した」
「そういうこと。私がイアン君の面倒をちゃんと見るからって言って、ようやくお許しが出たのよ。でも実際、いつどこで大型獣が出るか分からないし、できることならあなたたちと一緒に帰りたいのよ。今を逃したら、私たち、カーター・タウンに戻るタイミングがなくなっちゃうわ」
エミリはそう言ってアミュウにウインクを投げて寄越した。アミュウは困って聖輝の方を振り返った。
「……どうしましょうか?」
「確かに、これからどんどん交通が詰まってくるでしょうから、今一緒に行かなければ、カーター・タウンへ帰れるようになるのは随分先になってしまうでしょうね」
「ねっ。お願い」
エミリは両手を合わせていたずらっぽくアミュウを見た。その脇では、イアンが出発準備万端の格好で旅行鞄を抱えていた。ヒコジはすでに昼食の膳を下げている。
アミュウは了承せざるを得なかった。




