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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第六章 きくは我

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6-1.激動の夜は明けて【挿絵】

挿絵(By みてみん)

 薄明の海を漂う小舟のように、アミュウの意識はまどろみに揺らいでいた。さざなみの合間をたゆたうもやい綱を取ろうとして、アミュウは隣に眠っているナタリアの腕を掴んだ。途端に暁闇ぎょうあんの海は消え失せ、横向きに寝ていたアミュウの目に真っ白い敷布が映った。かすかな柑橘の香りを捉えた気がして、アミュウはまた目を閉じた。


(そうだ、ここはラ・ブリーズ・ドランジェだった。なんて言ったっけ……あのぼったくりの宿……)


「お目覚めですか」


 かけられた声はナタリアのものではなかった。アミュウの意識は再び覚醒し、やけに重たい頭を反対側へ向けた。ヤサカが心配そうにこちらを見ていた。柑橘の香りは夢の彼方へ消え、冷たく湿った冬のにおいが鼻をついた。


 アミュウが握っていたのはヤサカの手首だった。寝間着姿のヤサカはアミュウの隣に伸べた布団から半身を起こし、じっとアミュウを観察していた。髪を下ろしたヤサカは、昼間よりも老けて見える。アミュウはそっと手を離した。


「いかがです、体調は? どこか変わったところは?」


 ヤサカはまるで子どもに対するかのように、布団に横たわるアミュウの額に手を当てた。ヤサカの腕ごしに、眼球だけを動かしてアミュウは周囲を見わたした。ここはアミュウにあてがわれた客室で、ヤサカはアミュウの布団の隣にもう一組の布団を並べて寝そべっているのだった。雨戸の隙間からは弱々しい光がぼうっと見える。どうやら明け方らしい。

 アミュウはヤサカに心配しないでと言おうとしたが、ろれつが回らず、うまく言えなかった。ヤサカはネコヤナギの芽のような眉を集めて言った。


「なにか飲み物をお持ちしましょうね」


 そして彼女は枕元にたたんであった半纏はんてんを着込み、部屋を出ていった。

 話し相手を失ったアミュウの目蓋は、ふたたび閉じた。身体が異様に重く、目を開けていられないし、頭の中には霧が立ち込めていて、思考がまとまらない。これほど体調が悪いのは何故か――ぼんやりと考えたが、思い当たるところはなかった。

 目を閉じたまま、アミュウは微睡まどろみの海へと身を投じた。そのままどれほど経ったか――アミュウにとってはほんの一瞬のうちに、ヤサカが戻ってきた。

 ヤサカは聖輝を連れていた。彼の顔を見やった瞬間に、記憶が生々しくよみがえってきた。


 ナタリアが、ナタリアでなくなってしまったのだ。アミュウは身体を起こそうとして、かなわず、力無く枕に頭を預けた。ヤサカがアミュウの口元に吸い飲みをあてがった。口中に流れ込んだ白湯を飲みこむと、すこしは気分がましになった。

 部屋着姿の聖輝が、部屋の入口に立ったまま言った。


「鎮静剤の影響がまだ残っていますね」

「……ナターシャは?」


 うまく発音できなかったが、聖輝に趣旨は伝わったようだ。彼は顔を曇らせて答えた。


「どこへ行ったか分かりません。ザッカリーニも逃げましたが、追う余裕はありませんでした。ジークの背中の傷は深くなかったが、それでも動いていいようなしろものではありません。縫合が済んで、さっきようやく眠ったところです」

「そう……」


 聖輝に向けていた視線を天井に戻し、アミュウは重い目蓋を閉じた。ヤサカと聖輝が肩をすくめるような気配を感じたが、それ以上目を開けていられなかった。アミュウの意識は奈落を落ちていった。




 次にアミュウが目を覚ましたときには、四肢の重さはすっかり抜けていたが、代わりに下腹がずんと重く痛んだ。アミュウはむくりと身体を起こし、ぐるりと室内を見渡した。隣に寝ていたはずのヤサカの布団はない。それもそのはずで、雨戸の開け放たれた部屋の中はとうに明るい。障子を透かして部屋に入ってくる光は、随分と高いところから降ってくるように見える。

 アミュウは下履きの汚れを確かめ、陰鬱なため息をひとつつくと、身支度を整えた。幸いなことに寝具は汚れていなかった。

 炊事場へ行こうと汚れた衣類を抱えて部屋を出ると、思いがけず深輝と鉢合わせた。


「アミュウさん、もう起き上がれるの? ――あ、」


 深輝はアミュウの抱える汚れものに目を留めた。アミュウは思わず身体をひねって衣類を隠した。汚れた部分が見えないようにくるみこんであるが、じろじろと見られて気持ちのよいものではない。

 深輝はふっと表情を緩めて、炊事場とは反対側の廊下の奥を指した。


「炊事場にはヒコジくんがいる。あっちの裏口から外へ出れば、井戸で洗濯ができるわ」


 突然の助言が意外で、アミュウは返事をするのも忘れて深輝を見返した。


「石鹸を取ってくるから、先に行っていてね」


 そう言うと深輝は炊事場の方へ行ってしまった。

 反対側の廊下を進むと、突き当たりを曲がったところに古びた板戸があった。恐る恐る戸を引くと、御神楽邸の裏手、山側へ出た。沓脱石くつぬぎいしには大小の下駄が置いてあった。アミュウは小さい方の下駄を選び、はじめ靴下を履いたまま足を差し入れてみたが、歩きにくいことこの上ない。靴下を脱いで廊下の隅に置き、裸足で下駄を履いた。既に気温は上がっていたが、それでも木の冷たさが足裏を刺す。

 井戸はすぐそこにあって、アミュウは迷わず水場に近付いた。「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」にあった井戸と同じくらい小さな、私設の井戸だ。釣瓶つるべを落とすと豊かな水の音が聞こえた。引き上げれば澄んだ山の水がしたたる。

 井戸端にころがっていた桶に水を汲んだところで、裏戸から深輝がやってきた。


「困ったことがあったらなんでも言ってね」


 深輝はアミュウに石鹸皿を手渡すと、きびすを返して裏戸からまた屋内へと戻っていった。深輝が持ってきた石鹸で汚れものを洗うと、布地は白さを取り戻した。

 屋敷の表側では、ちょうどヒコジが物干しを終えたところだった。ヒコジが正面玄関から邸内へ戻って行くのを見届けてから、アミュウは洗濯紐の空いたスペースに、洗い終えたばかりの寝間着に隠れるように下履きを干した。洗濯ばさみは、適当に拝借した。




 裏口から屋内へ戻り、アミュウはすっかり冷えた身体を温めようと居間の襖を開いた。囲炉裏いろりの火は穏やかな熾火おきびとなっていて、アミュウはほっとして身を寄せ座り込んだ。

 火の明滅に、啓枢機卿の刀を手にしたナタリアがアモローソ王女へと変貌していく様が、不意に重なって見えた。アミュウは首を振って、抱えた膝の間に顔をうずめた。夢のように思われたが、夢ではなかった。

 やがてアミュウは窓の外へ視線を移した。寒牡丹と千両の紅が目を引く。よく晴れた今日は、庭の雪はすっかり消えて、溶けた霜の水分がしっとりと風景を濡らしていた。この天気なら、洗濯物もよく乾くだろう。


「アミュウさん、いるんでしょう」


 襖の外から深輝の呼ぶ声が聞こえた。アミュウが返事をすると、すっと小気味よい音を立てて襖が開いた。


「具合はどう? 食べられそう?」


 深輝が盆を抱えて居間に入ってきた。盆には湯気立つ茶碗と湯呑が、確かな重みをもって鎮座していた。


「……それは」

「お粥よ。お茶もどうぞ」


 そう言って深輝は食卓に茶碗と湯呑を載せた。茶碗の柔らかそうな米に、刻まれた漬物の彩りが映えた。アミュウは食卓へいざり寄り、粥と深輝の顔を見比べた。


「聖輝さんが、寝込んだときにはお姉さんがホットワインを作ってくれたって言ってました。お料理上手だとも」

「嫌だわ、お粥なんて料理のうちに入らないでしょう」


 深輝はあっけらかんと笑い飛ばした。アミュウは食前の祈りもそこそこに、匙で粥をすくい、口にした。口中に広がる熱とあっさりとした旨味が心地よかった。次にアミュウは、粥と合わせて漬物も口に放り込んだ。塩気が舌に染み渡った。アミュウはゆっくりと、しかし休まずに、粥を口に運んだ。そんなアミュウの様子を、深輝はにこにこと見ていた。


「必要なものがあったら遠慮せず言ってね。どうせ、今の私には必要ないし」


 深輝の言葉を聞いて、アミュウは粥を飲みこんでから口を開いた。


「妊娠されてると聞きました。おめでとうございます」


 アミュウは本心から祝いの言葉を述べたが、深輝は微妙に表情を曇らせた。


「ありがとう。聖輝から聞いたの?」

「え? え、ええ、まぁ……」


 深輝の妊娠についてはジャレッドから聞いたのだったが、アミュウはなんとなく言い出せずに、曖昧に相槌を打った。

 気まずい気分で粥を食べ終えたところで、襖の向こうから聖輝の声がした。


「アミュウさん? 起きているのですか?」

第六章「きくは我」スタートしました!

長期間の連載休止期間中、お待ちいただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

どうぞ物語の続きをお楽しみください。

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