5-30.百八十名の乗客を連れて
アミュウは空気抵抗を最小限に抑えるべく身をかがめ、全速力で列車を目指した。寒風が耳を切り、ひりついている。眼下の粗末な家々が溶け合いながら後方へ怒涛のように流れていった。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
背後からがなりつける声に、滑翔するアミュウは目線だけで振り向いた。じたばたともがくガチョウの首根っこを押さえつけ、脚で胴体を挟み馬乗りになって飛行するロサの姿が見えた。
魔術師の飛行具は杖ばかりではない。古くはホウキや生き物にまたがって空を駆けたと言われている。市場で売られていたガチョウをくすねてきたのか、ロサはすっかり脅えきったガチョウの背にまたがり、本来飛べないはずの翼に魔力を通して飛行していた。
ロサの黒のロングドレスのスリットからスカートが捲れ上がり、ガーターまでもが露わになっているが、ディムーザン邸で彼女の脚線美を妬んだアミュウも、今はそんなものを気にする余裕がなかった。アミュウは蓮飾りの杖に魔力を注ぎ込み、さらに加速した。杖は魔力を帯びた光の粒子をまき散らし、砂鉄が磁石に引き付けられるようにまっすぐ列車へと向かっていく。
足元を見れば、既にフォブールの家々のトタン屋根は殆ど姿を消し、小規模の畑や農作業のための小屋が点在する。線路は前方右手の丘の縁をなぞるように弧を描き、林の起伏に隠れた海岸方面へと伸びている。列車は丘の手前で停車し、レール上に鎮座する大猫と睨み合っていた。
アミュウはスピードを殺しきれないまま、車両の屋根に転がり落ちた。土埃でオーバーが汚れる。体勢を立て直すのももどかしく振り返ると、後ろの車両上でロサが四つん這いになって、暴れるガチョウを押さえ込んでいた。がなり立てるガチョウの声と客車から聞こえてくる喧噪が、アミュウの混乱を助長する。
「ガリカ、どうしてついてくるの」
「逃がさないわよ、ペテン師」
「あの猫が目に入らないの⁉ 大型獣は人を襲うわ。先にあれをなんとかしないと」
アミュウが指差した先で、猫が腰を上げて四つ足で立ち上がった。背を丸め、尻尾をピンと立て、ひげが静電気を帯びたようにびりびりと震えている。歯を剥いた口から覗く牙は、数日前に博物館で見た標本と同じく、大人の腕ほどの長さがあった。真昼の空の下、瞳孔はカラスノエンドウの莢のように黒く細く尖り、視線をアミュウたちに定めているように見えた。
アミュウはたじろぎ、猫から目が放せないままつぶやいた。
「ひょっとして、怒ってる?」
「そりゃあそうでしょうよ。あんたもあたしも降って湧いてきたものだから、バッチバチに警戒してるあいつを刺激しまくったでしょうね」
「うそ」
ロサは羽ばたくガチョウを両脚で挟みこんだまま膝立ちになり、右手をついと前に差し出し大猫に向けた。内側から照るような燐光が髪を透き、薔薇色に輝いて広がる。ロサの身体全体から魔力が噴出し渦を巻いている。ガチョウは急に大人しくなり、長い首を下げてグゥと鳴いた。
ロサは深く息を吸い込むと、低く早口で呪文を唱えた。
火星は磨羯宮にありて南の空に輝けり。
我が魂は星幽界を飛翔し勝利へと至りぬ。
来たれサラマンデル、さらば我が力を与えん。
ミカエルの剣は炎を纏いて彼のものを焼く尽くせ。
我、火の神の御名を七度呼ばん。
イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト!
アミュウは反射的に伏せて頭を抱えた。ロサの右手を炎が包み、アミュウの頭上を、火の粉を散らす炎の渦が通り過ぎていく――はずだった。
熱風はいつまで経ってもやってこなかった。恐る恐る目を開けたアミュウは、伏せたまま正面の大猫の方を見遣った。毛を逆立て、歯を剥いてグルグルと唸る猫のヒゲの先っちょだけが焦げて、線香のようなか細い煙が上がっている。火の手はまったく上がっていない。
「あ……あら?」
背後でロサが間抜けな声をあげ、右手を握ったり開いたりしながら、自らの手と大猫とを見比べている。アミュウは小さな声で言った。
「一応確認するけど……ふざけているの?」
「そんなわけないでしょう!」
ロサが怒声を飛ばすと同時に、猫が背をたわめたかと思うと、しなる木の枝のような動きで前方に飛び出してきた。結界を張ろうとアミュウは蓮飾りの杖を突き出すが、思いがけず全身に前方への負荷がかかり、つんのめって再び屋根に伏す格好となった。旅客たちのひときわ大きなどよめきが足元から聞こえる。わけの分からないまま頭を振って顔を上げると、周囲の景色が前方へ流れていた。列車が後進――逆機を開始したのだ。
当ての外れた猫はすぐに体勢を立て直し、髭を逆立てて再び跳躍してきた。アミュウは前傾姿勢で駆け出し第二車両の集霊車へと飛び移り、今度こそ蓮飾りの杖を真っすぐに突き出した。
「無限光は王冠より王国へ、稲妻よ、十にして無限なるセフィロトを照らせ!」
光の奔流が無数の大蛇のように現れ、線路前方へと猫を押し流す。猫は横ざまに転がっていった。後進していた車両は急ブレーキで大きく揺れる。アミュウはたまらず身をかがめた。
「その声――まさかアミュウか⁉」
前方から聞き慣れた声がして、アミュウは先頭の機関車両を見た。機関室の扉から、アルフォンスが身を乗り出している。
「アル先生!」
「逃げるんだ、アミュウ!」
アルフォンスは油まみれの軍手を嵌めた手を振り回し、アミュウがそれまで聞いたこともないような大声で叫んだ。
「この列車はどうするんですか」
アミュウも今まで師に向けたことのないような大声で言い返すと、アルフォンスは、先ほどの光に目を焼かれて動けないでいる猫を指差して言った。
「アミュウのお陰であいつが軌道上からどいてくれた。この隙に全速力で推進する」
機関室の奥から運転士の悲鳴じみた声が聞こえてきた。
「学者先生、そんな無茶苦茶な! また逆転機の調整をするんですかい」
「口じゃなくて手を動かしてください。速やかに発進しますよ」
アルフォンスは運転士に向かってにべもしゃしゃりもなく告げる。運転士は再び「ひぃ」と悲鳴を上げながら前進準備を始めた。
「ねえ、ここ、四大元素のバランスがおかしくない? なんだか頭がグラグラするんだけど」
いつの間にかアミュウのすぐ後ろまで来ていたロサが、片手で額を押さえながら不機嫌そうな顔でアルフォンスに訊ねる。彼女の抱えるガチョウは恐怖のあまり硬直し、すっかり大人しくなっていた。
「そりゃあそうだよ。精霊機関は火の精霊と水の精霊の力で動く。これだけ大きな鉄の塊を動かしてるんだ、ここら一帯の火と水の元素はすっからかんさ。」
ロサの顔がすぅっと青ざめた。彼女の動揺が伝播したのか、再びガチョウがガァガァと騒ぎ始める。アルフォンスは説明を続ける。
「さっき火の精霊魔術を使った魔術師だね。集霊車の技師たちの力を借りれば、一回分くらいの精霊魔術のエネルギーになるかもしれない。けれどもこの列車は数時間、動けなくなるだろう。無駄打ちになったら、乗客もろとも僕らはパーだ」
ロサの方をちらりと見やったアミュウが、アルフォンスに訊ねる。
「猫はすぐにまた動き始めるわ。たとえ列車を動かしたとしても、追いかけてくるかもしれない」
「こいつは速い。間違いなく逃げ切れるよ」
「猫が街を襲ったら?」
アミュウが問いを重ねると、頭を押さえたままのロサが答えた。
「街壁までは突破できないでしょうよ。すぐに軍警やら衛兵やらがソンブルイユ中の大砲を集めて、あいつを丸焼きにするわ」
ロサの物言いに、アミュウは引っかかりを覚えた。つい先ほどアミュウのことを親戚だと言ったダミアンの顔が思い浮かぶ。アミュウはロサに問いかけた。
「壁外街区は……?」
「壁の外の連中までは面倒見切れないわね」
ロサはさらりと言った。アミュウは縋るように前方のアルフォンスを見返す。アルフォンスは目をぎゅっと瞑り、伸びかけた髭だらけの顎を撫でた。
「発進準備が整いましたぜ、先生」
運転士が声を上げる。アルフォンスは頷くと、機関室の乗降口からひらりとバラストの上へ降りた。運転士が慌てて身を乗り出す。
「学者先生⁉」
「僕も精霊魔術師の端くれだ。足留めくらいはできるさ。アミュウに、そこの火の精霊魔術師のお姉さん。いつまでも屋根の上じゃ危ないから大人しく客車に下りようね」
アミュウは首を横に振った。
「駄目よ、先生! 一人じゃ危険だわ」
猫が唸り声を上げながら顔を上げ、丸めていた尻尾をピンと空に突き立てた。アルフォンスは軍手を脱ぎながら残念そうに言った。
「時間切れかぁ。二人とも、しっかり捕まって。振り落とされないでおくれよ」
アルフォンスは脱いで丸まったままの軍手を運転士へ投げて寄越し、両の手を組んで大きく伸びをすると、振り向きざまに運転士に告げた。
「さあ、百八十名のお客さんを連れて逃げ延びてくれよ。行け! 全速前進だ‼」




