5-29.棒に当たる
アルフォンスたちは中央広場で馬車鉄道を乗換え、ブールヴァールを南下していった。広場からフォブールまでは三十分ほどかかる。アミュウは列車を追いかけて、すれ違う人の波をかきわけながら進んで行った。いくら速度の遅い馬車鉄道とはいえ、混雑する中、長い距離を追いかけるのはなかなか骨で、間もなく息が上がってきた。
停留所に停まる車体を物陰から眺めて息を整えながら、アミュウは交通規則の飛行制限を恨んだ。飛んでしまえば追跡は楽になるが、街中に配備された衛兵や軍警に捕まるのが落ちだろう。アミュウは魔術学校に在籍していた頃から、なぜ王都で飛んではいけないのか疑問に思っていたが、昨日王城に足を踏み入れてみて初めてその意図が分かった。鉄壁の守備を誇る軍都ソンブルイユも、空からの襲撃は想定していない。まだ各地の空を昔ながらの魔術師が飛び回っていたころ、王政側にとって彼らの存在は邪魔でしかなかっただろう。だから王政は魔術師の飛行を禁止したのだ。空を飛ぶ魔術師の少なくなった今もなお、ルールのみが残っているというわけだ。
疲労で重くなった足を引きずって車両を追い続け、街門をくぐり、アミュウは再びフォブールへとやってきた。
駅前広場の市場は先日よりもずっと規模を増し、ちょうど昼時の今、パンや総菜を売りさばく露店の前には、フォブールの住人だけでなく、精霊鉄道を利用する旅客たちも列をなして群がっている。市には食料品のほか、衣類や雑貨、燃料など、ありとあらゆる生活用品が売られている。端のほうでは鶏やガチョウ、番犬やネズミ捕りの猫、果ては繁殖用の伝書鳩など、生きたままの鳥獣まで売買されていた。
アルフォンスたちは混雑した市場を突っ切って駅へ向かっていた。距離を詰めようと足を速めるが、背の低いアミュウはあっという間にアルフォンスたちの姿を見失ってしまった。焦ったアミュウは人混みをかき分け前方へと進んでいくうち、誰かの足を思い切り踏んだ。
「痛っ!」
「ごめんなさい」
女の悲鳴が耳をつんざき、アミュウは相手も見ずに反射的に頭を下げて謝った。目に入ったのは、エナメルの靴のつやつやとした爪先。恐る恐る顔を上げると、黒いフードの奥から冷ややかな目がアミュウを見下ろしていた。切れ長の目に収まる瞳は、血潮の透けるような深い鳶色。すらりと伸びた上背は並みの男を軽く抜いている。女がルージュの唇を引き結び、鬱陶しげにフードを脱ぐと、切り揃えられた薄いブラウンの髪が現れてさらりと揺れた。ほんのりと薔薇色がかった直毛は、少しも乱れがない。背が高いので、頭が随分と小さく見える――ロサ・ガリカだった。
彼女を認識するや否や、即座にアミュウは回れ右をして脱兎のごとく逃げ出した。が、すぐに後ろからショールを引っ張られてたまらず尻餅をついた。周りの買い物客たちからの驚きと哀れみの入り混じった視線を受けながら、アミュウは既視感に目眩を感じていた。
「あたしの足を踏んづけるなんて、いい度胸してるじゃないの」
頬を引きつらせたロサがアミュウの胸ぐらを掴んで食ってかかった。アミュウの足は宙に浮かばんばかりで、細いとまでは言えずとも、さほど筋肉がついているようには見えないロサの優美な腕のどこにそんな力があるのか、アミュウは不思議に思った。
「あんたのこと、はじめから気に入らなかったのよ。似非魔術しか使えないペテン師が。目障りなのよ、いつまでもあたしの視界でウロチョロしないで!」
「別にあなたを邪魔するつもりなんてないわ、放してよ」
ロサはゴミでも捨てるかのようにアミュウを放り投げた。再び尻餅をついたアミュウはすぐに立ち上がり、周囲のどよめきをものともせず、ロサを睨みつけた。
つい先ほどまであんなに混雑していたのに、買い物客はアミュウたちを避けるように退いていていて、ちょっとした空き地になっていた。市はその辺りだけ妙に静まり返り、かえってひそひそ声が際立った。
――なあに、喧嘩?
――女同士で、みっともないねぇ。
――良い年して、女の子をいじめて恥ずかしくないのかね。
「誰がオバサンよ! 先にあたしの足を踏んだのはあっちなんだからね‼」
誰もオバサンなどと言っていないのに、ロサが野次馬に唾を飛ばしてどやしつけた。すると反対側から聞き覚えのある声がした。
「あれ? アミュウじゃないか。どうしたの、なんの騒ぎかい?」
衆人の中から進み出たのは、ナタリアの再従兄、ダミアン・カーターだった。彼は海老茶の外套に同じ色の鳥打帽を合わせていたが、上等そうなダブルの外套に引き換え、はしばみ色の癖毛を包む帽子はいかにも安物といった風合いで、ちぐはぐな印象を与えた。ダミアンは愛想のよい笑顔を浮かべながらさらに一歩前へ出て、ロサに向かってそのちゃちな帽子を取ってみせた。
「どうなさいましたか、ご婦人。僕の親戚が何か無礼を働いたなら、代わりに謝罪します」
(……親戚? 私が?)
アミュウは心底驚いて目をしばたたかせた。よりにもよってこんなところでダミアンと再会したことも驚きの種だが、以前もフォブールで会ったことを思えば、べつに不思議でもなんでもない。それよりも、彼がアミュウのことを「僕の親戚」と言ったことに驚いたのだった。少なくともアミュウとしては、ダミアンのことを「ナタリアの再従兄」と認識しており、自身の親戚であると捉えたことは一度もない。
「親戚ィ? このペテン師のォ?」
ロサは身体を腰から思い切り傾げてダミアンを睨め上げる。肝の据わったもので、ダミアンは動じずにアミュウのすぐそばまでやってきて言った。
「はい。しゃしゃり出てすみません。何やら揉めているようでしたので」
ダミアンの頭のてっぺんから爪先までじっくり見分してから、ロサはアミュウに言い放った。
「御神楽の坊やの次は親戚のおにいちゃん? ああ、エヴァンズのところでは赤毛の傭兵と一緒にいたんだったっけ。良い御身分ね。誰かの後ろに隠れて、守ってもらえて」
ゼリー菓子を匙で掬うように、その言葉はたやすくアミュウの胸を抉った。
ロサの言葉は正しい。アミュウはいつだって誰かに守られてばかりだった。カーター・タウンでも、スタインウッドでも。ラ・ブリーズ・ドランジェでディムーザン邸へ連れていかれたときでさえ、無事に宿へ戻れたのは、舌端火を吐くアミュウばかりの功というわけではなかった。マリー=ルイーズの信頼が得られたのは、ピッチがナタリアに懐いていたからだ。
(だからこそ、何がなんでもナターシャだけは守ろうと思っていたのに……)
そしてアルフォンスは、アミュウの知らないうちに、カーター・タウンから遠く離れたこの王都でアミュウをかばってくれていたらしい。そこまで思い至って、アミュウはフォブールまで来た目的を思い出した。
(そうだ、アル先生! 早くしないと列車が出ちゃう)
アミュウは市場の向こうの駅舎の時計を見ようとつま先立ちになったが、人混みが邪魔で見えない。焦るアミュウの腕をダミアンが小突いた。
「ねえアミュウ。こちらのご婦人とは知り合いなのかい?」
「知り合いどころか、私の小屋を焼いた張本人よ」
アミュウの答えにダミアンは目を丸くした。
「えっ? 何――小屋を焼く? え?」
ダミアンが狼狽えるのはもっともで、ロサがアミュウの小屋を焼いたのはダミアンがカーター・タウンを出奔した後のことだった。彼が知らないのも無理からぬ話だが、その経緯を詳しく語って聞かせるほどのゆとりは、今のアミュウは持ち合わせていなかった。
アミュウは刺すような目線でロサを見上げて言った。
「あなたの足を踏んだのはわざとじゃないし、必要なら謝るわ。でも私、急いでるの。変な言いがかりをつけないで」
「相変わらず生意気なこと。別にあのとき、おウチでなくてあんた自身を燃やしてあげてもよかったのよ。何なら今ここで決着をつけることもできるの。分かって?」
慌てたダミアンが手にした鳥打帽を振り回すようにして腕を広げた。
「ちょっと待ってくださいよ、街中での暴力行為は御法度ですよ!」
「ここはフォブールよ。軍警なんか来るわけないじゃない」
そう言ってロサはダミアンを一蹴した後、鋭い視線でアミュウを貫いた。
「気の毒に、あのときせっかく見逃してあげたのに、立場が分からないのね。あたしは、こうしてあんたがあたしの視界に入ってくるのが癪でたまらないの。主公様のお屋敷でも、身の程をわきまえずにお嬢様に突っかかっていたでしょう。本当に腹が立つ。こっちは二度とあんたの顔なんか見たくないのよ」
それは自分も同じだと言い返そうとしたところで、アミュウははっとして駅の方を見た。発車を告げる汽笛の音が鳴り響いたのだ。
機関車両がぶるりと震えると、駅舎からはみ出すほどの巨躯がゆるゆると動き、ラ・ブリーズ・ドランジェ方面へ向けて鉄路を滑り出す。躯体は鈍い日の光を受けて黒く輝き、ずんぐりとした煙突からもうもうと白煙が立ちのぼった。
アミュウの口から意味をなさない声が洩れ、足が勝手に駅の方へと向かっていった。ロサの罵声が右の耳から左の耳へと突き抜けていくが、構わずアミュウは野次馬たちをかき分けて駅へ走った。アミュウが市場の喧噪を抜けたころには、既に全ての車両がプラットフォームを抜け、列車は海岸線へ向けて速度を上げていた。
(行ってしまった……)
すぐにロサとダミアンが追いついてきて、何やらアミュウに向かって口をぱくつかせているが、二人の言葉はアミュウに届かなかった。
「ねえ、この耳は飾りなの⁉︎」
ロサに耳を思い切り引っ張られて、アミュウは我に返った。ダミアンはロサを止めようともせずに目を細めてプラットフォームを見ていたが、やがて瞠目して言った。
「様子がおかしい」
アミュウは耳を押さえて再び駅の方を見た。ロサもアミュウの耳から手を離してそちらへと目を向ける。駅の柵の向こう、プラットフォームの先端で、駅員がいまだに激しく手旗を振り続けている。既に車両はフォブールの家並みに隠れて見えなくなっていたが、錆びたトタンの屋根の奥から立ちのぼる白煙は、流れずに一つ所に留まり、薄まり、そして途絶えた。
「停車した……?」
ダミアンが呟くとほぼ同時に、列車の方向から微かに金切り声が響いてきた。女の声、男の声。喚声は絡み合いながら徐々に数を増していく。市の隅で売られている動物たちが脅えたように一斉に声をあげはじめた。金網の柵内に放されていた鶏が一羽、ガチョウの背を踏み台にして外へ飛び出したのを、家畜商の旦那が慌てて追いかける。
「何かが起きたのね」
ロサが背を伸ばして辺りを見回す。彼女の注意が離れた隙に、アミュウは飛び出して蓮飾りの杖にまたがった。
「あ、ちょっと⁉」
ロサが驚きわめくのを足元に見ながら、アミュウは駅前広場の上空へ舞い上がる。
上昇した勢いのまま中空でくるりと回転したアミュウの目に、ソンブルイユ郊外の丘の手前、粗末な家々が途切れて畑が広がり始めるあたりで、なだらかなカーブを描く線路上に立往生する列車の姿が飛び込んできた。さらに目を凝らせば、畑の中を一目散に逃げる人影があちらこちらに見つかる。客車の窓から飛び降りる旅客の姿もあった。
そして列車の行く手、丘に向かって弧を描く線路の上には、茶色い猫が座り込んでいた。前足を揃え、尻尾を身体に巻きつけて座り込む姿は、どこの街の路地にもいる野良猫そのものだったが、問題はその大きさだ。人が豆粒のように見えるのに、猫の姿ははっきりと視認できる。
精霊鉄道の機関車両をはるかに凌ぐ巨体の猫が、鏡面のように光る金の目をぴたりと車両に留めていた。




