5-28.来訪者
アミュウは大急ぎで荷物を抱えると、がらくたをいくつか蹴とばして階段を駆けあがった。三階の書斎の片隅に、ほとんど梯子と言っていいほど急勾配の階段があり、屋根裏へとつながっている。片手に蓮飾りの杖と荷物を抱え、もう片方の手を段差にかけて、アミュウは幅の狭い階段をよじ登る。
屋根裏の明かり取りの窓は鎧戸が閉まったままになっていて、真っ暗だった。小柄なアミュウでなければ頭がつかえてしまうほど狭い空間で、おまけに天井が傾斜している。暗闇の中で、突然アミュウの顔面に何か乾いたものが覆いかぶさった。驚いて声を上げそうになるのを押し殺し払いのけると、昔この部屋をアミュウが使っていたころに天井に貼り付けていた四大元素の照応表が、剥がれて垂れ下がっていたのだった。目を凝らすと、暗がりに小さな鏡台が浮かび上がってきた。アルフォンスの母親から譲り受けたものだ。反対側は寝床だ。ベッドの足側のフレームに、綿の布団が畳んで掛けられている。
階下から、玄関扉を開けながら「どちらさま」と訊ねるアルフォンスの声が聞こえてきた。心なしか普段よりも大きな声であるようだ。屋根裏のアミュウへ向けて警戒を促しているのだろう。久々に足を踏み入れたかつての城を懐かしむ余裕はなかった。アミュウは荷物をベッドの下に押し込むと、ベッドに上がって布団をひき被った。
「年明け早々、ゴミ屋敷へ来る羽目になるとはな」
男の横柄な声が聞こえてきて、アミュウは顔にかかる布団を少しだけ除けて耳を澄ませた。愛想よく応じるアルフォンスの声が続く。
「明けましておめでとうございます。ドゥ・グレミヨン猊下にお変わりはありませんか」
「相変わらずお忙しくされているよ。鼠探しなんて近衛兵にでもやらせればいいのに、まったく陛下ときたら……」
「ネズミ?」
「城に入った賊だよ。知らんのか」
「あまり外を出歩かないものですから」
来訪者が「これだから生っちろい学者さんはよォ」と悪態をつくと、耳ざわりな靴音が響いた。工房に上がりこんだらしい。
「なんだ。客でも来てたのか」
その言葉を聞いてアミュウの胸が縮こまった。応接テーブルに二人分のティーボウルとサンドウィッチを置いたままになっていたのを、来訪者は目ざとく見つけたのだろう。すぐにアルフォンスの間延びした声が聞こえてきた。
「南区から母が……」
「まだ熱いじゃないか」
捨て置けばよいものを、来訪者はわざわざボウルに触れて確かめたらしい。まくし立てるように追及を続けた。
「帰ったばかりなのか。いや、路地では誰ともすれ違わなかった。だいたい、おっかさんはリウマチだとか言ってなかったか? こんな東の外れまで来るのは難儀だろうに」
タイミングの悪いことに、アミュウの鼻がむずがゆくなってきた。長く放置された布団はたっぷりホコリを吸っていた。アミュウは指で鼻をこすり耐えていたが、とうとうこらえ切れなくなった。
――くしゅんっ!
「なんだ、今のは」
疑問の声を上げた来訪者は、すぐに底意地の悪そうな甲高い声色で言った。
「ははん。コンスタン、さては女だな」
「何をおっしゃるんですか。女性なんて、もう長いこと縁がありませんよ」
「確か寝室は二階だったな」
階段を上がる靴音が響く。アミュウは身体を丸めて布団をかぶり、来訪者がそれ以上階段をのぼらないよう祈りながら耳をそばだてていた。
「誰もいないか」
「だから、はじめからそう言ってるじゃないですか」
「書斎も調べるぞ」
来訪者はさらに階段を上がり、アミュウの隠れる屋根裏の直下の書斎までやって来た。床板を踏む音、書類を検める音、意地悪そうな息づかいまでもが近くに聞こえる。
「この手紙は?」
「魔術学校に在籍していたころの仲間からです。他愛のない、寒中見舞いのようなものですよ」
カサカサとした紙の擦れる音が聞こえてきた。
「ふうん。確かにな」
(この人、まさか先生宛ての手紙を読んでいるの?)
アミュウは信じられない思いでじっと身を潜めていた。
「お前さんに友人がいたとはねぇ。いいかコンスタン。あんたの大事な脳ミソは猊下のものなんだ。中身をぶちまけられたくなかったら、研究だけやってろ。外部のやつらとつるんで情報を洩らしでもしたら、二度と日の目を見られないと思え。慣れたおウチで研究を続けられるようにとの猊下のご配慮を踏みにじるなよ」
「もちろんですよ」
そして来訪者はフンと鼻を鳴らした。来訪者の言にアミュウは呆然とした。アルフォンスは軟禁されているようなものではないか。
「おい、あの梯子は何だ」
来訪者が屋根裏への階段を見つけたらしい。アルフォンスの立場について考えを巡らせていたアミュウはぎょっとして布団を握りしめた。
「屋根裏への階段です」
アルフォンスはあくまでも白を切るつもりだ。
「ずっと前にもお見せしましたが」
「あぁ……小間使いがいたんだったか?」
梯子の軋む音がすぐそこに聞こえる。アミュウは布団の中で目を瞑って息を潜めた。男が梯子を踏む音が近付く。一段、また一段。
「そこは全然使っていません。たまに窓を開けて風を通すくらいです」
アルフォンスの口調はあくまでも穏やかだったが、アミュウには、来訪者の家探しをやんわりと押しとどめる意図を聞き取ることができた。アルフォンスはもう一押しした。
「それにしても――いつもは月末にお見えになるのに、またいらっしゃるなんて珍しいですね。何かあったんですか」
「ああ、そうだった」
来訪者は用件を思い出した様子で、アルフォンスの問いかけに応じた。梯子の段を踏む音が遠ざかっていく。
「精霊鉄道の機関部が不安定になっちまってるんだとよ。いいかコンスタン。正午の列車に乗り込め」
「またですか?」
アルフォンスが驚きの声をあげる。精霊鉄道は年末に運行休止へと追い込まれたばかりだ。
「そうだ、まただ。今度こそ列車を止めるわけにはいかない。走らせながら動力を見ろとの御下命だ、いいな」
「そんな無茶苦茶な……」
「文句を垂れるのはどの口か」
「いえいえ、何でもありませんよ」
来訪者の声に凄みが加わると、アルフォンスは慌てて承諾の意を告げた。
「分かったらすぐに準備しろ。十分以内に出発するぞ」
アミュウが状況を整理し事情を呑みこむまでの間に、アルフォンスは支度を整えてあっという間に来訪者とともに工房を出てしまった。アミュウはそろそろと書斎へ降り、窓を開けてテラスを覗きこんだ。アルフォンスともう一人、中折れ帽を被った人物がテラスの下の路地を歩いているのが見える。
(今のひと、グレミヨン枢機卿の配下の者ね。まるで先生の自由を奪って、無理矢理こき使ってるみたいな言動だった。どうして先生はあんなやつに従っているの?)
アミュウは迷わず工房を出て階段を駆け降りると、アルフォンスたちを追って路地をたどった。もうじき昼時だというのに相変わらず空気は冷たい。空は晴れているのに灰色じみていて、あらゆるものの熱を吸い込んで濁っている。一歩走るごとにかじかんだつま先が痺れた。
大通りに出て中央広場方面へ向かうと、荷車を牽く牛馬たちの奥に馬車鉄道の車体が停まるところだった。つま先立ちになって観察すると、中折れ帽の男とアルフォンスが車内へ乗り込むのが見えた。アミュウが車道を横断しようと荷車の間を右往左往しているうちに、馬は車体を牽いて歩き出した。
アミュウは馬車鉄道を追って足を速めながら、アルフォンスがアミュウの存在を隠そうとした意味について考えていた。彼の意を酌めば、いまアミュウが中折れ帽の男の前に姿を現すのは避けるべきなのだろう。
(アル先生はグレミヨン枢機卿に弱みを握られている――その弱みが私だっていうこと?)
マロニエの梢に残っていた葉がアミュウの目の前に落ちてきた。足元に着地した葉をアミュウは何とはなしに避けたが、後ろから来た通行人がぐしゃりと踏んだ。




