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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第五章 たそ歌う ありし日を

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5-26.アルフォンス=レヴィ・コンスタン

 正月休みが明けた。

 もう数日、雨も雪も降っていない。鳥が木をつつき、小気味いい音を響かせて乾いた空気を震わせていた。

 この日は聖輝が刀の番をすることになっていて、彼は糺の私室に本を持ち込んで籠っている。ジークフリートも消えたナタリアの手がかりを追って街へ下りてしまった。

 アミュウは帆布の鞄に必要最低限の荷物を詰めると、蓮飾りの杖を携えて、聖輝に見つからないようこっそりと御神楽邸を抜け出した。


 早足で山を下りながら、アミュウは来た道をやや後ろめたい思いで振り返った。丸太階段は斜面を蛇行し、御神楽邸の佇む段丘は樹々に隠れて見えない。

 葉を落とした裸の枝がひび割れのように空を浸食している。目の端で枝が揺れたかと思えば、アオゲラの赤い頭と緑の翼がさっとよぎり、山奥へと吸い込まれていった。丸太に足を滑らせないよう注意しながら階段を下りていくと、遠くからコツコツと木を叩く音が聞こえてきた。さっきのアオゲラだろう。


 川沿いに出た。砂利道は()て空の下で水晶のように白く鋭く光って見えた。靴の下でこすれ合う石たちのさざめきは、無音で流れるピネードの川に代わって水の音を演出しているかのようだった。

 流れ橋の向こうを休み明けの衛兵たちが連れ立って歩いている。故郷から戻ってきたと見え、仕事へ向かう彼らの足取りは軽やかだった。衛兵たちの後ろ姿を眺めながらアミュウは欄干のない流れ橋を渡り、停留所に向かった。車体のみが放置され、御者と馬の姿は見えない。


 一人で御神楽邸を出たのにはわけがあった。アミュウはアルフォンスを訪ねるつもりでいたのだ。先日聖輝とともにアルフォンスのもとを訪れた際、彼は聖輝を警戒しているように見えた。


――今度はひとりで出直しておいで。


 アミュウは川沿いの道の先をぼんやりと眺めながら、アルフォンスの言葉を思い返していた。あの日のアルフォンスは明らかに何かを隠している様子だった。


(だったら、私ひとりで行くまでよ)


 道の先からのんびりとした蹄の音が聞こえてきたかと思えば、馬を引き連れた御者が姿を現した。客が待っていることなどお構いなしに彼らは悠然とこちらに向かってきて、これまたのんびりとくびきを取り付けた。


「乗っていいぜ、嬢ちゃん」


 御者がアミュウを座席に促す。アミュウが最後部座席に座ったのを確かめてから御者は台に上がり、手綱を譲った。

 昨日聖輝とともに歩いた堀沿いの道を、馬車から見下ろす。店はどこも鏡飾りを取り払い、代わりに「営業中(ウーヴェール)」の札を掲げていた。建物の煙突からは煙が流れ、くすんだ冬空の灰青に混じって消えていく。奥には用水路があり、老婆が曲がった腰をさらに屈めて洗濯しているのが見えた。水はさぞ冷たかろう。


 馬車は王城をぐるりと回って御前ごぜん広場の停留所で止まり、数人の乗客が乗り込んできた。広場には早くも市が立ち、正月のあいだにすっからかんになった食料庫を満たすべくやってきた客が群がる。広場からは堂々たるブールヴァールが真っすぐに伸び、馬車や荷車を等速で飲み込んでは、同じだけ吐き出していく。馬車鉄道はゆっくりとブールヴァールを下っていく。活気にあふれる通りを眺めながら、アミュウはぼんやりと考えていた。


(この中にナターシャが紛れていたとしても、とても見つけられない……)


 馬車鉄道は進行と停止を繰り返しながらブールヴァールを南下し、ニ十分ほどで中央広場停留所に到着した。乗客の半分以上が下車する。最後にアミュウも運賃を支払って馬車を下りると、待ちかねたように新しい客が乗り込んできた。歩いて停留所を後にしたアミュウが振り返って見ると、既に馬車は満員となり、乗りそこねた客が苛立たしげに小石を蹴っていた。

 アミュウは広場の角を曲がったところで、中央広場東西線の馬車鉄道を待った。ちょうど前の馬車が出たばかりのようで停留所には誰もいなかったが、アミュウがそこに立つとすぐに待ち合いの列ができた。アミュウの後ろに並ぶ男性の外套に染みこんだ煙草のにおいがアミュウの鼻をかすめる。列の先頭だったので、アミュウは次発の馬車に乗り込むことできた。

 車窓の外では、ナナカマドの赤い実が、賑わう街に華を添える。博物館を過ぎ、マロニエの街区に入ると、アミュウの目に見慣れた学生街はすぐそこだった。

 アミュウは魔術学校前停留所で馬車を降りた。


 行きつけだったブーランジェリーが開いていたので、手土産にサンドウィッチを買っていくことにした。奥の工房で立ち働く主人の姿は昔のままだったが、店頭に立つ売り子の顔は変わっていた。アミュウは新顔の青年に向かって注文した。


ハム(デュ・ジャンボン)チーズ(デュ・フロマージュ)レタス(ドゥ・ラ・レテュ)のバケットサンドをふたつ。あと、このお茶を」


 アミュウはカウンターに陳列されていた茶の缶を手に取り、売り子に渡した。売り子がぶっきらぼうに金額を告げる。アミュウが紙幣で支払うと、売り子はまるで投げつけるかのように釣り銭を寄越してきた。アミュウの手から小銭がいくつかこぼれ落ちて、派手な音を立てて店の床を転がった。売り子は謝罪の言葉ひとつなく、小銭を拾うアミュウをカウンターから見下ろしていた。


 苛立ちを抱えたまま、アミュウはブーランジェリーを出る。魔術学校を過ぎ、小路へと曲がり、コンスタン工房へ続く階段までやって来た。アミュウは蓮飾りの杖を握っていた手に息を吹きかけた。雪は降らないが、気温は低い。石壁に備えつけられた鋼の階段を上り、アミュウは師の工房の扉を叩いた。思ったとおりアルフォンスはすぐには姿を見せず、アミュウは二度、三度とノックした。


「ふわぁい……どちらさま…………」


 寝間着のままで扉を開けたアルフォンスの寝ぼけまなこが、数秒ののちに大きく見開かれた。


「お正月休みは昨日でおしまいですよ、先生」

「――ほんとにひとりで来ちゃったの?」

「先生が来いって言ったんじゃないですか」


 アルフォンスは垂れ眉をさらに八の字にして言った。


「あーあ……あのお兄さん、かわいそうに」

「だから、聖輝さんは連れてきませんでした」

「いや、そうじゃなくてね」


 アルフォンスは自身の身体で扉を押さえたまま腕を組み、目をぎゅっと瞑って考え込む仕草をした。


「まあ、いっか。上がって。話はそれからだ」

「今日ははぐらかさないでくださいよ」


 アミュウが釘を刺すと、アルフォンスはにっこりと笑った。


「かなわないなぁ」




 工房の居間の様子は四日前に来たときとまったく変わらず散らかっていた。アミュウは前回と同じように長椅子の上に散らばった本を応接テーブルの上に積み上げてから腰かけた。しかしそれらの本の背表紙をよく見てみると、前に来たときと同じものはほとんどない。


(ちゃらんぽらんに見えて、研究熱心なのよね)


 アミュウは一番上の一冊を手に取った。精霊の性質についての論文集だった。アミュウはそっと本を閉じてテーブルの上に積み重ねた。


「まだ精霊が苦手かい」


 廊下から居間へと入ってきたアルフォンスが訊ねる。彼の持つ盆には、彼自身の手によって淹れられた茶のボウルがふたつとバケットサンドが載っていた。アミュウはぷいとそっぽを向いて言った。


「私の魔力は精霊に馴染まないそうです。苦手もなにも、精霊がそこにいるかどうかさえ、私には見えません」

「得手不得手があるのが人間だよ。君は空間制御という離れわざをやってのけたじゃないか」


 アミュウはすっと視線を師に戻した。やはり彼は空間制御術の研究の成果を認めていた。アルフォンスは応接テーブルの反対側の長椅子にかけて茶を啜ると、顔をしかめた。


「アミュウが淹れてくれたお茶のほうがおいしいや」

「これって、いま私が差し入れたお茶ですよね?」

「お茶っぱの違いじゃないんだよ」


 アルフォンスは目尻を下げてアミュウを見たので、アミュウは気が抜けてしまった。今日の彼には毒気を感じない。ニコニコとサンドウィッチを頬張る彼は、昔のままの師だった。


「ああ、旨いなぁ。お正月の間ろくな食べ物にありつけなかったから、すごくおいしいよ」

「ねえ先生。このあいだ、空間制御術を忘れろって言ったのはどういうことなんですか。何かあったんでしょう」

「やっぱり、その話を聞きに来たんだね」


 アルフォンスの微笑みに影が差した。眼窩の影が色濃くなり、瞳は雨降りの空の色となった。アミュウは、アルフォンスにそんな顔をさせるまでの事情というのが何なのかを知りたかった。


「君は賢いから、空間制御術というのがだれ彼となく知られていいものでないことはわかるね」


 アミュウは気まずさを飲み込んで頷いた。あらゆる場所を繋ぐ技術を悪用されること、ひいてはその知識を持っていると知られることの危険性については、聖輝に指摘されたものだ。アミュウが自ら考えついたことではない。


「僕は賢くないから、君が故郷に帰ったあとで、あの実験の成果を論文にしてしまったんだ。埋もれさせるには惜しいと思った。でも、それが間違いだったよ。下読みの段階で教諭陣に、お前馬鹿か、こんな研究結果を世に出したらどうなると思ってるんだって言われて目が覚めた。でも、論文を取り下げたときには後の祭りで、下読みしていた教諭の一人に密告されてね」


 アルフォンスは長椅子の背もたれに身体を投げ出し、ふぅっと息を吐いて窓の外を見た。隣のアパルトマンの塀が視界を塞いでいるが、手前にテラスがあるだけこの工房は恵まれている。高層の建物が密集するソンブルイユでは、上階でなければ窓の外の景色など楽しめたものではない。


「声をかけられたときにはもう退路を絶たれてた」

「誰の誘いですか」

「グレミヨン卿。あのお兄さんの睨んだとおりだよ」


 アルフォンスがあまりにすんなりとパトロンの名を口にしたので、アミュウは拍子抜けした。その驚きが顔に出ていたのだろう。アルフォンスはふっと真面目な表情になってアミュウに訊ねた。


「どうして僕が君にこんなことを話すか、理由がわかる?」


 アミュウが「いいえ」と答えると、アルフォンスは真剣な顔つきのまま言った。


「君に関係があるからだよ、アミュウ」

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