1-16.退魔【挿絵】
オリバーの顔が、糊のきいた洗濯物のように固まった。後ろでジョシュアが身じろぎする。
「つ、憑いてるって、何がです?」
「なに、悪魔のうちにも入らない下等なあやかしです。どうです? 普段と違う感じがしませんか? 身体がだるくて、重くて、どうにも思うように動けないといったような……」
「は、はい。確かに、普段の風邪じゃここまで酷くならないような……」
オリバーはせっかく血色の戻ってきた顔を再び青くして、しどろもどろに答えた。ジョシュアの顔も真っ青だ。
「ちょっと聖輝さん、何を言ってるんですか。余計なことを言って不安をあおらないでください」
アミュウが非難の声を上げると、聖輝はアミュウのほうに一瞬だけ顔を向けて、オリバーからは見えないよう、片方の口の端だけを上げニッと笑ってみせた。まぁ、見ていなさい。アミュウには、聖輝がそう言っているように見えた。
「ミス・カーターはお優しい。ご主人が取り乱さないよう配慮されているのですね。確かにこのまま放っておいても、この程度の魔物はじきに逃げていくでしょう。でも、私ならこの場ですぐに魔を退けることができる。ご主人、どうしますか?」
聖輝はオリバーの目を見て訊ねた。手には、胸元に提げたロザリオを握っている。いつの間にかアミュウの隣にジョシュアがにじり寄っていて、頼りなくすべすべとした手でこぶしを握り、父親のベッドにもたれかかっていた。
「へ、変なモノがいるっていうんなら……牧師の先生、追っぱらってください、お願いします」
「分かりました」
聖輝は革のかばんから、古びて角の丸まった聖典と木のコップ、それに大瓶と小瓶を取り出した。
「これから退魔の儀式を行います。簡単な儀式ですが、ご主人は少しだけ痛い思いをしますよ。ミス・カーターと息子さんは部屋の外で待っていてください」
その指示がアミュウの癇に障った。自分は無理やりついてきてアミュウの働くさまを見物しておいて、勝手なふるまいをした上に、見るなというのか。
「私もここにいるわ」
アミュウが低い声で言うと、聖輝はわずかに眉を上げて微笑んだ。
「そうですか。構いませんよ。では、息子さんだけ廊下に出ていてください」
ジョシュアは「父ちゃん……」と不安げに振り返りながら、部屋の外に出た。ドアが閉まったのを確認して、聖輝は聖典のページを繰り、ロザリオを目線の高さに掲げた。
「それでは、今から退魔の儀式を始めます」
アミュウは生唾を飲み込んだ。オリバーは緊張のせいか、瞬きの回数が増えている。
聖輝は小さいほうの瓶に指先を突っ込んできらきらと光る粉を少量付け、オリバーの額、みずおち、両肩へ触れ、十字を刻んだ。聖典を読み上げる。
「聖典第二章五十八節。剣を持つ者、聖霊をして光の家を建てしめ、あらゆる人の子らをこめたり。すなわち悪霊この家に入ることあたわず。日入りはて、悪霊、夢の通い路に人の子らを惑わせんとて戸を開けたり。剣を持つ者は六芒星のもと戸を鎖し悪霊の片耳をこそ削ぎたれば、日はまたのぼりたり」
ぱちん!
雷に打たれたような乾いた音が散らかった部屋に響く。聖輝がオリバーの左耳を平手で打ったのだった。オリバーは目を白黒させて耳を押さえる。聖輝は大きいほうの瓶から木のコップに赤黒い液体を注いで、まず自分が飲み、それからオリバーに飲ませた。
それから聖輝は手をひとつ打ち鳴らし、例の人当たりの好い笑顔で告げた。
「はい、おしまいです。安心してください、悪しき魔物は出ていきました」
「こ、これは……ワイン?」
オリバーは口元に手を当てて、狼狽えながら聖輝に問いかける。聖輝は両腕を広げて、説法でもするように、朗々とした声で説明した。
「そうです、聖霊の血の象徴です。はじめに塩で清め、身体に入った魔物を平手打ちで追い出し、その穴を聖霊の血で埋めました。」
「は、はぁ……」
「痛かったと思いますが、これでもう、魔物が体内で悪さをすることもありません。明日からは起き上がれるでしょう」
聖輝はそう言うと、大小の瓶や聖典を鞄にしまい込んだ。どうやら本当にすべて終わったらしい。アミュウはため息をひとつついて、部屋のドアを開けてジョシュアを招き入れた。ジョシュアはすっかり怯えていたが、ためらいがちに父親に近付く。オリバーはその大きな手でジョシュアの肩を撫でさすった。
「もう大丈夫だ」
ジョシュアの肩が震え始める。アミュウは聖輝を促し、そっと部屋を出た。
狭い廊下に出てドアを閉め、アミュウと聖輝は並んで立つ。アミュウは小声で聖輝に訊ねた。
「魔物が取り憑いてるって、例のオーラとやらで分かったんですか」
「いいえ。何も憑いてなんかいませんでしたよ」
聖輝はしれっと言ってのけた。
「は?」
アミュウはきょとんとして聖輝を見た。聖輝は腕を組んで語る。
「あのご主人はもう九割がた回復しています。下の調理場を見ましたか、ご老体に鞭を打ってパンを焼いていたのは、大方あのご主人の父親でしょう。だいぶ危なっかしい手つきでした。それだけ親に迷惑をかけておきながら、良い大人が薬を飲みたくないなんて、聞いてあきれます。あのご主人には早くやる気を出してもらわないと、今度はあの父親のほうがどうにかなってしまいますよ」
「オリバーさんを働かせるために、はったりをかけたんですか」
「そうですね。このワインも、ナタリアさんからお土産に頂いたものです。実に美味かった。これで多少酒臭くても、怪しまれません。
ああ、魔物なら確かにあのご主人に憑いていましたね、怠け虫という名の魔物が」
聖輝は組んでいた腕をほどき、大きく伸びをした。
「見たところ、あのご主人は普段は風邪のひとつもひかないたちなんでしょう。そういう頑丈な人がたまに寝込むと、起き上がるタイミングが自分でも分からなくなることがあるんですよ。そんな時は、誰かが鞭を打たなくてはならない」
「本当に殴りましたね」
「なに、痛い思いをした分、明日からは仕事に精を出すでしょう。これで元気にならなければ、殴られ損というものです」
アミュウは納得がいかなかった。病人をゆっくりと休ませるのは当然だ。自分の仕事に横やりを入れられた上に、自分のやり方が全否定された気がするのだった。アミュウは低い声で言い返した。
「オリバーさんだって、普段は働き者のはずですよ」
「そうですね。だからこそ、倒れたときの穴が大きい。この家族全体のバランスが取れなくなってしまうんですよ」
アミュウは唇を噛みながら言い返す言葉を探したが、見つからなかった。今日初めてハーン一家の家庭に足を踏み入れたとは思えない聖輝の洞察力に、アミュウは舌を巻いた。思えば、アミュウもこのハーンズ・ベーカリーに来るのは二回目でしかない。
「でも、ジョシュア君にはショックが大きかったんじゃ」
「配慮はしましたよ。追い出したじゃありませんか。父親が殴られる場面なんて、見せられませんからね」
hake様からファンアートを頂きました。下記活動報告にてご紹介しております(2018.10.26)
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1423845/blogkey/2156032/




