5-25.地の精霊魔術【挿絵】
折り伏すリゼットの姿は異様だったが、アミュウにはそれが精霊魔術であることがすぐに分かった。官吏たちの一人が後ずさったのを、アミュウは鋭く制した。
「静かに! 音を立てないでください」
リゼットは床に耳を押し当て目を閉じたまま、微動だにしなかった。
数分が過ぎた。既に緊張の緩んだ官吏たちは互いに顔を見合わせたり、肩をすくめたりと、身じろぎが目立つようになってきた。アミュウはリゼットの、外套の上からでも肉付きが悪いと分かる尻を見ていた――リゼットはアミュウたちに背を向けていたので、アミュウに尻を突き出す格好となっていたのだ。
精霊魔術を扱う者は、その目で精霊の存在を知覚すると言う。アミュウにその感覚は備わっていなかったが、リゼットを包む魔力が凪いでぴたりと動きを止めているのは見えた。そしてよく目を凝らしてみれば、それは静止ではなく、常に一定量の魔力を一定の速度で床に流し込み、同時にまったく同じ量の魔力を床から得ている、高度に統制された循環運動なのだった。
隣の様子を伺うと、聖輝も同じようにリゼットの動向に注意を払っている。彼の言うところの「オーラ」はアミュウの知覚している魔力とは若干違うものであるようだったが、彼もリゼットの奇行の本質が並々ならぬ職人芸であることを理解しているらしい。
やがてリゼットは顔を上げて誰にともなく言った。
「犯人は男と女の二人組ね」
年長の官吏が眉をひそめた。彼女をなにかパラノイアの一種であるとでも思っているのだろう。グレミヨン枢機卿の姪であると承知の上であっても、彼女を見る目から哀れみの色を消せていない。
「なぜそんなことが言えるのです?」
「足音は二人分。話し声も聞こえた」
官吏がますます怪訝な顔をしたので、アミュウが二人のあいだに割って入った。
「リゼットさんは床に宿る地の精霊と交信して、情報収集していたんです」
「ふうん」
リゼットは意外そうな顔でアミュウを見上げると、初めて笑顔を見せた。
「あんた、分かるんだ」
アミュウはリゼットへの警戒を解かずに答えた。
「精霊魔術についてはよく分かりません。でも、魔力の流れかたがとても綺麗なのは分かりました」
リゼットはコツンと床を小突いてから立ち上がった。
「地の精霊グノームに、おとといの晩に聞こえた音を再現してもらった。木材が古くて音質が悪かったけど、男と女の声で間違いないと思う」
「便利な魔術ですね。なら、会話の内容も分かるのですね?」
聖輝が鋭い声で訊ねると、リゼットは首を横に振った。
「精霊は、人の話を理解しているわけじゃないから、音声そのものを伝えることはできても、会話の中身までは伝えられない」
「そうですか……」
聖輝が肩を落とす。アミュウは首をひねった。音声を伝えられるのなら、内容も伝わるのではないのか。しかし精霊と交わる感覚を知らないアミュウには、その疑問を口に出すことはできなかった。リゼットの精霊魔術からは、聞いた言葉をそのまま再現するピッチの姿が連想されたが、精霊を相手にするのと動物を相手にするのでは、勝手が違っているのだろう。
「手がかりを探す手段なら、ほかにもある」
リゼットはそう言うと宝物庫を出て、階段を降りていった。アミュウと聖輝は慌てて彼女の後を追う。やや間を置いて、後ろに案内役の若い官吏が続いた。
貯蔵塔を出たところで、ピネード方面の裏山から吹きおろしてくる風にケープをたなびかせて、リゼットは周囲を見回していた。彼女の身体から微弱な魔力が地面へと流れ出ているのを、アミュウは見た。魔力はまるで水たまりのようにリゼットの足元に広がり、剥き出しの地面へ浸透していく。リゼットの魔力の扱い方は隅々まで抑制が効いていて、エネルギー量こそ少ないものの、高度に修練されていると見て取れた。
リゼットはその場にしゃがみ込み、地面に掌をあてた。
地の精霊グノーム、我が呼びかけに応えよ。
アラリタ、一はその始まり。
一はその個性。
その順列は一なり。
一つ天道のめぐりたるその前、
夜半の闇に忍びたる盗人らのあとを我にしめせ。
開け、王国の門。
アグラ、汝は偉大にして永遠なり。
我が主よ、アドナイ・ハ・アレッツ!
リゼットの周囲に起こった変化は微細だった。アミュウは目を凝らして薄弱な魔力の動きを追った。それは緩やかな四つの弧を描いて城壁の方へ向かっていた。もっとよく見ようとリゼットに近付いたところで、アミュウは彼女の足元の地面に、靴跡が浮かび上がっているのを見つけた。
アミュウは息をのんだ。
足跡は二種四筋、城壁から貯蔵塔に向かっているものと、貯蔵塔から城壁に向かっているものがあった。形に注目すれば、地面を深くえぐる足跡と、踵の華奢な足跡の二種がある。前者のほうが後者よりやや大きい。アミュウははじめ恐る恐る――やがて小走りでその足跡を辿った。足跡の起点は城の西側に面した壁だった。動悸を抑えるように胸に手を当てて、アミュウは壁を見上げた。王都を取り囲む街壁ほど高くはなく、せいぜい七、八メートルといったところだ。石壁は基底部に向かって厚みを増す構造で、石組の凹凸は足掛かりになりそうだ。凍てつく堀水さえ越えることができるのなら、よじ登れない高さではない。足元に視線を転じれば、二種の足跡が目に入る。小さい方の形はナタリアが普段履いているブーツと合致するような気がする。
いつの間にか聖輝がすぐ後ろに来ていて、城壁を見上げていた。次に官吏が、最後にリゼットがやってくる。
「み、皆様こちらへ……!」
官吏は今やリゼットの行使した精霊魔術の意味を理解しているようだった。彼はアミュウたちを先導して裏庭を横切り、階段を上り、さっき通り過ぎた広場へと戻ってきた。広場の片隅には望楼がそびえていて、内部の螺旋階段から城壁の上へ出ることができた。裏山からの北風に吹きさらされ、髪やショールを巻き上げられながら壁上回廊を進む。ぐるりと主塔を回り、問題の足跡の箇所までやってきた。
鋸壁の隙間からは、正月休みの御用聞き商店の区画がのぞく。アミュウは周囲を見回した。ふと近くの壁を見ると、壁の凹凸の内側に真新しい傷があるのを発見した。
「聖輝さん、ここ」
アミュウは聖輝を呼ぶと、聖輝だけでなく官吏も近寄ってきた。
「何か尖ったものでひっかいたみたいですね」
傷跡は石壁の内側を、まるで釘でも打ちつけたかのように斜めに穿っていた。
聖輝は壁の窪みに足をかけ、ひらりと鋸壁の上に飛び乗った。彼は目を細めて壁の下を見下ろし、壁の真下の、堀のある一点を睨みつけて指差す。
「あそこに何か沈んでいます」
壁の狭間から堀を見下ろすと、濁った緑の水の奥におぼろな影が揺らめいている。影は長大で、腐った柱か何かが水底に打ち棄てられているかのように見えた。
官吏は泥上げやら刺叉やらを持ち出して沿道に降り、数人の衛兵とともに堀の底をさらった。目的の物体は五メートルはあるだろうか。苦労の末に沿道側へかき寄せて引き上げると、それは丸太だった。長い藻が絡んでいたが丸太自体に苔や藻は付着しておらず、最近になって堀へ捨てられたものであるのが見て取れた。丸太とともにロープも引き上げられた。ロープの先には手のひらほどの大きさの鉤針が結び付けられていた。
官吏たちとともに沿道へ下りていたアミュウと聖輝は、顔を見合わせてどちらからともなく言った。
「丸太橋ですね」
「橋をかけて堀を渡り、壁にロープを吊るして上った……?」
丸太の両端は半分に割られていて、転がらないよう細工まで施されていた。官吏が当惑の声をあげた。
「いくら夜中とはいえ、こんなに大きなものを持って移動したら人目に触れます」
聖輝は、一人壁上に残って高みの見物を決めこんでいるリゼットに向かって声を張り上げた。
「リゼット嬢! この丸太に残された音声情報を読み取ってください」
「それは無理」
リゼットは首を横に振って答えた。
「地の精霊がほとんど残ってない。水に流されたんだろうね」
そういうものなのかと、アミュウは妙に感心した。精霊の気配を捉えることのできないアミュウであったが、精霊が水堀の流れにさらわれていくという言葉には実感がわいた。
アミュウはリゼットに問いかけた。
「なら、この沿道はどうですか? 足跡を再現したり、声を聴いたりできるんじゃ……」
「石畳の道に足跡はできない。それにこの道は大勢の人が通る。精霊は万能じゃないから、こんな場所でいちいち話し声なんか覚えていられるわけがない」
アミュウの提案を最後まで聞かずに、リゼットは否定した。
近所の御用商人たちが見物にやって来て、辺りはちょっとした人だかりになっていた。その中から男の声が響く。
「二、三日前に見たぞ、その丸太」
「なに」
官吏は手にした泥上げを放り投げて声のあった方を見た。漆喰だらけのスモックを着た左官風の男が言った。
「堀っぱたに転がってたぜ。てっきり資材を捨てたんだと思ってた」
「誰が持ってきたか、分かるか」
官吏は男に畳みかけるが、男は即座に否定した。
「気が付いたらそこにあったんだ。運び込まれるところを見たわけじゃない」
「おい、それ、マニャさんとこの足場じゃねえか」
別の男が声を上げると、マニャと呼ばれた女がためらいがちに頷いた。
「うん、うちの工事で出た廃材だと思う」
「どういうことだ」
官吏の問いに女は腕を組んで答えた。
「少し前に解体工事をやってもらってたんだよ。その時の足場の廃材じゃないかしら。そのまま現場に置いておいてもらってたの。少しずつ切り出して薪にしてたんだけどね」
女に案内されて路地に入ると、五階建ての建物がひしめく中に、なるほど歯がぬけたようにぽっかりと空き地があり、廃材が積み上げられていた。
「ここから丸太を運んだのかしら」
アミュウは小声で聖輝に言った。聖輝も小声で答えた。
「用意周到ですね」
結局それ以上の手がかりは得られず、宝物庫侵入事件の真相究明は頓挫した。リゼットは早々に王城を立ち去った。
アミュウたちは、官吏が報告書を書き上げるのを手伝ってから城を後にした。既に夕方となっていた。城門をくぐり抜け、跳ね橋を渡り、ピネードへと引き返す。
御用達が軒を連ねる沿道では、商人たちが鏡飾りを仕舞いこむ姿がちらほら見られた。明日からの営業再開に備えて商売道具の手入れをしたり、店の前を掃き清めたりと、にわかに騒がしくなっている。
それでも王城の裏手まで行くと、人出はぐんと減った。聖輝がふいに呟いた。
「ナタリアさんでしょうか」
「ナターシャは肩を痛めているのよ。堀や壁を越えられるわけがないわ」
アミュウはそう答えながら、王城の裏庭に再現された足跡を思い起こしていた。考えれば考えるほど、あの足跡はナタリアのものであるように思われてならなかった。




