5-21.危険な研究
アルフォンスは熱くなったボウルのふちを両手で支えて茶をすすり、いかにも旨いというふうに息をついた。卓上に散らばった書類の隙間にボウルを置くと、そのアンバランスな笑みを聖輝に向けた。
「ちょっと色々ね。でも、御神楽枢機卿のご子息の前で話すことではないかな」
気勢をそがれたアミュウは、知らず前のめりになっていた姿勢を正して長椅子に座り直した。
「なぁんだ。聖輝さんのおうちのこと、知ってたんじゃないですか」
「あんまり知りたくなかったんだけどね」
聖輝は大儀そうに頭を振った。
「こっちは存じません。私が知らないとなると――なるほど、父か。パトロンか何かですか」
「いや、あなたのお父さんからは支援してもらっていないよ」
アルフォンスは手ぶりで聖輝に茶を勧めたが、聖輝はボウルに口を付けなかった。茶を淹れたのはアミュウなのに、アルフォンスが勧めるというのはおかしいではないかとアミュウは考えたが、その疑問を飲み込むかわりに師にこう訊ねた。
「じゃあ、御神楽枢機卿とどんな関係なんですか」
「あの人と深いお付き合いがあるわけではないけど、混みあってるんだよ。だからさ、お兄さんの前ではちょっと、ね。分かるでしょ。あの成果が世に出るのはまずいんだ」
「聖輝さんは悪い人ではないわ」
「――それはどうでしょうか」
アミュウの擁護に小声で疑義を唱えたのは、聖輝自身だった。アミュウが目を向けると、聖輝は半ば目を伏せ、隣にいる彼女が聞き取れるかどうかぎりぎりの音量で言った。
「私は本当に、あなたの味方なのでしょうか」
「――」
アミュウが目を丸くしている間に、聖輝はアルフォンスに語りかけていた。
「今のやりとりで何となく分かりましたよ。空間制御と聞いて父が飛びついてきたのでしょう。でも、その申し出に先生は応えることができなかった。それはなぜか。父とは立場を異にする者が先に先生に声をかけていたということなのでしょう。例えば――ディムーザン枢機卿とか?」
アルフォンスは目を細めて聖輝の言を聞いていた。その指はボウルの縁を行きつ戻りつなぞっていた。
「こりゃ参ったな。お兄さんと話してると、うっかり喋りすぎてしまう気がするよ。そうだね。僕の研究はラ・ブリーズ・ドランジェからしてみてもうまい話だったと思うけど、でも、残念。はずれ。あの成り上がり司教は、この研究の価値が分かるほどお目が高いようには思えない」
「国王派筆頭、グレミヨン枢機卿ですか」
聖輝が苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべる。アルフォンスは笑顔を崩さず、返事をしない。
アミュウは二人の顔を見比べた。
伸ばしているのか伸びてしまったのか分からない髭は昔のままだったが、アルフォンスの微笑みには、以前と比べて何かしら暗い影が差しているように見えた。三年も経てば雰囲気など変わるだろう——いや、たった三年ぽっちで変わるだろうか。育ち盛りの時期を経たアミュウとは違い、アルフォンスは良い大人なのだ。
アルフォンスの第一印象は年齢不詳だった。あとで年を聞いたとき、どう反応すればよいものか悩んだものだ。記憶が正しければ、確か今ごろ師は三十七、八といったところだろう。アルフォンスの笑顔から覇気を奪っているものの正体が加齢にあるのか、アミュウには判断がつかなかった。
聖輝の頬の痣はやや薄れてきていた。しかし、頬に傷を添えても、眉を寄せてみても、アルフォンスと比べてみると聖輝の渋面は決定的に若く、青かった。眉間の皺は浅いし、頬は張っている。顎はつるりとしていて、今朝は念入りに剃刀を当てたのだと分かる。アミュウは聖輝のことをずっと年長者として見てきたので、彼の若さを意識したのはこれがはじめてだった。
アルフォンスがもう一口茶を啜った。今度は聖輝に口をつけるよう勧めることはなかった。
「どういうつもりで僕の可愛い教え子と一緒にここへ来たのか分からないけど、こうして話せることは少ないんだ。思い出話に花を咲かせてもいいけどさ、君としてはつまらないだろう? 悪いけど引き取ってもらえないかな」
「先生!」
非難の声をあげたアミュウに向かってアルフォンスは優しく微笑んだ。
「悪いね。今度はひとりで出直しておいで。まだあと少しはこっちにいるんだろう。何ならここに泊まってもいいんだよ」
聖輝の眉がぴくりと動いた。アミュウは首を横に振った。
「今は聖輝さんのご実家にお世話になっているんです。他の仲間もいるの」
「そう。まあいいや、屋根裏部屋なら残してあるからね」
隣で聖輝が身じろぎし、アミュウのスカートを尻で踏んだ。アミュウはスカートを自分の側にかき寄せて言った。
「なんだか先生は、随分と変わってしまいましたね」
「ちょっとタイミングが悪かったかな。年末に精霊鉄道が止まったのは知ってる?」
アミュウは「もちろんです」と大きく頷き、ラ・ブリーズ・ドランジェで足止めを食った事情を師に説明した。
「じゃあ、案外近くにいたんだね。僕もラ・ブリーズ・ドランジェへ呼ばれたんだよ。機関部の不調だから見てくれってさ、ただでさえ忙しい年の瀬に、人使いが荒いよね」
アミュウは首を傾げた。精霊動力の機構など、アルフォンスの専門外のはずだ。不思議そうな顔を浮かべるアミュウに、アルフォンスは歯を見せて笑った。
「少し手を広げたんだよ。そうしたら一気に仕事が入るようになってね、正直アミュウがいた頃よりもずっと忙しいんだ」
アミュウはややためらいながら問うた。
「……また弟子をとらないんですか」
「うん。もうとらない」
アルフォンスは唇を引き結んで頷くと、ぱちんと手を叩いて立ち上がった。
「さあ、わざわざ来てくれたのは嬉しいけど、このままだと本当に僕は喋りすぎてしまいそうだよ。お腹も空いてきたし、そろそろお開きにしよう」
アミュウはもっと師と話していたかったが、アルフォンスはあまり聖輝を歓迎していない様子だった。聖輝の方も、結局茶を口にしていない。
帰り支度を整えるアミュウにアルフォンスは声をかけた。
「正月のうちはヒマだよ。精霊鉄道が動き始めたらまた呼び出しがかかるかもしれないけど、上旬のうちは安心して来てもらって構わない。月の後半はちょっと都合が悪いかな」
ガラクタを蹴とばさないよう注意して廊下を進み、アミュウは屋外に出た。住宅街の石の森にあって中二階のように張り出した師の工房のテラスに、ひんやりとした空気が沈んでいる。モルタルとスレートに切り取られた空に、どこかの鳩舎からクルクルと耳に快い鳴き声が響いた。
アミュウが大きく伸びをする後ろで、アルフォンスが聖輝に話しかけるのが聞こえた。
「――お兄さんはとうとう、アミュウとどういう関係なのか教えてくれなかったね」
聖輝は冷たく切り返した。
「それは先生も同じですよ。アミュウさんがあなたを慕っていたことは分かりましたが、果たしてあなたはどういうつもりで彼女を」
「仕事のほうは順調かい? こうして休暇を取れるっていうことは、うまくいってるんだろうね」
アルフォンスはわざとらしく聖輝の言葉を遮りアミュウに訊ねた。アミュウはアルフォンスの態度を怪訝に思いながら答えた。
「休業中なんです。ちょっと、色々あって」
「ふぅん。たまにはゆっくり休むことも必要だよね。休みのうちに、またおいで」
アミュウたちは石壁に手を添えて階段を降りる。振り返ると、見送るアルフォンスが戸口のところで手を振った。アミュウも手を振り返して、急勾配の階段を降りて行った。
恐る恐る金属の踏板をたどっていると、後ろから聖輝が訊ねてきた。
「アミュウさん、屋根裏部屋というのは?」
「私の使ってた部屋です。住み込みで師事してたんですよ。ステュディオを引き払うことができたので助かりました」
そこまで言ったところで、アミュウは後ろから鋼板を踏む靴音が聞こえてこないことに気がついた。
「聖輝さん?」
振り返って見上げると、聖輝が紙のように色を失った顔でアミュウを見ていた。彼は澱みの中で酸素を求める魚のように二度口をぱくつかせてから、唇を結んで目をそらした。
アミュウは何かを弁明しなければならないような気がしたが、何をどうやって説明したらよいのかまったく分からなかった。聖輝はアルフォンスのだらしなさを嫌悪しているのか。頑なに聖輝を拒む姿勢が聖輝の気に触ったのか。住み込みなど古くさいと呆れているのか。
迷った末にアミュウの口から出た言葉は、自分でも驚くほど心許なく、軽々しく聞こえた。
「ああ見えて、立派な先生なんですよ」
聖輝は「そうですか」と言ったきり、口をつぐんでしまった。
表通りに出てみると、馬車鉄道中央広場東西線の魔術学校停留所にちょうど馬車が入ってくるところだった。アミュウは片手を挙げて御者に乗車の意を伝える。
手すりを頼りに高い車体へよじ登り、客席に腰をおろしてしまうと、二人の間を気まずい沈黙が支配した。アミュウは右の車窓を、聖輝は左の車窓を眺めたまま、中央広場で南北線に乗換え、ピネードへと戻っていった。




