5-20.師は今
アルフォンスの年老いた両親は、以前はこの家で暮らしていたが、アミュウがアルフォンスに弟子入りしてあれこれと彼の世話を焼くようになってからは、南区のアパルトマンの地上階へ夫婦で移っていった。弱った足腰に階段が負担だったらしい。そんなわけでアルフォンスはこの三階建ての家をたった一人で使っていた。アパルトマンでの狭苦しい暮らしが大多数を占めるここソンブルイユでは、かなりの贅沢だ。
しかし、アルフォンスはその恵まれた住宅事情のわりに、生活の質を上げることには成功しなかった。両親の部屋はそのまま書物やがらくたを溜め込む倉庫と化した。彼の悪癖は、片付けをしないという点ばかりでなく、仕事と生活の場を区別しない点にもあった。
居間にたどり着いたアミュウと聖輝は、長椅子の上に散らばった本を応接テーブルの上に移動させてから座った。なお、応接テーブルの上はアルフォンスが何やら書き散らかした紙で既にいっぱいになっていたので、アミュウは遠慮なくその上に本の山を築いた。
アミュウはオーバーを脱ぐと長椅子の端に畳んで置いた。青い綾織のスカートが広がる。派手さも華麗さもないが、空に宵闇の迫ってくるような、光の具合で色合いの変わる生地が気に入って、ワンピースに仕立ててもらったものだ。ビブヨークのピンタックも、襟元やカフスにあしらわれた繊細なレースも、セドリックはアミュウの希望を全てそのままテイラーに伝えてくれた。恐らく彼自身はその服飾用語の意味を少しも理解していなかっただろうが、テイラーはアミュウの思い描いていたとおりの服を、アミュウの体型に合わせて仕立て上げた。あまりに理想通りだったので、かえって出来上がった服をしまいこんでしまったほどだ。人前で着るのがもったいなく感じられたのだった。
ほんの一瞬、聖輝が視線をよこしてきたが、アミュウは気付かないふりをした。聖輝はすぐにうな垂れて、それきり何も言わなかった。アミュウは膝の上で手を組み合わせた。聖輝の視線に反応せずにいて良かったと、アミュウは心底思った。見当違いの期待を気取られるほどみじめなことはない。
アルフォンスが垂れ眉を八の字に歪めて居間に入ってきた。
「ねえアミュウ、お茶っ葉ってどこにあったっけ」
「知りませんよそんなの」
「あはは、それもそうか。おかしいなぁ、どこへやったかなぁ」
隣の聖輝は無表情を崩さなかったが、思いっきり怪訝そうにしているのがアミュウには分かった。彼は片手を挙げて言った。
「お構いなく。茶は結構です」
「あ、あった」
アルフォンスは窓際の作業台に放置されている、最新型の複式顕微鏡の裏側からキャニスターを発掘した。アミュウはこめかみを押さえた。
「なんでそんなところにあるんですか」
「光源を調整するのにちょうどよかったんだよね。ほら、こうやってこの上にランプを載せてさ」
「貸してください。私が淹れてきます」
「いいの? 悪いね」
「先生、お水はちゃんと取り換えてるでしょうね」
「うん。昨日汲んだばかりだよ」
今朝は水汲みをさぼったのかと、アミュウは肩を落とす。そのままキャニスターを手にして台所へと向かった。
炊事場は想像していたよりはよほど整理されていた。水場のほかはほとんど使われていないらしい。
この家には立派なキッチンストーブが備わっていた。カーター邸のものよりも小ぶりだが高機能な製品だ。そもそもカーター邸の設備は、王都で流行していた薪オーブンの型落ち品をセドリックがイルダのために買い求めたものなのだ。イルダやナタリアがこのストーブを見たら目を輝かせるだろう。
(まったく、宝の持ち腐れね)
アミュウは火室に薪を少量組み、火打石で火口を燃やして慎重に火を着ける。炎が大きくなるのを確かめてから炉の扉を閉め、水で満たしたケトルを天板に載せた。
湯が沸くのを待ちながら、アミュウは居間で初対面の聖輝とアルフォンスがどんな会話をしているのだろうかと気を揉んだ。見たところ、聖輝のアルフォンスに対する第一印象は最悪だ。二人が歓談している場面が想像できない。
アミュウは換気のために倒し窓を開けた。侵入してくる寒気に身震いしたところで、自分はどうだったろうかとはたと思い直した。アミュウ自身がアルフォンスに対して抱いた第一印象はどんなものだっただろうか。
(ねえ君、まだ若いのにそんな資料を読むのかい)
休学後もなお通った学校の図書館で、アミュウはアルフォンスに声をかけられた。もう六年も前の出来事だ。正直に言って、そのときアルフォンスがどのような格好だったか、どんな声だったか、アミュウはまったく覚えていなかった。まさに「知らないおじさん」そのものである彼に誘われるままカフェへ行き、身の上を語り、そのまま彼の背中を追ってこの階上の工房までやってきた。その頃はまだ彼の両親が同居していたので、部屋はここまで荒れていなかった――
ケトルの口からしゅんしゅんと湯気が噴き出ていた。アミュウはミトンを手に嵌め、ティーポットに少量の湯を注いで温めた。ミトンの在り処は以前と同じ、キッチンストーブの脇にあるフックのままだった。流れるような手つきで茶の支度を整えながら、アミュウは知らず笑っていた。アルフォンスに師事していたころは、日に何度も茶を淹れていた。当時に戻ったようで、なんとなく楽しいのだ。しかし浮ついた気分は、キャニスターの中の茶葉を見た途端にしぼんだ。香りのすっかり飛んだ茶葉は、いつ購入したものなのか分からないほど古かった。下手をすると、アミュウがいたころのものかもしれない。
およそ生活能力というものを一切持たないアルフォンスが、ひとりでどんな暮らしをしてきたのか。アミュウは、カーター・タウンに戻らずにアルフォンスの元に留まっていたらと想像せずにはいられなかった。一瞬、そのほうがよかったのではないかとまで考えた。カーター・タウンに戻らなければ、アミュウは聖輝やジークフリートに出会うこともなかった。アカシアの記録を夢に見ることも、ナタリアが失踪することもなかっただろう。
しかし茶を蒸らし終え、ボウルに注ぎ分けるころには、アミュウは気を取り直していた。アミュウがカーター・タウンにいようがいまいが、聖輝はナタリアの元へたどり着いていただろう。そしてさっさと彼女を連れ去り、宿願とやらを果たしていたまでだ。
(私は無力かもしれない――でも、ナターシャがさらわれていくのを指をくわえて見ているなんて、できっこない)
ボウルの中で波打つ茶の香りは薄かったが、水色は案外と鮮やかだった。
茶盆を抱えて居間に戻ると、聖輝とアルフォンスの間には予想通り険悪な空気が漂っていた――否、浮かない顔をしているのは聖輝ばかりで、アルフォンスは何やらにこにことおしゃべりをしている様子だった。
「ああ、アミュウ。ありがとう。久しぶりのお茶だよ」
アルフォンスはアミュウから茶のボウルを受け取ると、ずずっと啜って心底嬉しそうな笑みを浮かべた。聖輝はアミュウの差し出すボウルを見てさらに顔を曇らせた。
「このお椀は確か、アミュウさんの使っていた……」
「あれ? まだ持っててくれたの?」
アルフォンスは破顔して、白磁に藍色の野ばらが描かれた、何の変哲もないボウルを目の高さに持ち上げる。
「お餞別にあげたやつだよね。もう三年も経つのに、お互い割らずにいられたなんてすごいね! 大切にしてくれてありがとう」
「きっと割っちゃうだろうなと思ってました……ちょうどいいサイズで、毎日使ってました」
アミュウはぼそぼそと答えながら、聖輝の隣に座ろうとした。長椅子の両端には荷物やらオーバーやらを置いていたので、そのまま座ると腰と腰が触れあいそうな位置だった。アミュウは荷物を膝の上に抱えなおしてから腰かけた。聖輝は茶には口を付けず、硬い表情のままアルフォンスに問いかけた。
「それで? コンスタン先生はなぜ空間制御を研究テーマに選んだのですか?」
「なんとなくだよ」
のらりくらりと応えるアルフォンスを、聖輝はじっと見据えた。
「そんなに怖い顔をしないでよ、お兄さん」
「聖輝さんよ」
「そうそう、セーキさん」
アミュウの指摘をにこやかに受けて聖輝に視線を戻すと、アルフォンスは口元を笑みの形に保ったまま、眉を寄せてみせた。
「研究は失敗だったんだ。格好悪いから、そのことは触れまわらないでいてもらえると助かるな」
弾かれたように顔を上げたのはアミュウだった。アミュウは今でも鮮明に思い出せる。アルフォンスと激論を交わした夜を重ね、はじめてこの家の一階と二階の空間を繋いだときのことを。二階のアルフォンスの部屋の床に何度も魔法陣を描き直しては、中央に青林檎を配した。その魔法陣と、ちょうど今アミュウたちが向かい合っているこの一階の居間を「繋ぎ」、アミュウは魔法円から青林檎を取り出してみせたのだ。二人とも腰を抜かし、手を取り合って喜んだ。その後、林檎の皮を剥いて二人で分け合って食べたのだった。林檎は既に古くなっていてスカスカだったので、皮剥きに苦労した。
実験は大成功だった筈だったのだ。アルフォンスはその後まもなくアミュウに故郷へ帰るよう勧めた。アミュウとしてはもう暫くソンブルイユで研究を続けていたかったが、やがて故郷カーター・タウンに残るメイ・キテラの役に立ちたいという気持ちが膨らんだ。そして餞別のティーボウルを割らないように慎重に抱え、駅馬車に乗り込んだのだった。
あの日々を「失敗」と断じるとはどういうつもりなのか。アミュウは納得がいかないまま口を開こうとするのを、アルフォンスは笑顔で制した。
「アミュウもだよ。僕のところで学んだことは、綺麗さっぱり忘れた方がいい」
アルフォンスの口角は微笑みをたたえて上向いていたが、その目は笑っていなかった。
(それはかなり危険な研究ですね)
突如アミュウの耳に、聖輝の言葉がよみがえった。アルフォンスの下で空間制御の研究をしていたことを聖輝に話したとき、聖輝はそう言っていた。アミュウの口元が自然と引き締まる。
「何かあったんですね、先生」




