5-19.第二の師【挿絵】
アミュウは歩道を東へ向かって歩き始めた。魔術学校方面へは馬車鉄道中央広場東西線が走っているが、アミュウは徒歩を選んだ。
大通りの左右は五階建ての建物が隙間なく並び、それ自体が壁であるかのようだった。やがて街路樹はナナカマドからマロニエへと移り変わる。鈴なりの赤い実は姿を消し、マロニエの灰色の枝が、無機的な街区に曲線を描く。街は彩度を一層落としていた。
この辺りは文教地区で、書店や資料館、学生向けの商店が並ぶ。裏路地に入れば学生寮だらけだ。アミュウの使っていたステュディオもこのあたりだった。
聖輝を先導しながらアミュウは口火を切った。
「私が精霊魔術を使えないのは、聖輝さんも知っているでしょう」
聖輝の相槌を背後に確かめて、アミュウは話を続けた。
「それで私、魔術学校に入ってすぐドロップアウトしたんです。お父さんは休学扱いにしてくれたけど、結局私、学校には戻れませんでした。そうして腐っていた私を拾ってくれたのが、私の二番目の先生なんです」
「では、これから行くというのは」
「ええ」
アミュウは頷いた。
停留所に留まっていた馬車を追い越すとき、マロニエの枝に残っていた縮れた枯れ葉が音もなく落ちてきた。
かつて通い詰めたブーランジェリーの前を過ぎるとき、アミュウの口の中に、来る日も来る日も食べ続けたサンドウィッチの味が広がった。休学し、無為に過ごす日々の中で、幽霊のように足を引きずり買い求めたあのバケットサンド。毎日同じものばかり購入していたので、しまいには黙っていても店員が品物を出してくれるようになった。店の佇まいが気になって思わず足が止まりかけたが、ペンキの剥げた鎧窓は閉まっていて店内の様子は見えなかった。
そのまま歩を進めると、間もなく煉瓦造りの校門が見えてきた。門扉は閉ざされている。足早に通り過ぎるアミュウの後ろで、聖輝がもの言いたげに歩調を早める気配がしたが、アミュウは振り返らなかった。
魔術学校を過ぎてしまうと、東側の街壁の櫓がぐんと近付いて見えた。アミュウは煙草屋の角でようやく大通りを離れた。
一歩小路に足を踏み入れると、とたんに生活のにおいが充満する。狭い道の上では、左右のアパルトマンの各階の窓をつないだロープに色とりどりの洗濯物が干されていて、風のない今ははためきもせずにじっとアミュウたちを見下ろしていた。煙のにおいが流れてきたほうを見上げると、洗濯物の向こうにバルコニーで震えながら葉巻をふかす老人の姿が見えた。足元には枯れた植物の植木鉢がうちやられていて、土の表面は苔むしている。
アミュウは不意に奇妙な感覚を覚えた。絶望の淵にいた十二のアミュウは、他に行く当ても頼るつてもなく、やりきれない不安を抱えたまま師の背中を追ってこの道を歩いた。今、アミュウは同じ道を聖輝を伴って歩いている。心強いとは言えないまでも、少なくとも十八のアミュウはひとりきりではなかった。当時は思ってもみなかったことだ。
小路の脇に狭く傾斜のきつい鋼材の階段が姿を現す。この折り返し階段を上りきると師の家だ。アミュウはこの階段を行き来するたびに、どうやって室内へ大型の家具を運び込んだのか不思議に思ったものだ。
師事し始めたばかりのころ、どうしてこんなところに階段があるのか師に訊ねたことがある。なんでもこの場所には切り崩すことのできない硬い岩根があったらしい。それでも先人は狭い壁内街区の土地を有効活用しようと、岩の上に家を建てた。それが師の家だ。ソンブルイユの建築物の高さ制限は厳格で、この岩盤の高さの分だけ師の家は階数を減らさざるを得なかった。そんなわけでこの家は三階建てとなっている。折り返し階段の階下スペースは、この地区の倉庫として活用されていた。岩の硬いところを避けて掘られているため、歪な形をしている。階段の入口には矢印の形の木の板が据え付けてあり、そこにはこう書いてあった。
「コンスタン魔術工房」
アミュウは二階分の階段を上る。後ろからついてくる聖輝の気配を背中に感じながら階段を上りきり、テラスへ出た。滅多に使われることのない石窯が備えつけられており、薪棚の燃料はそろそろ底を尽くかという具合だった。バケツやらハンマーやら、あらゆる道具が外壁沿いに寄せられていて、雑然としていた。このテラスにはカフェテーブルを置ける程度のスペースがあるが、もっぱら物干し場となっている。今も物干し台に洗濯物が下がっていた。空色の格子柄のタオルは見覚えがあった。三年前、アミュウがソンブルイユを離れるときにも使われていたものだった。懐かしさと気恥ずかしさがいっぺんにアミュウの胸を満たす。
番犬を模ったノッカーを鳴らし、暫く待ってからさらにもう一度鳴らすと、屋内から聞こえる足音がだんだんと近付いてきた。
「どちらさま――」
ガチャリと開いた扉から顔を出した人物は、アミュウの姿を目にして凍りついた。彼が言葉を失っている数秒間、アミュウはじっくりと師の反応を見物した。小さな丸眼鏡のレンズの奥の瞳は視線が定まらず、鼠色の瞳には見上げるアミュウの姿が反映されていた。てんでに好き勝手な方向を向いた眉は垂れ、半ば開いた口周りや弛緩した顎には髭が目立つ。着古したシャツもくたくたのジレも見覚えがある。伸び放題の栗毛の髪はうなじでひとつに縛られ、うねり、膨らみ、腰周りで跳ねていた。
師は口元をへらっと緩めて言った。
「髪が伸びたね、アミュウ」
「先生は伸びすぎです。どうせあれから一度も床屋に行っていないんでしょう」
「適わないなぁ」
アミュウはくるりと聖輝に向き直る。聖輝は表情に乏しく、わずかに眉根をひそめて男を見ていた。
(聖輝さんだってだらしのないところはあると思うんだけどなぁ)
アミュウは笑顔を取り繕って師を紹介した。
「こちらアルフォンス=レヴィ・コンスタン先生。前に話したとおり、空間制御の魔術の研究をされている、私の二番目の先生よ」
「ああ、それなんだけどね……いや、まあいいや」
アルフォンスは言葉を濁してから聖輝ににっこりと笑顔を向けた。
「どうも」
彼はインク染みのついたペンだこだらけの手を聖輝に向けて差し出した。聖輝はその場に留まったまま軽く頭を下げた。
「……セーキ・ミカグラです」
アルフォンスは手を引っ込めてから、アミュウが止める間もなくトラウザーの尻で拭った。擦り切れ、染みだらけのパンツがさらに汚れる。彼は悠々緩々たる態度でアミュウと聖輝を見回して言った。
「こっちへ戻ってきたんだね。どうしたんだい」
「ちょっと色々あって……長く滞在するつもりではないんですが」
アルフォンスは「ふぅん」と頷くと、玄関扉を目一杯開いた。あちこちに堆くガラクタの積み上げられた廊下が見えたが、その奥は見通せない。アミュウはため息をついた。
「上がっていくだろう?」
「こんなに散らかっていて、上がれるんですか」
「問題ないよ。さあ、そちらの立派な御仁も」
「聖輝さんよ」
「そうそう、セーキさん」
聖輝の眉がぴくりと上がった。下の名前で呼ばれたのが気に食わないらしい。
(誘われて浮かれていたけど、一緒に来ない方がよかったかしら)
アミュウはガラクタの山を分け入りながら、懐かしい師の工房の居間へ向かって進んで行った。




