5-18.博物館
カーテンの閉ざされた暗いエントランスを横切り、さらに暗い廊下を進んだ突き当りで、ラコルヌ館長はスモックのポケットから鍵束を取り出し、奥の扉を開いた。薄明かりが廊下に漏れ、ぼんやりと広がる。
促されるままに部屋に入ると、そこは存外に広いホールとなっていた。整然と並んだ展示ケースが冷たく直線的な反射光を放っている。その光源はどこにあるのかと見てみれば、エントランスと同様にカーテンが引かれている中に一箇所、ゆらりと動いているところがあった。ラコルヌ館長は展示の合間を縫ってそこへ向かうと、そのカーテンを開けて見せた。
窓ガラスが割られていた。アミュウは思わずショールの上から自らの二の腕を抱いた。防犯のために外側から板が打ちつけられていたが、その隙間から冷たい風が入ってくるのだ。
展示スペースを確保するためなのだろう、窓はアミュウの目線よりもかなり高い位置にあった。ぎりぎり手の届くかどうかという位置にネジ鍵が取り付けられている。一般的な閂式よりも防犯性は高そうだが、窓ガラスには腕を楽に差し入れられるほどの大きさの割れ穴が口を開いていて、外から開錠されたことがたやすく想像できる。
ラコルヌ館長は板の間から漏れ入る光に目を細め、短いあごひげを引っ張りながら言った。
「毎年正月の五日間が休館日なんですが、私は一日にいっぺんは様子を見に来ることにしとるんですよ。植木の水やりをせねばならんですからに。すると元旦に、窓が割られているじゃないですか。驚いてすぐに軍警を呼びました。しかしよくよく点検してみたところ、収蔵品には何の被害もなかったことが分かりました。単なるいたずらですよ」
ラコルヌ館長は振り返ると腕を振ってホール全体を示した。古い農具に建築模型、精霊鉄道の軌道敷設に用いられた工具や枕木が、弱々しい光に彩度を失ってその陰影のみ浮かび上がらせている。
工芸品や美術品の並んだ一画があり、聖輝はそこに向かってゆっくりと歩いていった。
「ですから新聞に載るほどのことでもなかったんです。軍警さんが中央広場周辺のパトロールをするようになってもう十年以上、こんなことはなかったんですがねぇ……」
ラコルヌ館長が聖輝の後を追う。聖輝はガラスケースの中に並べられた武具類をじっと見下ろしていた。彼の背後から説明書きを覗きこんでみれば、革命時に用いられた標準装備であるらしい。歩兵用の矛槍や、弓兵のクロスボウ、そしてカノン砲。車輪や砲台の錆び具合からはおよそ信じがたいが、現役の型式らしい。
ラコルヌ館長が聖輝に声をかけた。
「そうそう、靴跡の泥がちょうどこのあたりまで来ていました。もう掃いてしまいましたがね」
「展示室はここだけですか」
「いえ、生物標本を置いている部屋があります。案内しましょう」
一行はホールから廊下へと出た。ラコルヌ館長は、アミュウと聖輝が退室するのを待ってからホールに施錠すると、鍵束から別の鍵を探り当てて廊下中ほどの扉の鍵を開けた。
そこは窓のない部屋で、陳列棚は暗がりに沈んでいる。強烈な薬品臭が室内から漏れ出た。ラコルヌ館長は灯りを取りにどこかへ行ってしまった。
アミュウは小声で聖輝に訊ねた。
「……取材だなんて、なんのつもりですか」
「現地を確認しておきたかったんですよ。悠長に開館日を待っていられなさそうだったので、少々乱暴ですが突撃してしまいました」
「だから、どうしてこんなところに」
聖輝はアミュウの質問には答えずに、羽織の裾をちょっと持ち上げて袴の足を差し出した。
「どうですか。少しは貫禄が出て見えるでしょう。編集長って雰囲気じゃありませんか」
「……そのためにわざわざ着飾ったの?」
「まさか。正月ですよ。アミュウさんに恥をかかせられないじゃないですか」
聖輝がしれっと言ってのけたので、アミュウはぎょっとして半歩後ずさった。聖輝はアミュウの部屋に来たときから既に袴姿だった。はじめからアミュウを誘い出すつもりだったらしい。鳳仙花の種子が弾けるように、アミュウの頬が熱くなった。
返す言葉の見つからないうちに、ラコルヌ館長が古風な燭台を手にして戻ってきた。
「年末に備え付けのランプの油を抜いてしまいましてなぁ。ちっぽけな灯りで申し訳ない」
アミュウは頬の火照りを聖輝に悟られぬよう、ラコルヌ館長に道を譲る素振りで聖輝の後ろに隠れた。彼の背中ごしに室内の様子をうかがうと、鳥や小動物の剥製や、得体の知れない液浸標本の瓶が所せましと並べられていた。奥の壁には蝶や甲虫、魚類の乾燥標本のパネルが掛けられている。
アミュウの興味は全面的に生物標本の方へ向いた。アミュウは小さな歓声を洩らすと、先ほどまでとは別の興奮に頬を染めて、陳列棚の間へ吸い寄せられるように駆けていった。
「若い女性がこの手のものを怖がらないとは、感心ですな」
ラコルヌ館長が目を細める。先ほどのホールの展示と比べると、この部屋の展示はゆとりがない。来館者に見せるためというよりは、資料室としての性格のほうが色濃いのだろう。
「まるで眠っているみたい」
百足の脚はべっ甲の櫛歯のように繊細で、淡く色あせ、液体の中で夢をかい探っているようだった。アミュウが標本に見入っているあいだに、聖輝がラコルヌ館長に訊ねた。
「大晦日の夜も、この部屋の入口は施錠されていましたか」
「もちろんですとも。展示物保護のため、ご覧のとおりこの部屋には窓がありません。扉がこじ開けられた痕跡もありませんでしたから、泥棒もどきがこの部屋に入った可能性はまず無いでしょうな」
「ホールの入口も?」
「ええ」
「では侵入者は、あのホールに入っただけで引き返していったということでしょうか」
「まあ、そういうことになるでしょうな。とんだ悪戯ですよ。お陰で私の正月は吹っ飛びました」
二人の会話を聞きながら、アミュウの関心は熊や狼の剥製標本の後ろの壁に掛けられた大型標本に集中していた。黄ばんで表面の剥離しかけたその物体は、大人の腕程の長さがあり、錘状に弧を描いて鋭くとがった先端をいからせている。
「気になりますか。それは牙ですよ」
部屋の陰影が揺れ、光源とともにラコルヌ館長がアミュウに近付いてくるのが分かったが、アミュウはその牙の標本から目が離せなかった。
「こんなに大きな牙を持つ動物って――象ですか」
ラコルヌ館長は声を立てて笑った。
「象は大昔に死に絶えましたろう。ここにある牙は本物です。革命時代のソンブルイユの街を襲った、ある巨大なけもの。とても身近な生き物ですよ」
アミュウは恐る恐る答えた。
「……イノシシ?」
「猫です」
アミュウと聖輝はラコルヌ館長に礼を述べてエントランスを出た。ラコルヌ館長は博物館の中へと戻り、内側から錠を鎖す音が聞こえてきた。館内の暗さに慣れた目を、容赦なく日光が刺す。アミュウは目を細めて深呼吸し、外気を胸いっぱいに吸い込んだ。
聖輝は建物の周りをぐるりとめぐって、例の割られた窓のところで足を止めた。屋内の床はかさ上げされているらしく、ホールの中から見上げたよりもさらに高い位置に窓があった。聖輝が窓に向かって手を伸ばすと、ぎりぎり窓枠に手がかかるかという具合だ。背の高い彼ですら、ガラスの破片を避けてネジ鍵を開けるには足掛かりが必要となるだろう。周囲に踏み台となりそうなものは見当たらない。
聖輝は割れ窓を見上げたままアミュウに訊ねた。
「年越しのミサで人通りの少なくなるタイミングを狙っている。館内に侵入するには、門を乗り越えあの高さの窓へよじ登らなければならない。単なるいたずらに、これだけの苦労をかけると思いますか」
アミュウは首を横に振った。
「博物館の防犯対策は充分だったと思います。それを破るからには、リスクに見合う目的があったのかもしれないけど――でも、何も盗まれていないのでしょう。犯人の意図がさっぱり分かりません」
聖輝は「そうですね」と頷いて、なおしばらくその窓を見上げていたが、やがて羽織の裾をひるがえして門へと引き返して行った。
「さて、私の用事は終わりました。次はあなたの用事に付き合いますよ、アミュウさん」
アミュウは腑に落ちない思いのまま鉄門をくぐり抜け、聖輝とともに博物館を後にした。




