5-15.再び、三角貿易
遅れてやってきたヤサカがマリー=ルイーズとルシールを客間へと案内し、茶を淹れた。アミュウは隣に座るジークフリートの足指が靴下の中でもぞもぞと動いているのを見た。彼が感じているであろう居心地の悪さはもっともだ。出しなの来客に苛立っているというだけではない。マリー=ルイーズが今日身に着けているのは、二の腕までをケープのように覆う贅沢なレース襟のワンピースで、一目で彼女が上流階級の出身であることが分かるものだった。どういう態度をとればよいものやら、戸惑っているのだろう。
マリー=ルイーズはヤサカにごく簡単に礼の言葉を述べてから、茶で喉を湿し、口火を切った。
「元日から押しかけてしまったことをどうか許してくださいませね。わたくしといたしましても、もう少し時と場所を選びたかったのですが、自由に外出できる時間がほかになかったものですから」
「ドゥ・ディムーザン枢機卿猊下が城の年賀式に参加されているあいだだけが、お嬢様が行き先を告げずに別邸を出ることのできる時間なのです」
マリー=ルイーズの隣に座るルシールが補足した。
「それって、枢機卿全員が出席するのかしら」
アミュウの問いにマリー=ルイーズは首肯した。隣のジークフリートが呟く。
「だから帰ってこねえんだな、聖輝の親父」
マリー=ルイーズは座卓からすこし離れたところに控えるヤサカへ目を向けて言った。
「聖輝様がお休み中とうかがってほっとしましたわ。起こしてしまわないうちにおいとまするので、わたくしたちが来たことは聖輝様のお耳に入れないでくださいね」
ヤサカは曖昧な笑みを浮かべると、茶盆を持って退室した。ヤサカの手により静かに閉められた襖を見ながらアミュウは複雑な思いを抱いた。聖輝に会いたいとは思わないのだろうか。マリー=ルイーズに目を向ければ、彼女はにこりと微笑み返した。アミュウは疑問を投げつけるかわりに、こう口にした。
「昨日、偶然ガリカに会ったんです。どうしてこの街にいるのか不思議だったのだけど、マリーさんと一緒にソンブルイユへ来ていたんですね」
「アミュウさんとナタリアさんがお帰りになってから、大切なことに思い当りましたの。一刻も早くお伝えしたかったのに、既に宿を発たれたあとで――でもわたくし、ピンときましたわ。ちょうど鉄道が動き始めたところだったでしょう。きっと皆さんは王都へ向かったのだろうと踏んで、お正月にかこつけてここまでまいりました。ちょうど父が王都におりましたから、会いに行くていで屋敷を出ましたの。それにしてもこんなに早くお会いできるなんて思いませんでしたわ」
マリー=ルイーズは、彼女にしては早口で事情を説明した。時間がないというのは本当なのだろう。
「大切なことって?」
「……ナタリアさんにもお話しすべきことなのですが」
アミュウの問いに、マリー=ルイーズは言葉を切った。アミュウはジークフリートと顔を見合わせてから、ナタリアの失踪についてごく要点を絞って彼女に説明した。
「すみません。お預かりしていたピッチまで行方不明になってしまって」
ことの経緯に目を丸くしていたマリー=ルイーズだったが、詫びるアミュウに首を振って応えた。
「ご心痛、いかばかりかと。ナタリアさんの居場所にお心当たりはあって?」
マリー=ルイーズの黄金色のまなざしにはいたわりの光が揺れていて、その気遣いがアミュウの気持ちをぐらつかせた。鼻の奥をツンと刺して湧き上がってくる涙の気配に、アミュウ自身が驚いていた。
「おい、大丈夫か」
隣でジークフリートが腰を浮かす。すかさずルシールがハンドバッグの中からレースのハンカチを取り出し、あるじに手渡す。マリー=ルイーズはそのハンカチをアミュウに差し出した。
「まさかそれほど大変なことになっていたなんて。突然押しかけてしまって、ご迷惑でしたわね……」
「いいんです。取り乱してしまってごめんなさい」
アミュウは借りたハンカチで目頭を押さえて言った。
「そんなわけでナターシャはいませんが、わざわざここまで来たからには、本当に大切なお話なんでしょう? 私でよければ聞かせてください」
マリー=ルイーズが傍らのルシールを促すと、ルシールは今度は帳面を取り出し開いて見せた。それは新聞の切り貼りだった。記事の内容には見覚えがある。
「……三角貿易じゃねえか、これ」
反応を示したのはジークフリートだった。
「そう、十二月二十六日の記事です。ご存知?」
「ゴゾンジも何も……」
ジークフリートは眉を八の字に曲げたが、マリー=ルイーズは説明を続けた。
「なら話は早いですわ。ブリランテ自治区の過激派組織が、ラ・ブリーズ・ドランジェとクーデンに拠点をおいて、資金洗浄をはかりながら規制兵器を密輸していたという事件です。おととい続報がありました。こちらをご覧ください」
そう言ってマリー=ルイーズは帳面をめくった。そこには前葉よりも小さな記事が貼り付けてあった。
<三角貿易主犯格脱走か>
規制兵器密輸の疑いで留置されていた容疑者らのうち、ブリランテ自治区に主な拠点をおく武器商人カルロ・リッチ(四十一歳、通称カール・リンデマン)が脱走した。容疑者らが拠点としていた港湾地区の事務所からは、有力な情報は見つかっていない。当局はソンブルイユ軍警察の協力のもと捜査に当たっている。
「カールのやつ、逃げ出したのか」
「……お知り合いなのですね」
マリー=ルイーズの問いにジークフリートはかすれ声で「ああ」と答えた。アミュウは、初対面も同然のマリー=ルイーズに対して事実をごまかさないジークフリートの態度に感心しつつ、マリー=ルイーズに水を向けた。
「確かに私たちはこの事件に少なからず巻き込まれました。けど、私たちはこの密輸について何も知らなかったし、ラ・ブリーズ・ドランジェの警察にもきちんとその旨説明済みです。今さら何が問題になるんですか?」
マリー=ルイーズは柱時計にちらりと目を走らせると、密輸事件とアミュウたちの関わりについては訊ねずに、やや勢いづいて話し始めた。
「簡単なことです。密輸グループが次にどんな行動を起こすか、想像してごらんくださいな。
自由闊達な気質のラ・ブリーズ・ドランジェ市民は、ブリランテ自治区が力をつけて独立しようとしているのをむしろ歓迎しております。商いのルールは必要最小限であることが望ましいですから。そうは申しましても、王都が介入しては動きようがございません。この記事にあるとおり、ラ・ブリーズ・ドランジェ警察は彼らを排除せざるを得ませんし、彼らとしてもそのことは充分に承知でしょう。ラ・ブリーズ・ドランジェ港で再び活動することは困難です。
……さて、彼らはいったい次にどこへ向かうでしょうか」
そこまで聞いてから、アミュウは初めて気が付いた。東部でまともな港湾設備のある町は、ラ・ブリーズ・ドランジェのほかにひとつしかない。
「カーター・タウンにやってくるってことね」
マリー=ルイーズはアミュウを見据えたまま頷いた。
「新たな拠点を築こうと、彼らはきっとカーター・タウンに目をつけます。あなた方のお父上はブリランテ情勢に関して中立のお立場であると聞き及んでおりますが、違ったお考えの方々もいるのでは」
アミュウは故郷の牧師マッケンジー・オーウェンの顔を思い浮かべた。いかにも凡庸な男だが、アミュウたちの大叔父であるケインズと結託してからは、多分に政治色の強い自説を説教に織り交ぜるなど、あからさまにケインズを援護していた。さらに、聖輝が以前、教会におけるマッケンジー牧師の立場はブリランテ独立を阻む国王派であると話していたことを思い出す。
「密輸グループがカーター・タウンで活動を再開するとして、マッケンジー先生がそのことを嗅ぎつけたら、きっとケインズおじさんの耳に入れるはずだわ。あのおじさんのことだから、お父さんの手落ちだと糾弾するでしょうね」
「選挙がお近いのでしょう。注意が必要ですわ」
マリー=ルイーズはそこまで話すと、音も無く茶の残りを飲み干した。ルシールが立ち上がり、衣桁に掛けていたマリー=ルイーズの外套を手に取った。
「わざわざ報せに来てくれたんですね」
腰を浮かせたアミュウのもとへマリー=ルイーズはいざり寄り、その手を取った。色素の薄い髪が肩からこぼれ落ちて、縁側のある窓から鈍く広がる光をはじき返す。
「ナタリアさんが早く見つかりますよう、祈っております。何か情報がありましたらご連絡しますわ。もしまたここからどこかへ移動なさるときは、どうかわたくしにお知らせください。いつでもお手紙が書けるように」
アミュウの胸が詰まった。聡明だが世間知らずなこの令嬢が、アミュウに心を寄せているのは真実なのだと感じ入った。アミュウは、箸より重いものを持ったことがないような彼女の端正な手を握り返した。
ルシールが座卓の上にそっと差し出した名刺から、オレンジの香りが弾けてアミュウの鼻にまで届く。名刺にはディムーザン邸の所在地が印字してあった。
マリー=ルイーズはアミュウの手を離し、立ち上がる。アミュウも立ち上がり、廊下へと続く襖を彼女のために開けた。
「きゃっ」
アミュウは悲鳴を上げた。廊下に出てすぐのところに、クマと頬の痣でひどい顔色をした聖輝が立っていたのだ。聖輝は徹夜明けの冴えない目線をマリー=ルイーズに向けた。マリー=ルイーズは一瞬目を丸くしたが、すぐに象牙色のワンピースの裾を持ち上げて礼を取った。
「ご挨拶もせずに上がりこんで失礼いたしました。その上、お休みのところを邪魔してしまって」
「いや、どうか気になさらず」
片手を挙げてマリー=ルイーズの釈明を受け流す聖輝に、アミュウはあきれて言った。
「立ち聞きだなんて趣味が悪いわ。いつからそこにいたんですか」
「ほとんど最初から。私がいては都合が悪いようだったので、乗り込めませんでした」
「まあ」
マリー=ルイーズが小さな声を洩らす。ヤサカが彼女の来訪を聖輝に報せたのだろう。後ろでルシールがため息をつく気配がした。聖輝はぼさぼさの頭を掻いて言った。
「だからあなたが焦っている事情も知っていますよ。御父君が帰ってくる前に別邸に戻らなければならないのでしょう。その前にひとつだけ教えてほしいのですが――ガリカとザッカリーニ。あの二人は今どこに?」
マリー=ルイーズは花びらのような唇を引き結んでから答えた。
「ロサはわたくしとともに王都へまいりました。本日は暇を与えております。カルミノについてはここ数日、姿を見ておりません。恐らく父の言いつけでどこかへ出かけているのかと」
「そうですか……」
聖輝は眉をひそめた。痣と目の下のクマも手伝ってやたらに人相が悪く見えたが、マリー=ルイーズはさして気に留めるふうでもなく、軽く頭を下げて言った。
「二人のことを気になさるのはごもっともです。皆様に不用意に関わることのないよう、わたくしからよく言っておきますわ」
聖輝はマリー=ルイーズたちをピネード停留所まで送っていくと申し出たが、彼女は丁重に断った。山道を降りていく二人の背中を見送りながら、アミュウは彼女の胸中に思いを馳せた。
聖輝は八年前にマリー=ルイーズとの縁組を断ったという。彼女は今日、どんな思いで御神楽邸にやってきたのだろうか。はじめに話していた「聖輝に来訪を告げないでほしい」という言葉に、彼女の本心がよく表れている気がしてならなかった。会いたさよりも気まずさのほうが勝っていたのだろう。しかし彼女はセドリックの立場が危うくなっているのを知らせに、わざわざここまで来てくれた。ロサとカルミノの暴挙についてマリー=ルイーズが金銭での解決を求めたことに、アミュウは不信感を抱いていたが、その重苦しい土塊はほろほろと崩れていった。




