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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第五章 たそ歌う ありし日を

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5-11.犬も歩けば

 アミュウと聖輝は連れ立って山を下り、川を渡って、馬車鉄道に乗り込んだ。ブールヴァール南北線の始発駅であるピネードからの乗客はアミュウたちのほかにいなかったが、市街地に入るとたちまち座席は人で埋めつくされた。車道には荷馬車が絶え間なく行き交っていたし、車窓から沿道を眺めれば、こちらも往来が激しい。中央広場で降車し東西線に乗り換えようとしたが、停車場には既に乗換え客が列をなしていた。間もなくやってきた車両はすぐに満員となり、のろのろと去っていく後ろ姿を見送らねばならなかった。


「すごい人出ですね」


 アミュウが思わず音を上げると、聖輝もうんざりとした様子で答えた。


「大晦日ですからね。特に今年はラ・ブリーズ・ドランジェとの物流が滞っていたから、年越しの支度が遅れているのでしょう。少し遠いが、歩きましょうか」


 そう言って聖輝は歩道を西に向かって歩き始めた。

 年を越してしまえば、五日間は市が立たない。ソンブルイユの中心街は、正月の支度に市場へと繰り出した人々でごった返していた。市を覆う赤と黄色のだんだらの幌はアミュウたちから離れているが、色とりどりの食材や飾りものの並んでいるのが遠目にも分かる。外套の下にエプロンをまとったまま、買い物用の頭陀袋を提げた主婦が、アミュウと聖輝の間を横切ってずんずんと市場に向かって歩いていた。

 広場から歩道側へと視線を戻せば、年末の挨拶回りにでも行くのだろう、シルクハット姿の夫と派手な羽飾りの帽子を戴いた妻という組み合わせが、判で押したかのようにそこかしこで見られた。どうやら羽飾りが流行しているらしい。そういえば、ナタリアが愛用していた帽子にも、長い尾羽があしらわれていた。アミュウは、田舎暮らしの身でありながら王都の流行を押さえていた姉の意外な一面を知った気がした。


 広場を抜けてしまうと、路面店の続く通りに出た。オートクチュールの華やかな店構えに心躍ったかと思えば、靴屋に並ぶ革靴の照り返す冬の陽射しが意外なほど鋭くて驚かされる。ブーランジェリーからは香ばしいにおいが漂ってきた。隣には色鮮やかな果実のジャム(コンフィチュール)の並ぶ食料品店(エピスリー)が軒を連ねている。扉に貼りだされた引き札に、アミュウはふと目を留めた。時おりは森の恵みをジャムに仕立てることもあったので、なんとなく気になったのだ。広告の片隅に掲載されている、黒スグリに胡椒を合わせたコンフィチュールの組み合わせが意外に感じられた。後ろから来た人に追い越されて、アミュウは慌てて歩調を戻した。


 灰色一色の石の街にあって、ナナカマドの並木に鈴生りにみのる赤い実がひときわ目を引く。まるで紅葉の時分のまま季節が止まったかのようだ。


(あの頃のまま時が止まっていたら)


 アミュウの脳裏を晩秋のカーター・タウンはずれの森の景色がよぎった。カルミノの脅威から逃げる形で小屋を追われたアミュウを、再び森へと連れ出してくれたのがナタリアだった。今思い出してみれば、姉の気遣いがいっそう胸に沁みる。あのときはジークフリートも一緒だった。そして小桑の実を求めるピッチと出会った。ピッチはジークフリートの赤毛に盛大に糞を垂れていた――


 物思いに耽っていたアミュウがはっとして顔を上げたときには、既に聖輝の背中は見えなくなっていた。アミュウは慌てて左右を見回した。人波の中のどこにも聖輝の姿が見当たらない。知らず早足になったが、人混みの中で走ることもできなかった。

 アミュウは蓮飾りの杖を両手で握りしめた。交通の発達したソンブルイユでは魔術による飛行が禁じられていた。そもそも、この人混みの中で飛び立つのは危険だ。


 人々の頭の向こうに見える大聖堂までは、まだ距離があった。聖輝はあそこに向かっていた筈だ。そう考えたアミュウが人の間を縫って先へ先へと歩を進めていると、突然ぐいっとショールを後方へ引かれた。

 アミュウはたまらず尻餅をついた。すぐそばを歩いていた通行人が、驚き半分、呆れ半分といった視線をアミュウに向けては、知らぬ顔で通り過ぎていく。アミュウは文句を言おうとして後ろを振り返り、言葉を失った。


 威圧感をもって佇みアミュウを見下ろしていたのは、ロサ・ガリカだった。


 ロサは汚いものに触れたかのように両手をパンパンと打ち払うと、冷ややかな声で言った。


「ひとりで出歩くなんて、度胸あるじゃないの」


 アミュウは即座に立ち上がり、数歩後ずさる。誰かの足を踏んだ。聞こえよがしな舌打ちが耳に届いたが、振り返って謝る余裕はなかった。アミュウが咄嗟に蓮飾りの杖を前に構えると、ロサはくつくつと笑った。


「馬鹿ね。こんな場所で火なんかぶっ放さないわよ」

「どうしてこんなところに……ラ・ブリーズ・ドランジェからここまで追ってきたの⁉」

「思い上がりが過ぎると不愉快ってもんだわ」


 ロサは眉をひそめて辺りを見回した。


運命の女(ファム・ファタール)とピノは?」

「こっちが教えてもらいたいくらいよ」


 売り言葉に買い言葉の勢いでアミュウは答えた。ロサはいっそう眉を寄せた。


「なに? はぐれたわけ?」


 ロサの問いには応じず、アミュウは精一杯ロサを睨み上げた。通行人たちは往来の真ん中で対峙する二人にさも迷惑だと言いたげな目線を寄越したが、長身のロサは彼らの声なき声などものともせずにアミュウを見下ろし続ける。彼女は森を襲ったときに着ていたのと同じ外套を身にまとっていたが、今はフードを外していたので、アミュウにもその表情が仔細に見えた。不機嫌そうな顔の奥にちらついた、戸惑いの色まで。


「ナターシャに用なら、おあいにく様。ここにはいないわ」


 アミュウが一押しすると、ロサは吐き捨てるかのように呟き、つま先で石畳を蹴った。


「――ったく、あの女といい、カルミノといい。どこをほっつき歩いてンだか」

「……あなたもザッカリーニとはぐれたの?」


 アミュウが怪訝な顔をすると、ロサは声を荒らげた。


「いちいち目ざとくあげつらわないで!」


 薔薇色のルージュを引いた唇を歪め、薄紅色に照り輝くブラウンの髪をぐしゃぐしゃとかき乱すと、ロサはアミュウに背を向けた。


「――あんたたちはどうせミカグラの豪邸でタダ飯でも喰らってるんでしょ。全部お見通しなんだから」


 そう言ってロサはずんずんと歩み去り、人混みに紛れていった。彼女が去っていったのは、アミュウが向かおうとしている大聖堂の方角だった。アミュウはロサの背中を見送ってからもなお慎重にその場に留まっていたが、どうやら本当にロサが行ってしまったらしいと実感すると、緊張の糸が切れ、その場にへたり込みそうな勢いで深く息を吐いた。

 ラ・ブリーズ・ドランジェにいるはずのロサがなぜこんなところにいるのか、考えてもさっぱり分からない。ナタリアとピッチを追ってきたのだろうか。


(とにかく、聖輝さんに追いつかないと)


 アミュウはすり減った気力を奮い立たせて、遠くに見える大聖堂に向かって再び歩き始めた。

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