5-10.レイ・ミカグラ
翌朝、アミュウとジークフリートは御神楽の当主、糺に向かってぎこちなく頭を下げていた。
大晦日の今日は真夜中に年越しのミサがあり、糺は常より遅れてソンブルイユ教会へ赴くらしい。まだ祭服に着替えておらず、褞袍を着込んだままだった。文机に書類と竹ペンを置き、糺は姿勢を正してこちらを見た。
「愚息が世話になっているね」
糺の顔立ちは聖輝とよく似ていた。聖輝が年を重ねれば、彼のような壮年男性になるに違いない。アミュウは聖輝に会うまではジャポネーズをあまり多く知らなかったが、ここ御神楽邸に来て深輝やヤサカ、ヒコジと会ってから、彼らの特徴がなんとなく分かってきた。彼らは黒髪に涼しげな黒目、つるりとした顔と黄みを帯びた肌を持っている。糺も例に漏れず、白髪交じりの黒い髪をさっぱりと短く刈り込んでいた。
「礼を言う」
糺の文机の脇に置かれた火鉢の鉄瓶が湯気を立てている。そのゆらめきを目の端に捉えながら、アミュウは再び小さく頭を下げた。
アミュウとジークフリートの後ろで、聖輝が肩をすくめた。
「父上、堅苦しい挨拶はやめてください。それよりも、アカシアの記録の話を」
糺はおもむろに息子へと顔を向けた。彼が目を細めると、ますます息子とそっくりだった。その表情から考えが読み取れないところも、よく似ている。
「深輝から聞いていないのか。仔細については私よりもずっと分かっているだろうよ」
「あの体には負担が大きい。これではなんのためにロウランドからここへ帰ってきたのか分かりません」
「お前もな」
そう言って糺は薄い笑みを浮かべた。聖輝はしれっと言い返した。
「まったくですよ。やっとの思いでソンブルイユまで戻ってきたというのに、街門の手前であんなことになって。ついていません」
「そうぼやくな」
糺がたしなめると、聖輝は困ったように破顔した。笑うと昨夜貼り直した膏薬のガーゼの隅がはがれかかった。
「ぼやきたくもなりますよ。アカシアの記録が読めなくなったというのは、手紙に書いたとおりです。知識としては頭にあるのに、まったくこの身に実感が伴わない」
アミュウは一連の父子の会話の様子を眺めながら、聖輝が口先では「まいった」と言いながら、姉に対して見せたような一種の甘えを、父の前では一切見せていないことに気が付いた。
隣から小さな舌打ちが聞こえてきた。張り裂ける寸前の鬼灯の実のように固く目を瞑るジークフリートの背中に、アミュウはそっと手のひらを添えた。ジークフリートは薄目を開けてアミュウに視線を寄越してきた。アミュウはその目をじっと見返す。すると、ふっとジークフリートの顔の強張りが緩んだ。アミュウは、彼の背中から手を離した。
ジークフリートの苛立ちはもっともだ。聖輝の「実感が伴わない」という言葉は、もちろんアミュウの神経も逆撫でしたが、その反感以上に、アミュウは聖輝が父親に対してどこか一線を引いているような節があることのほうが気になった。
「焦ってはいけないよ、聖輝」
糺の顔は息子のほうを向いたままだったが、手は文机の竹ペンを探っていた。
「お前も知っているだろうが、私はほとんどアカシアの記録を読むことができない。けれども、こうして大きな歴史の中で、ヴェロニクと出会い、深輝と聖輝を授かった。お前たちを育て上げることこそが私の使命だったんだよ。いま、御神楽には、優れた巫女である深輝がいる。お前の使命は重く大きいが、お前自身がアカシアの記録に触れられずとも、役目を果たせないわけではない。違うか?」
アミュウは糺の言葉から、どこか大袈裟な、芝居がかった印象を受けた。聖輝はと見てみれば、色を欠いた表情で浅く頭を垂れている。
「育ててくれたご恩を忘れた日はありません。父上のおっしゃる通りです。聖霊の申し子に連なる者として、必ずや使命を果たしましょう」
息子の返答に糺は満足気に頷き、手にした竹ペンをインク壺にかざしながらアミュウの方を見た。
「お姉さんの捜索には、我々も出来る限りの協力をしよう。無事見つかるまでは、ここを我が家のように思ってくれて構わない。気にせずゆっくりするといい」
それだけ言うと、糺は手元の書類に目を落とし、竹ペンを走らせた。それが退出せよとの合図だった。立ち上がった聖輝が引き戸を開けて、アミュウとジークフリートに部屋を出るよう促した。廊下へ出ると、朝の寒さが身に凍みた。
廊下を大きく回って客間に入ったところで、ジークフリートがぼそりと訊ねた。
「あの親父さん、いつもああなのか?」
聖輝は、ジークフリートが自分に声をかけたことに驚いたかのように軽く眉を持ち上げたが、すぐにいつもの食わせ者の顔に戻った。
「そうですよ。ああいう人だから、母のこともいいように使ってね。今は別邸で静養中です」
その言葉を聞いて、アミュウは聖輝と糺とのあいだの距離感に納得した。深輝が話していたとおり、糺は聖輝や深輝のことを、ミカグラの使命とやらのための道具として見ている節があるのだ。糺が息子を見る目には、父子の情のあたたかさが感じられない。
(ジークが言うように、聖輝さんが私やナターシャをいいように使っているだなんて、私は思いたくないけど……でも、自分がお父さんからそういう扱いを受けてきたから、無意識のうちに私たちのことをそういう風に見ている?)
アミュウは胸にずしりと重い砂のようなものが詰まるのを感じた。ジークフリートも同じことを考えているのだろう、「この親にしてこの子あり、だな」と呟いた。
さすがに聖輝も気分を害したのだろう。鋭い視線がジークフリートを射抜いた。
「聞き捨てなりませんね」
聖輝はめくれ上がった硬膏をぺり、と剥がした。
「拳で殴った後は、暴言ですか。獣が言葉を得たか」
ジークフリートの剣幕は一瞬のうちに燃え上がる炎のようだった。赤い癖毛が逆立つように見えた。
(いけない)
咄嗟にアミュウは二人にいざり寄り、間に割って入った。ジークフリートの目を見て無言で首を横に振る。剣呑な雰囲気が途切れると、ジークフリートは無表情で立ち上がり、客間を出て行こうとした。
「ジーク、どこへ行くの」
「ナタリアを捜しに、街へ降りる」
ジークフリートは抑揚のない声で言い残し、客間を出て行った。閉じられた襖を見ながら、アミュウは知らず胸に手を当てていた。苦しいのだ。ナタリアが飛び出し、ジークフリートは心を閉ざし、聖輝は使命とやらのことしか考えていない。アミュウは夢想家ではないが、それでも四人の間にいっとき確かに友情があったと信じていた。危ういバランスの上に成り立つものだと認識していたにせよ、四人でいるときの気安さは、同世代の友人のいないアミュウにとって貴重なものだった。アミュウがようやく得た居場所はほんの僅かなあいだに、音を立てて崩れていった。
「アミュウさん」
余程みじめな顔をしていたのだろう。聖輝が心配そうにアミュウの名を呼び、膝に置いた自らの手を持ち上げた。その手は僅かに震え、再び彼の膝の上に落ちた。アミュウは呟いた。
「もとに戻れないのかしら」
アミュウの声は土壁に、畳に、庭を見わたせる広窓に、吸い込まれていった。茫然として聖輝の目を見ると、何ひとつ動くもののない部屋の中で、そこだけが小刻みに揺れていたが、やがてその瞳の揺らめきは、ランプの灯りを火消し棒で落としたときのようにふっと陰った。露わになった頬の腫れは引き、今は青紫色の内出血が広がっていた。もう膏薬はいらないだろう。アミュウは畳に片手をつき体重を乗せると、その頬にそっと反対の手を伸ばした。
「しばらくは目立ちますね」
聖輝はアミュウの手に自身の手を載せた。その手はほんの二、三秒かさなったのちに、静かにアミュウの手を外しにかかった。聖輝はアミュウから視線をそらして立ち上がった。
「しかし、引き籠ってもいられません。今日は私も教会本山に顔を出しますが、アミュウさんはどうしますか。疲れているようだから、ここで休んでいたら」
「一緒に行きます」
アミュウも立ち上がった。聖輝は目を丸くした。
「すぐに帰れるわけではありませんよ」
「そのあと、ナターシャを探します」
「彼女は私から逃げたんです。教会周辺にいるとは思えない」
アミュウは首を横に振った。彼女の目には再び一番星のような光が宿っていた。
「ナターシャはきっと、今も小柄を持っています。あの小柄に施されていた彫刻は、十字の形。対になる刀は教会に関係しているんじゃないかと考えるのは、不自然ではありません」
そこまでひと息に言ってから、アミュウは口元に手を当てた。
「――そうだわ。あの正十字は、聖輝さんのマント留めや釦の意匠と同じだった」
「御神楽の家紋と同じ?」
聖輝も顎に手をあて、うつむき加減で考え込む。
「あの見合いの晩、結界越しだったので、私からは小柄がどんなものなのかよく見えませんでした。しかし、アモローソ王女が啓枢機卿の刀から奪い取ったのが、例の小柄だったのだとしたら、目当ての刀は御神楽に縁のあるものなのか……?」
アミュウははっとして聖輝に詰め寄る。
「ねえ、ひょっとして、このお屋敷に刀の手がかりがあるんじゃないんですか」
聖輝は浅く頷いた。
「その可能性は大いにあります。あとで父上と深輝に話を聞いてみましょう」
「刀が見つかれば、ナターシャともう一度話をすることができるかもしれないわ」
そこでアミュウはふと顔を曇らせた。深輝の言うとおり、聖輝はナタリアを殺すと運命付けられていたとして、本当にそのつもりがないのだろうか。
(わからない……とにかく、聖輝さんよりも早くナターシャを見つけないと)
そのためには、刀を探す必要がある。つい先刻は聖輝の頬に当てていた手を、アミュウは固く握りしめた。




