表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第五章 たそ歌う ありし日を

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

153/285

5-9.風呂

 御神楽家の当主・れいの帰宅は遅くなるようだった。主人を待たずして、アミュウたちはヤサカが手ずから用意した料理を口にすることになった。少しの肉と多くの野菜を炊き合わせた煮物、味噌汁、そして米を主食とした献立はあっさりとしていて、疲れた体と胃にやさしい。聖輝は夕食に同席していたが、深輝は食卓に姿を見せなかった。アミュウが深輝の具合について聖輝に訊ねると、聖輝はさらりと答えた。


「無理せず休むしかありません。心配ありませんよ」


 ヤサカも特に心配している様子を見せない。腑に落ちないながらも、アミュウはそれ以上立ち入って訊くことはしなかった。


 夕食後しばらく経っても糺は帰ってこなかった。失礼ではあったが、当主への挨拶は明朝に延ばすことにして、アミュウたち客人は先に休むこととした。

 寝る支度を整えていたアミュウの部屋に、十歳前後の少年がやってきた。少年は利発そうな目をくりくりさせてアミュウを見上げると、頭を下げた。


「お風呂の支度ができました」


 少年に促されて部屋を出たアミュウは、てっきり台所から湯桶をもらえるものかと思っていたが、連れられたのは台所よりもさらに奥まったところにある小部屋だった。


「どうぞ」


 その部屋はアミュウと少年が立ち入っただけでいっぱいになるほど狭く、流し台と造り付けの棚のほか、さらに奥の部屋へとつながる引き戸があった。訝しがりながらその戸を開くと、木のにおいとともにもうもうと立ち込める湯気がアミュウを包んだ。

 アミュウは言葉を失った。

 奥の小部屋には酒樽の倍以上は大きい木桶が据えてあって、中にはたっぷりと湯が張ってあった。どう考えても王侯貴族の使うような風呂である。少なくともカーター・タウンでは見たことがない。と、そこでアミュウは御神楽が枢機卿を歴任する一族であったのを思い出した。

 くらりと揺れる頭を押さえてアミュウは訊ねた。


「……これだけのお湯、どうやって用意したんですか?」


 少年はアミュウの反応が面白いらしく、ニカッと笑った。客人をもてなすたびに同じことを訊かれているのだろう。そういう笑い方をすると、年相応にやんちゃな表情がのぞく。


「ぼくが炊いたんです。その棒は熱いから、触らないでくださいよ」


 木桶の端から鉄のパイプがにょっきりと伸びている。巻き毛が触れないよう両手で髪を押さえて中を覗くと、熾火となった薪が入っていた。このパイプを熱することで湯を温めているらしい。桶の内側では、湯の中でパイプにうっかり触れて火傷するのを防ぐためであろう、パイプのまわりに板囲いが施されていた。


 風呂に入る前にかけ湯を流すこと、熱くなり過ぎたら水を足すこと、脱衣所にタオルや寝間着が用意してあることを説明して、少年は廊下へ出て行ってしまった。

 アミュウは戸惑いながらも衣服を脱いで戸棚に置くと、湯気のたちこめる浴室に入った。言われたとおりに体に湯をかけるが、床を濡らしてしまうのが申し訳ない。洗髪を終え、旅の汚れを湯で洗い流すと、アミュウはそれだけで充分な気がして、そのまま脱衣所に戻ろうかとも考えた。しかし、客人のためにせっかく湯を準備してくれた少年の苦労を思うと、少しはこの木桶の風呂というものを体験しておかなければ失礼になる。アミュウは風呂桶のへりに手をかけると、湯にそろりとつま先をつけた。


(熱い。でも、我慢できないほどではない)


 アミュウはそのまま片足を突っ込み、桶のへりを乗り越えてもう片足も湯につけた。冷えた足先がじんじんと痺れるが、それは心地の良い痺れだった。アミュウはゆっくりと尻を、そして腹を湯に沈めた。桶の底に尻がついたとき、湯は薄い胸元まで迫っていた。


 アミュウはつい先ほどまで、湯に浸からずに風呂場を出ようと考えていたことをすっかり忘れていた。体の中身が溶けて湯の中へ流れ出て行くかのようだった。アミュウは風呂桶のへりに首を乗せて、糸が切れたように脱力した。木の天井の手前で湯気がほどけ、高い位置にある格子窓の外へと逃げていく。大きく息を吸い込むと、しっとりと重みのある蒸気に樹木の芳香が混じっていた。

 その木のにおいをどこかで嗅いだことがある気がして、アミュウは目を閉じてぼんやりと考え込んだ。ツンと清々しい香りは針葉樹の香りだ。しかし、カーター・タウンのはずれの森は広葉樹の目立つ明るい森で、針葉樹はあまり育たない。


 芳香の正体が分からないまま、アミュウの思索の手はやがて姉へと伸びていった。こうしてアミュウが入浴を堪能しているあいだ、ナタリアは一体どこで何をしているのか。ソンブルイユのどこかに宿を取っているのだろうか。肩の痛みが残る中、不自由していないだろうか。アミュウはピッチのことを信用ならないと感じていたが、それでもそばにいれば多少の慰めになるだろうと、ナタリアと一緒にいてくれることを望んでいた。


 ナタリアの行方に思いを馳せ、突如アミュウはひらめいた。


 この木のにおいの正体は、あすなろだ。ロウランドの城のすぐそばに植樹されていたあすなろのにおいだ。

 アミュウの脳裏に、城を追われシグルドとともに森の中を逃げ惑った記憶がよみがえった。夜の森、遠くこだまする砲撃の響き、喊声(かんせい)と悲鳴、ハイヒールの足を苛む靴擦れの痛み。火の手の上がる城が目にうかんだところで、その光景はロサ・ガリカの放った業火に飲まれる森の小屋へとうつろった。アミュウはもともと閉じていた目をさらにぎゅっと瞑った。


 思えば聖輝ははじめから、アミュウの見る夢は聖輝やナタリアの失った記憶そのものだと言っていた。目蓋の裏に、セドリックの建ててくれた小屋を舐める炎の粉がちらつく。ナタリアは記憶を失った直後から小柄こづかを隠し続けていた。それは取りも直さず彼女が失った記憶を取り戻したがっているということなのだろうが、ほんとうにあの(・・)記憶を思い出すことが彼女にとって必要なことなのか? あの炎の中には侍女ジュスタもいただろう。城を失い、臣下や侍女を失い、愛する騎士を失い、御神楽卿を殺した記憶を思い出すというのは、そこまでの価値があることなのか?


 アミュウは裸の膝小僧を抱え、湯に口元をしずめた。いっぽうで、記憶があやふやで不安な気持ちもよく分かるのだ。

 シグルドから柘榴をもらった夢を見たあと、アミュウはシグルドの顔貌かおかたちを思い出せないことがひどく切なかった。大切な思い出であるはずなのに、誰よりも愛した人であるはずなのに、それらの宝物を包む深い霧は決して晴れることはない。そのもどかしさや頼りなさ、そしてそれらを忘れてしまったことで自分を責めたくなる気持ちも、アミュウは身をもって知っている。


(ナターシャはきっと、夢の話を聞いてしまったんだわ。でも、だからといってあの記憶を実体験として思い出させてはいけない。そしてもちろん、これから先は二度と聖輝さんと引き合わせてはいけない)


 アミュウが頭を振ると、頭に巻いたタオルからこぼれおちた毛束の雫が飛び散る。ずっとこの心地よい湯に浸かっていたい気がしたが、アミュウは立ち上がり、風呂を出た。

 身支度を整えて廊下に出ると、驚いたことに、少年が待ち構えていた。


「ごめんなさい。待たせてしまっていたわね」


 アミュウが謝ると、少年はなんでもないことのように首を横に振った。


「ずっとここにいたわけじゃありません。湯の番は、俺の仕事です」


 そう言って少年は、丈の短い着物から伸びた(もも)引きを膝小僧まで引き揚げ、浴室へ裸足で入っていった。立てかけてあった棒で湯をかき混ぜて手を差し入れ、温度を確認すると、風呂桶に丸い板を乗せた。そうして今度は風呂椅子を持ってきて踏み台代わりにその上に乗ると、パイプの中を覗きこんだ。


「よし、まだ燃えてる」

「あなたはここで働いているの?」


 忙しなく動き回る少年の背中に向かってアミュウは問いかける。少年は振り返りもせずに答えた。


「はい」

「いくつ? 名前は?」

「ヒコジ。十二です」


 途端にアミュウの頭に、カーター・タウンのイアン少年の姿が浮かんできた。まだ故郷を離れて一週間足らずだというのに、懐かしさが胸いっぱいに広がった。アミュウは口元が妙に緩まぬよう気をつけて礼を言った。


「ありがとう。とっても気持ちのいいお風呂だったわ」


 それからアミュウは部屋に戻った。驚いたことに、アミュウが自分の手で延べたはずの布団は、皺なくピンと張られていた。


(あの子が整えてくれたのかしら)


 アミュウは念入りに髪を拭いてから寝床に入った。不安で眠れないだろうと思っていたが、鬱々とした気分は風呂で垢とともに流れ落ちたようで、アミュウはすとんと眠りに落ちた。途中で襖が開いて、誰かが様子を見に来たような気がしたが、それが誰かも分からなかった。ヤサカやヒコジが世話を焼きに来たのか、あるいは。

 その人物は音も無くアミュウの枕元へと近付いてきた。そして大きな手がアミュウの額に触れた。アミュウは薄目を開けたが、すぐに閉じた。あまりに疲れていて、開けていられなかったのだ。

 アミュウは安心しきっていた。その人の体の作る影の広さも、においも、体温も、慣れ親しんだものだった。酒臭さに混じって甘酸っぱい芳香がアミュウの鼻腔をくすぐる。


(また林檎を食べたのね……)


 その気付きを最後に、アミュウの意識は眠りの底へと落ちていった。

 あんなに恐れていた夢は見なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Copyright(C)2018-志茂塚ゆり
cont_access.php?citi_cont_id=11211686&si

小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ